バイオレンス•イブ
次の週も、前週をコピペしたような、代わり映えしない日々を過ごした。
学校のみならず、家の空気も重くなっていた。歩もフチュの突然の失踪に心を痛め、日々悶々としていた。
二人きりの食卓がこんなにも静かなのかと、千歳は今ひとつ信じられない気持ちだった。父が鬼籍に入ってからフチュが現れるまでの数年間で、二人きりには慣れていたはずなのに……。
フチュがいかに賑やかで、明るくて、大きい存在だったのかを、彼がえぐっていった空白と向き合って初めて、千歳は悟ることになったのだった。
そして千歳は、今週末にとびきり憂鬱なイベントを控えていた。二木とのデートだ。むろんデートだと思っているのは二木のほうだけで、千歳は彼の機嫌を損ねないようにしぶしぶ付き合うだけだ。
二木と二人きりで出掛けるのは初めてだ。考えただけで胃に穴が空きそうだった。
憂鬱なイベントを控えた日々というのは、どうしてか恐ろしく過ぎるのが早い。あっという間に土曜日になり、千歳は夕方に家を出た。昼間でなく、暗くなってからの時間をあえて指定してくるあたりにも、どこか不安を覚えた。
待ち合わせは、繁華街とは反対方向の、閑静な駅だった。具体的な目的地は告げられていないので、不安はなおさら高まる。
最悪、二木の自宅に連れ込まれる恐れすらある。フチュがいてくれれば「お持ち帰りイベントに期待! 見せてもらおうか、二木のサイコパスヤンデレ攻めの性能とやらを」とか茶化してくれて、少しは気が楽になるのに。
「逃げなかったことを、まずは褒めてやろう」
改札前で待ち受けていた二木が、挨拶よりも先にそう言ってニヤリと口角を上げた。
「こ、こんばんは……」
千歳は目を足元に落とし、靴に語りかけるように呟いた。
「ボーイッシュな早乙女もそそるな」
今日の千歳は、パーカーとジーンズとスニーカー、そしてアウターはチェスターコート、といういでたちだ。
ボーイッシュもなにも、僕は男なんだけど……と尤もなツッコミが心に浮かんだが、ぐっと沈めて「ありがとうございます」とぎこちなく笑った。
頬が引きつって、見る人が見れば彼のストレスを汲み取るのは容易であろうが、幸か不幸か二木は気づく様子がない。
「素直になってきたな。いい子だ」
二木は人目も、相手の心も憚らず、千歳の頭をそっと撫でた。
千歳は屈辱で顔が歪む。睨み上げてやりたいけど、そうもいかない。
二木に連れられ、住宅街を進んでいく。
すっかり日は沈んでいた。街灯に炙り出された影に目を落として、千歳は黙々と道を歩いた。
やはり行き先は二木の自宅かと、焦燥感が募り始めた矢先。
「着いたぞ」
二木が立ち止まり、言った。
千歳は伏せていた目を上げた。
目の前にあったのは、六階建ての廃ビルだった。廃ビルといっても、窓はひとつも割られておらず、落書きも見当たらない。綺麗なものだ。つい最近までは現役だったと想像できる佇まいだ。
「えっと、ここは……?」
まさか、二木の自宅というわけではあるまい。綺麗といっても、それはあくまで廃ビルとしては、という意味で、ここが自宅だとしたらちょっと反応に困る。当然明かりはひとつも灯っておらず、窓の向こうには暗闇が詰まっている。外観が綺麗でも、生活感が欠如すると建物は一気に老け込む。生活感は建物の魂で、ここにはそれがない。
「ここは、そうだな、ひと言で言うなら、秘密基地だ」
「秘密基地?」
聞き馴染みのない言葉に、千歳は面食らう。
「俺は、君が怖がるような連中との繋がりもあってね。ここは、そんな奴らとつるむのによく使うんだ」
「ここで、何をするんですか?」
質問に答えず、二木は千歳の腕を掴むと、ビルの裏手へと引っ張っていく。
「離してください!」
千歳は恐怖に耐えきれず、体をめちゃくちゃによじって抵抗した。
そのとき、ひと際強くぐっと引っ張られ、次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「……え?」
頬を張られたのだと分かるまで、数秒要した。
「俺に逆らうな」
二木は千歳に顔を寄せ、囁くように、だけど強い調子で言った。
千歳は呆気に取られて、されるがままに裏口から廃ビルに引き入れられ、一室に連れていかれた。
部屋は、もともと会議室だったのか、ホワイトボードと、パイプ椅子が数脚無造作に置いてある。窓から月明かりが差して、床に冷たい色の溜まりを作っている。
「座れ」
命じられるまま、千歳は手近なパイプ椅子に腰を下ろした。
二木は、部屋の中央に置いてあるLEDランタンを灯して、室内に暖色を広げた。
「そのままじっとしていろ」
二木は背後に回り込むと、千歳の両手を無理やり後ろ手にさせ、手際よく何かで拘束した。
「な、なにを!」
千歳が立ち上がろうとすると、髪を掴んで押さえつけられ、また頬を張られた。
「じっとしてろと言ったはずだッ!」
輪っかが二つある手錠のような形の結束バンドで、千歳は足も拘束された。手にも同じ物が使われているのだろう。
二木は別のパイプ椅子を千歳の前に持ってくると、反対向きに置いて、背もたれに覆い被さるようにして座った。
「なあ、早乙女くん。君は、俺のことが嫌いだろう?」
「そ、そんなことは……」
「結城慎一郎か?」
「え?」
「君の想い人は、あの頭の悪そうな野郎か? いつまであんなのに固執するんだ? ツラだけはまあまあだが、それだけの男だろうに」
「あなたに、慎一郎の何が分かるんですか!」
つい、口をついて出た。
直後に後悔したが遅く、またビンタが飛んだ。
弱火で炙られてようやく沸騰したように、千歳の目に涙が浮かんだ。
「誓え」
二木は椅子から立つと、千歳の顎を手で押し上げ、顔を近づけた。
「結城慎一郎とは縁を切ると」
千歳は反抗的な目で二木を睨み上げた。
不思議と、もう恐怖感はなかった。ただ目の前の卑劣漢が憎くて仕方なかった。
そして、言われるまでもなく慎一郎とは縁を切ろうと心に決めていたにもかかわらず、二木への反抗心がその決意を揺るがせた。
「慎一郎のことが好きか、好きであるべきなのか、好きでいいのか、それは今の僕にはよく分かりません。でもひとつだけ確かなことがあります。それは、僕は何があっても、あなたのことだけは決して好きにならないということです!」
「早乙女ェッ!」
二木は千歳の髪を掴み、床に引き倒した。一緒に椅子も倒れ、かしゃんっと乾いた音が空虚に響いた。
両手両足を拘束されている千歳は起き上がることができず、ただ身を縮めた。
「いかんいかん」
二木はかぶりを振った。
「最近の俺は短気でいけない。こういうときは円周率を唱えるんだ……語呂合わせはいけない。心を落ち着かせるには数字に心をフォーカスさせる……3.14159265358979323846……」
ぶつぶつ言いながら、二木は千歳のことなんて忘れてしまったかのように、ふらふらと部屋を出て行った。
一人になると、思い出したように頬が痛みを訴えてきた。けっこう強くぶたれた。
手足に力をこめるも、拘束バンドが外れる気配はない。もぞもぞと芋虫みたいに無様に床を這いずり回る。
「どうしよう……」
僕はどうなるのだろう? 二木の気迫は異常だった。下手したら僕は殺されてしまうかもしれない。千歳は本気でそう危惧した。
「フチュ……」
思わず、助けにきてくれるはずのない者の名を呟く。
「慎一郎……」
そして、今ごろ海辺の温泉街にいるであろう幼馴染の名前も、自然と口からこぼれる。
ああ、そういえば、と千歳は思った。今日はクリスマスイブだ……。
無力感だけが募っていく。千歳はそっと目を閉じた。
がちゃりと、ドアが開く音がした。二木が戻ってきたのだろう。
瞼を閉じたまま、千歳はジッとしていた。殴ろうが蹴ろうが好きにしろと、やけっぱちな気持ちになっていた。
「早乙女くん」
その声は、二木のものではなかった。




