早乙女千歳の爆発
翌日の月曜日。
五十嵐は朝からきちんと学校に来て、席に座っていた。そばを通るときに「おはよう」と千歳が声をかけてみると、五十嵐はふだんどおりのぎらついた目つきで「おう」とだけ答えた。
まるで恥ずかしい写真の流布も、昨日の電話も、すべて夢だったかのように、彼はどっしりと構えている。「ご主人様に対してそんな態度でいいのか?」と顎クイしてやりたい衝動に駆られるが、もちろんこらえる。
千歳は自席についてからも、五十嵐を気にしていた。
オオカミさんが五十嵐に近寄っていき、肩を叩いた。五十嵐は肩を跳ね上げて驚き、目を丸くしてオオカミさんを見て、子犬のように縮こまって何かを答えた。その様子を見ていた千歳は吹き出しそうになった。
一方で、慎一郎は明らかに先週の一件を引きずっていた。いつもなら必ず千歳の席に寄ってきて爽やかな挨拶をくれるのに、今朝は自席でじっとしている。
小御門が慎一郎に近づいて声をかけた。慎一郎は輝かしい笑顔を彼女に向けた。
その光景を見た千歳の表情は思わず曇るが、モヤモヤする道理も資格もないのだと自らを戒める。
相変わらず、クラスのみんなが自分を軽蔑しているように思えた。いつもなら気さくに話しかけてくれる人たちも、ちょっかいをかけてくる人たちも、どこか千歳に対して壁を作り出しているように感じられた。
放課後になると、千歳はそそくさと逃げるように教室を後にした。フチュがその背中を追う。
「もうさ、気にするなよ、千歳」
「……気にするなって、何を?」
「写真のことさ。クラスの連中は気にしていない」
「本気で言ってるの?」
「むろん本気だ。こんなところで冗談を言ってどうする? クラスの連中はみんな、お前を軽蔑するどころか、畏怖の念を抱いている」
「畏怖? どうして?」
「五十嵐を攻めて屈服させたのは、紛れもなくジャイアントキリングだ」
千歳は呆れ果てて、首を振った。
「僕のことはどうでもいいんだ。五十嵐くんの名誉はどうなるの?」
「名誉? 何を言っている? 奴は生粋のドMだ。お前に調教されて喜んでいたではないか」
「そうかもしれない。五十嵐くんにはそういう側面もある。そうかもしれない。でも、できることなら彼は、それを隠していたかったはずだよ」
「隠してどうする? フラストレーションが溜まるだけだ。そういうものは解放するべきなのだ。そうでないとおもしろくない」
「フチュって、ほんと自分の楽しみのことしか考えてないんだね」
「ああ、そうだ。私は欲望に忠実だ」
「フチュ、もうやめよう」
「何を?」
「僕が男の子といろいろして、フチュがそれを見て楽しむってやつさ」
「おいおい話が違うぞ!」
靴を乱暴に履いて足早に昇降口を出て行ってしまう千歳に追いすがり、フチュは懇願するように言う。
「お前をノンケにする計画はどうなる? いいのか? 腐力は順調に溜まってきている。あと一歩でお前は、私のハンドパワーで念願のノンケに生まれ変わることができるのに?」
「もう、いいんだ」
慎一郎と決別して、もう熱意は失せた。もういいんだ。千歳は、自らにそう言い聞かせる。
「よくないだろ!」
フチュが千歳の肩を後ろから強く掴む。
「いいんだってば!」
千歳はフチュの手を乱暴に振り払った。
彼の表情には、かつてないほどの悲壮感が表出していて、さすがのフチュも言葉を失った。
「もう終わりだ! ぜんぶ、終わりだ!」
腐力稼ぎを終わりにするという意味で言ったはずなのに、千歳自らの耳には「人生終わりだ」といった自暴自棄なニュアンスの響きが強く残って、我ながら息をのんだ。
下校中の生徒たちが何事かと一瞥し、興味を示しつつも、関わり合いを避けるように校門へ歩いていく。
フチュが愕然と固まっているのを見て胸がすっとしたのは一瞬だけで、すぐに「性格悪いな僕」と自覚し、揺り戻しで数倍大きな自己嫌悪が襲ってきた。
にわかにフチュに謝りたくなった。でも一度矛を突き出してしまった手前、なかなか引っ込みがつかない。制止する理性を、感情が振り切ってしまう。
「ぜんぶフチュのせいだからな! フチュが現れさえしなければ、僕はこんなミジメな思いをすることもなかった!」
止まらない。
「慎一郎とだって普通の友達でいられた! モヤモヤをかかえつつも仲良くできていたはずなんだ!」
止まらない。言うべきじゃないって分かっているのに、本心じゃないって分かっているのに、燃え滾る激情が言葉の火薬に否応なく火をつける。
「フチュなんか大嫌いだ!」
千歳はフチュに背を向けて足早に歩き去った。ひとまず今は彼から離れたかった。これ以上怒鳴ったら泣いてしまいそうだったし、謝るなら家に帰ってからでも遅くないと思った。
家に帰るまでの記憶はほとんどなかった。玄関の鍵を開けて中に入り、一瞬迷ってから鍵を開けっぱなしにしておいた。
自室に入ってベッドに寝転がると、自分がかなり疲れていることを自覚した。
眠気は都合がよかった。ひと眠りすれば気持ちもリセットされるだろうし、フチュが帰ってくるまでの時間を消し飛ばせる。
目を閉じ、開けると、窓の外は藍色に沈んでいた。壁掛け時計を見上げると、時刻は十九時近かった。一階からは、包丁がまな板を叩く音がする。
「母さん、フチュは?」
一階に下りて、キッチンで歩に尋ねた。
「フチュくん? 千歳と一緒じゃないの?」
「え? いないの?」
「私は仕事から帰ってきてからは見てないよ。夕ご飯どうしようね?」
千歳の胸に、急速に暗雲が立ち込め始める。念のため家じゅうを探してみたけど、やっぱりフチュはいない。
「母さん、僕ちょっと出かけてくる」
「え、ご飯は?」
「残しておいて。帰ったらフチュと一緒に食べる」
スマホと鍵と定期だけを持って千歳は家を飛び出した。
どうせ拗ねてどこかで道草を食っているだけだと半ば確信していたけど、その確信の隙間を嫌な予感が流れてくるのを如何ともしがたい。
学校までの道のりで、フチュとはすれ違わなかった。そして学校は校門が閉まっていた。
ふと、千歳は視界の隅に光の粒を捉えた。
見ると、光の粒は、夜空を瞬く間に横切って、地平線に沈んで消えた。
流れ星?
いや、あるいは……。
「フチュ……?」
千歳は、フチュの乗ったUFOが空を駆ける様を想像した。
こうして、フチュは千歳の前から姿を消したのだった。




