恋心
翌日、登校の途中、千歳は背後から肩を叩かれた。
「よっ」
結城慎一郎だった。
「お、おはよ……」
千歳は慎一郎の顔を見上げた。
クラスの男子で最も小柄な千歳は、長身の慎一郎相手だとどうしても見上げる格好になる。
「どした? なんか顔赤いぞ」
「な、なんでもないよ」
千歳は視線を足元にさっと落とした。
「風邪、長引いてるのか?」
「風邪?」
「最近風邪っぽいんだろ? そんで、移ったらまずいからって、俺のこと避けてただろ」
「ああ、うん。ごめん。だいぶよくなったよ」
実際は、風邪というのは嘘だった。それは慎一郎を避ける口実に過ぎなかった。
「そか、よかった。今日さ、俺ちょっと用事あって部活休むからさ、途中まで一緒に帰ろうぜ」
慎一郎はサッカー部に所属している。
「そうだね……」
「昨日のさ」
慎一郎は昨夜のテレビドラマの話を始めた。
千歳もふだんは見ているのだが、フチュとの遭遇でそれどころではなく、すっかり見逃していた。
街路樹の連なる二車線道路が、緩いカーブを描きながら住宅街を貫いている。
そこの歩道をしばらく歩くと、都立鋼野高等学校、通称「ハガコー」は現れる。
駅からやや離れているということもあり、静かで落ち着く環境だ。
しかし学校そのものはというと、規律が厳しく決して心落ち着く環境とは言いがたい。校門には、今日びマンガでもお目にかかれない「竹刀を持って生徒の遅刻や服装に目を光らせる体育教師」を観測することができる。
「おはようございまーす!」と爽やかに大きな声で挨拶する慎一郎の横で、千歳は目を伏せて「はよざいまつ……」と囁く。
彼はこの体育教師が苦手だった。なぜか分からないけど、いつもねっとりした嫌らしい目で千歳を見てくるからだ。
校門を通過し、校舎までの一本道を歩く。道の両脇では木々が葉を茂らせていて、優しい日陰を作り出している。蝉の合唱のシャワーが頭上から降り注ぐ。そよ風が葉を揺らし、それに合わせて木漏れ日がアスファルトの上できらきらと形を変える。
「そういやさ。例の不審者、まだ出るのか?」
一年二組の下駄箱に靴を仕舞い、上履きに履き替えているとき、慎一郎が訊いてきた。
不審者。つまりフチュは、慎一郎にも目撃されている。
昨日襲われ、そして紆余曲折の末に家に住まわせることになった、なんて言えるはずもなく、千歳は「ここ数日見てないよ」と嘘をついた。
なんだか慎一郎には嘘をついてばかりだとちょっと落ち込む。
一限目の数学の授業中、千歳は窓の外を眺めながらフチュのことを考えていた。
きっと彼はまだ寝ているだろう。朝家を出る前にクローゼットを覗いたら爆睡中だったし。
UFOの中と静けさが似ていて落ち着くということで、彼はクローゼットを寝床に選んだのだった。服を取り出す際に気を遣うので勘弁してほしいのだが。
意識を教室に戻すと、千歳の視線は最前列の慎一郎の背中に自然と引き寄せられる。
慎一郎は黒板とノートを交互に見て、ペンを動かし、時折考え込むように手を顎に添える。
ああ、見ちゃってたな……。そう自覚すると、千歳の胸に自己嫌悪が広がった。
昼休み、千歳はいつものように慎一郎と忍足空との三人で、中庭のクスノキの下のベンチでお弁当を食べた。
「僕はこう思うよ。早乙女くん、最近元気ないねって」
箸でから揚げを掴みながら、忍足はそう言った。
「ちょっと風邪ぎみでさ……」
千歳は、慎一郎にしたのと同じ言い訳をする。
「早乙女くん、から揚げは好き?」
「え? うん、好き」
「僕はこう思うよ。早乙女くんにから揚げいっこあげる。風邪のときはから揚げに限る」
忍足は弁当箱を差し出してくる。中には、から揚げが二つ残っている。
「ありがとう」
風邪のときは油っぽいものは避けたほうが無難だと思うけど、忍足の心遣いが染みて、千歳はちょっと目頭が熱くなりながら、から揚げをひとつ掴んで自分の弁当箱に移した。
「空んちのから揚げマジ美味いぞ、おすすめ」
慎一郎は言った。
「ポイントは秘伝のスパイスだよ。作ってるのは親だけど」
忍足はちょっと得意そうに答える。
「親御さんに感謝」
言うと、慎一郎は箸をのばす。箸は千歳の前を経由して、忍足の弁当箱に到達。目にもとまらぬ早業で残り一つのから揚げをかっさらい、慎一郎の口へゴールイン。
「うまっ! やっぱうまっ!」
忍足はから揚げの跡地を愕然と見下ろしながら「僕はこう思うよ」と言った。
「結城くん、君は僕を怒らせた」
「悪い。卵焼き渡すから許してくれ」
「仕方ないな」
二人のやり取りを見ていたら、千歳は自然と笑っていた。さっき貰ったから揚げを齧ると、慎一郎の言うとおり絶品だった。
「あ、猫!」
慎一郎が正面を指さして歓声をあげた。
千歳と忍足の視線は、慎一郎が指さすポイントに集まる。
中庭を横切る渡り廊下の屋根の上で、一匹の黒猫が香箱座りしていた。
「あいつ、俺らのことガン見してるな」
慎一郎は笑った。
「てか、最近よく学校で黒猫見るんだよな。誰か、餌付けでもしてるのかもな」
午後、千歳のクラスは、九月末に予定されている文化祭についての決めごとをした。
学級委員長の小御門理子が前に立ち、出し物の候補を黒板に綺麗な字で箇条書きしていく。
「はーい」
ギャル系女子の七瀬真凛が挙手する。
「メイド喫茶~!」
「ちょっとベタすぎじゃね?」
ある男子生徒が苦笑を漏らす。
「話は最後まで聞けし~!」
七瀬は男子生徒を流し目に睨みつける。
「メイドはメイドでも、やるのは男なわけ。どう? ナウくない?」
クラスがわっと湧いた。男子たちは「ふざけんな~」とブーイングを飛ばすも、中にはまんざらでもない笑いも含まれている。
「だってさー、絶対ウケるって!」
七瀬は、地毛と言い張れるギリギリを攻めたほんのり茶色い髪をいじりながら、意地悪そうな視線を千歳に送った。
「うちらのクラスには、絶対的エースのちーちゃんがいるし!」
名を呼ばれた途端、千歳はさっと顔を赤らめ、顔を伏せた。
「早乙女くんが困ってる」
そう小御門は注意するが、黒板にはしっかりと『メイド喫茶(男)』と書き記した。
「なんか期待されちゃってるみたいだけど、早乙女くん的にはどう? たぶんメイド喫茶やることになったら、早乙女くんに白羽の矢が立つのは避けられないと思うけど」
「僕は、その……」
千歳は顔を上げ、小御門を見た。
でも、小御門の眼鏡越しの冷たく鋭い目に射られ、千歳は逃げるようにまた顔を伏せる。
見なくても、クラスじゅうの一対の目が自分に向けられているのが分かった。
「おいおい」
慎一郎が手を打ち合わせて、一同の注目を引き取った。
「俺だって負けちゃいねぇぞ。メイド喫茶やるなら俺に任せろ」
そして彼は両手を組んで天井を見上げた。
「お前はちょっとゴツすぎ」「さすがに無理がある」「そのポーズはメイドじゃなくてシスターだろ」と次々にツッコミが入る。
千歳から注目をはがすために慎一郎が無理におどけているのを、千歳は分かっていた。
慎一郎とは小学一年生からの幼馴染で、ずっとそんな風に助けてもらっていた。
千歳は申し訳なく思うのと同時に、義理や友情とは色の異なる想いが積み上がっていくのを自覚し、また自己嫌悪に陥る。
「あ、猫ちゃん!」
誰かが叫んだ。
クラスの注目は、今度は教室後方に向けられた。
後ろの黒板の下に、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。昼休みに中庭で見かけた、あの猫だ。
「困るなあ」
教室前方の隅っこで椅子に座って居眠りしていた南先生がやおら立ち上がり、頭を掻いた。
「誰か摘まみ出して。俺猫アレルギーでさ。ちなみにアレルギー症状は耐え難い脱衣衝動です」
生徒たちが悲鳴をあげて黒猫に飛びかかっていく。
しかし黒猫はすいすいと攻撃をかわし、誰かの机に飛び乗り、また別の誰かの机へ移動し、クラスを翻弄する。
黒猫はどんどん南先生に近づいていき、いよいよメタボ中年脱衣ショー不可避かと思われたとき、じっと椅子に座っていた鬼塚ねねが手をすっと横に伸ばし、ノールックで黒猫の首根っこを掴み上げた。
黒猫はめちゃくちゃに暴れるが、鬼塚にじっと睨まれると、にわかに大人しくなった。
「でかした鬼塚!」
南先生は快哉を叫び、ワイシャツの第三ボタンから手を離した。
「ほら、はやく、外にポイしてきてくれ」
鬼塚は無言でこくりとうなずくと、教室を出ていった。小柄な彼女の背中が、やけに大きく見えた。