オオカミさん
「――で、返り討ちにされてしまったと?」
傷だらけのフチュの顔に絆創膏を貼ってやりながら、千歳は呆れ顔で言った。
「だってよぉ、あいつよぉ、めちゃくちゃ強くてよぉ……」
フチュが帰って来なくて心配で、千歳はずっと起きていた。そして午前二時、フチュが全身ボロボロで帰ってきて、ぶったまげた。
ひとまず自室に寝かせ、応急処置を施しながら事情を聞いたのだった。
「そりゃボクシングやってるんだから強いに決まってるじゃん」
千歳は、体の傷を確かめるため、床でぐったりするフチュのワイシャツのボタンを外していく。
「千歳がフチュのシャツのボタンに手をかける。ひとつ、またひとつとボタンを外すたびに、千歳の吐息は荒く熱くなっていく……」
「いやなってないから。くだらないこと言ってないで、ほら、腕上げてよ」
「あいたたたた! 優しくして! ああん!」
苦労してワイシャツとインナーを脱がせると、体は痣だらけだった。
千歳はフチュの体を拭いて、清潔な寝間着を着せてあげた。
「ねえフチュ」
「なんだ?」
「僕のために、二木先輩に挑んでくれたんだよね?」
「いや、己のためさ。私の、私のための怒りが、私を行動へと駆り立てたのだ」
「そっか。ありがとう」
「今日は添い寝してくれ」
「いいよ」
「いいのか。調子狂うな」
有言実行で、千歳はせせこましいシングルベッドでフチュに添い寝してあげた。
「よくBLマンガでさ」
外側を向いたまま、フチュが背中越しに言った。
「家に泊まってそういうことになるシーンがあると、必ずベッドがキングサイズだよな。一人暮らしって設定なのに」
「たしかに、男二人が寝て十分なスペースがあるよね」
「実際は私たちのような感じになるはずだ」
「たしかにすごく狭い」
シングルベッドに男二人はさすがにきつい。千歳が小柄だからなんとかギリギリ収まっているけど、寝返りすらままならない。
「フチュって変身できるじゃん?」
「ああ」
「変身して体のダメージをリセットすることはできないの?」
「そんな世界的人気マンガの巨人みたいなことはできん。変身してもダメージは残る」
宇宙人の体も万能ってわけではないようだった。不死身が売りのフチュだが、それはあくまで寿命の話でしかないようだ。
「ところで」
仕切り直すように、フチュは声を落として言った。
「慎一郎とは、仲直りできそうか?」
「する必要、ないよ。これで、よかったんだ。いい機会だよ」
自らの心に幾重にも刷り込むように、千歳は細かく刻んで言った。
「結果として、慎一郎を諦めることができた」
「本心か?」
「本心だよ」
「そうか」
夜が去り、日が昇り、部屋に光が広がり始めた。
フチュがベッドから落下してあげた悲鳴で、千歳は目覚めた。
「おはよう。大丈夫?」
「まぢ死んだ……」
千歳は肩を貸して、フチュをベッドの上に戻し、自分は一階に下りて朝食を食べた。
「フチュくん、あの怪我どうしたの?」と心配そうに尋ねる歩に、「階段から落ちちゃったんだって」とベタな言い訳をする。
午前休を取って病院に連れていこうかと提案する歩に、千歳はやんわりと断りをいれる。
フチュは体の負傷を細かく自覚する能力があるそうで、特に深刻なダメージはないと言っていた。今はなるべくジッとして、回復に専念するのがいい。
千歳は朝食を終えると、使った食器を洗い、歯を磨き、リビングのソファに座ってスマホと向き合った。LINEを送ろう。相手は五十嵐だ。
例の写真がクラスに広まったことの一番の被害者は、五十嵐だ。完全にとばっちりだ。そう千歳は考え、心からの謝罪文を送った。
最後に、できたら直接会って謝りたいと付け加えた。それがダメなら、せめて電話で、と。
そわそわして落ちつかず、一分おきくらいにスマホをチェックしてしまう。けっきょく一時間後に既読がついたけど、返信は一向に来ない。
「やっぱり怒ってるよね……」
千歳はソファに寝転がってため息をついた。ひじ掛けに足をのせ、落ち着かなそうに左右に動かす。
でも、かといってここで不貞腐れて放り投げてしまうわけにはいかなかった。千歳は、今度はオオカミさんに「今ちょっといいかな?」とLINEを送った。すぐに「どしたー?」と返ってきた。それだけで涙が出そうだった。
いざ考えを文字にしていくと、まとまりを欠いて、読み直すと何が言いたいのか分からない文章になってしまった。
頭を悩ませていると、「とりま会う?」とオオカミさんのほうから誘ってくれた。
はっきり言って、オオカミさんは怖い。気のいい腐女子だと判明したとはいえ、やっぱりヤンキーはヤンキーだし、肉食獣の迫力を湛えたその姿を前にするといつも緊張する。
しかし逃げ出すわけにはいかない。千歳は「ぜひ、そうしてもらえると嬉しい!」と返し、ゆるキャラがペコリと頭を下げるスタンプも送った。
外着に着替えて家を出て、電車に乗った。
千歳が駅の改札を出てきょろきょろしていると、柱にもたれていたオオカミさんが片手をあげて「よお」と声をかけてくれた。
彼女は、スキニージーンズと、海外のロックバンドのロゴがプリントされたオーバーサイズの黒いロンT、そしてサンダルという格好だった。
「今日はフチュは一緒じゃないのな?」
「うん。ごめんね」
「なんで謝るんだ?」
「いや、オオカミさん、フチュと仲いいからさ」
「BL趣味で繋がる心だけの関係さ」
健全なのか不健全なのかよく分からない関係である。
チェーンのカフェに入って、飲み物を注文する。自分のほうからいきなり連絡したのだからと、千歳は「僕が払うよ」と申し出た。でもオオカミさんは「彼氏ヅラすんなよ」と嫌味のない笑いを返し、なぜか千歳のぶんまで払ってくれた。
千歳は恐縮して二人用のテーブル席につき、オオカミさんと向き合った。
そして、まず喫緊の不安を口にした。
「オオカミさんは、僕のこと怖くないの……?」
「怖い?」
オオカミさんは目を丸くした。すると彼女は、一気に小動物じみた愛らしさを顔に獲得した。
「あたしが、お前を?」
「うん……。だって、ほら、もう知ってるんでしょ? 僕がどんな人間か……」
「ああ、あのSM写真のこと言ってる?」
やっぱり、写真は出回っていたのだ。
分かっていたけど、こうしてはっきり言葉にされたことで最後のドアも閉じられ、小さな希望の光もすっかり締め出されてしまった。
「うん……」
「ごちそうさまでした」
オオカミさんはそう言うと、両手を合わせて目を閉じた。しかし彼女のキャラメルフラペチーノもチーズケーキも、まだほとんど手つかずである。
「おいしいBL、ゴチでした」
あ、そっちね……。
「イキってるヤンキーが気弱な同級生に調教される下剋上シチュ、大好物なんだよ。もっと他に写真あったらあたしにこっそり回してくんね?」
「ははは」
千歳の口から安堵の笑いがこぼれた。一気に気持ちが楽になった。
そこからは、スムーズに話をすることができた。
千歳は大まかないきさつを、喋れるところはすべて話した。五十嵐には申し訳ないけど、彼が実はオオカミさんのことが好きで、一目置かれるためにヤンキーを演じていたことも、実はただのいい人であることも、話した。
そして、それをネタに自分は五十嵐を脅していたことも打ち明けた。
オオカミさんは腕を組んで、険しい顔で千歳の話を聞いていた。
語るべきことを語り終えると、千歳は来たるべき叱責に備えて身を縮め、視線をブレンドコーヒーの水面に落とした。しょぼくれた自分と目が合う。
「知ってるよ」
「え?」
千歳は素っ頓狂な声を出し、さっと顔を上げる。
「五十嵐のイキりが演技だってこと。とっくに知ってる」
「そうだったの?」
「ああ。あいつ演技ヘタクソすぎんだよ。あいつが、困ってる奴を放っておけない性格だってことも知ってる。何度か現場見てるし」
「そうだったんだ」
「でも、そうか。あいつ、あたしのこと……」
オオカミさんは頬杖をついて目を泳がせ、心なしか赤くなっている。
「オオカミさん、もしかして、五十嵐くんのこと……」
口にして、後悔した。ちょっと不躾すぎる。
でもオオカミさんは気を悪くした様子も見せず、口をとがらせて「嫌いでは、ねぇよ」と言った。
「え。ほんと? 十段階で言ったら、どれくらいの好き具合?」
千歳は我がことのように興奮し、身を乗り出して尋ねた。
「六、くらい……? いや、七、かな……」
オオカミさんは目を逸らしたまま、ぼそぼそ言う。
「やった!」
思わず千歳は大きな声を出してしまい、慌てて周りの席に「すみません」と頭を下げた。
「てか、なんでお前がそんなに興奮してんだよ?」
「だって、五十嵐くんの気持ちが、報われて、僕、嬉しくて……」
涙がこみ上げてきて、ぼろぼろとこぼれた。ほんと最近泣いてばかりだ。
「おいおい」
オオカミさんが狼狽えた様子で周囲を見やる。
「あたしが泣かせちゃったみたいじゃんかよー。大丈夫か? いないいないばあしてやろうか?」
「ごめん」
千歳は袖で涙をふく。
彼が落ち着くのを、オオカミさんは辛抱強く待ってくれた。
「オオカミさん、お願いがあるんだ」
目を赤くした千歳が、洟をすすって言った。
「聞くだけ聞く」
「五十嵐くんに、その気持ちを伝えてあげてくれないかな?」
「あたしがあいつに、十段階で言ったら七くらい好きだよって言ったら、お前は気が楽になるのか?」
「うん」
千歳は力強く、迷いなくうなずいた。
「気が楽になったら、ちゃんと学校来られるか?」
「え? 僕、今のところ高校は皆勤賞だよ?」
「でも来週休むつもりだったろ? 教室にいづらいって理由で」
オオカミさんの鋭さに、千歳は言葉を失った。図星だった。
「どうなんだ?」
「うん。行くよ、ちゃんと」
「そか。じゃあいいよ。五十嵐に気持ち伝えておく」
そのあとは、たわいない雑談をして過ごした。オオカミさんは、思っていたより、というか思っていたのとは正反対に、びっくりするほど話しやすかった。
程なくして店を出て、二人は駅の改札で別れた。




