決別
伊集院から借りた黒い傘をさして道を歩き、千歳は慎一郎の家の前に来た。
深呼吸をしてから、チャイムを鳴らした。すると、慎一郎本人がインターホンで応じた。
「おお、千歳。どうした?」
インターホンのカメラで千歳を認めた慎一郎が、いつもと変わらない調子で尋ねてくる。
千歳はちょっと拍子抜けした。
「いや、風邪だって聞いたから、ちょっと心配になってさ。でも元気そうでよかった」
「ああ。体調は、そんなに問題ない」
顔を見たいと思っていたけど、声を聞いたら不思議とモヤモヤが氷解した。
「そっか。じゃ、また学校でね」
千歳が踵を返そうとするのを、「待ってくれ」と慎一郎の声が呼び止めた。
「ちょっとあがっていかないか? 実は風邪ってのは嘘でさ。ただの仮病なんだ」
「あはは。やっぱりね」
千歳は笑った。
「慎一郎は風邪ひかないもんね」
「人を馬鹿みたいに言って」
慎一郎がインターホン越しに吹き出して笑った。
「うん、じゃあ、ちょっとあがっていこうかな」
慎一郎の家にお邪魔するのは珍しいことではないけど、やっぱり誘ってもらえると嬉しい。
玄関で慎一郎に出迎えられ、「部屋で待っててくれ」と二階へ送り出された。
いつでも綺麗に片付いている慎一郎の自室に、千歳は入る。ラグマットに腰を下ろし、何もせずにじっと慎一郎を待った。
慎一郎が木製のトレイに二人分の飲み物とクッキーを載せて部屋にやってきた。今日は気温が低いからか、ホットの紅茶を用意してくれている。
慎一郎は折りたたみの小さい座卓にトレイを置くと、自分は学習机の椅子に座った。
千歳は紅茶に口をつけながら、上目遣いに慎一郎の顔をうかがった。
慎一郎は両手でスマホを握りしめたまま、どこか気まずそうに目を泳がせている。
千歳が「どうかした?」と尋ねるより早く、慎一郎が「俺は」と、どこか悲痛さを滲ませた声で話し始めた。
「俺は、お前のことを一番の友達だと思ってる」
千歳の胸がずきんと痛んだ。「ただの友達」と言われる以上に、「一番の友達」と言われるのは、こたえるものがあった。
「ただの友達」なら、まだ恋人に昇華される余地があるように思える。でも「一番の友達」は、その足場があまりにも盤石すぎて、良くも悪くも変化の気配を感じ取れないのだ。
いや分かっている、と千歳はショックを押しとどめる。
僕は慎一郎を諦めると決めた。そのためにフチュのろくでもない道楽に付き合うことにした。だから僕がここでショックを受けるのは間違っている。身の程をわきまえろ、僕。
「どうしたの、急に」
千歳は無理に笑顔を作って言った。
「だからさ、お前が誰と何をしようと、俺とお前の関係は変わらない。今までどおり仲良くしていきたい」
「う、うん」
いつになくシリアスな語り口に、千歳は思わず背筋を伸ばす。
「それを念頭に置いたうえで、答えてほしい。千歳、これはどういうことなんだ?」
慎一郎はスマホを千歳に差し出した。
「え」
受け取ったスマホに表示されている写真を認識した瞬間、千歳は凍り付いた。
写真には、脚を組んで椅子に座る千歳と、床に跪く五十嵐の姿が写っていた。千歳はサディスティックな笑みを浮かべ、片手には紐が握られている。その紐は五十嵐の首元に繋っている。五十嵐は首輪をしていた。
もしかしてと思って写真を横にスワイプさせると、今度は千歳が五十嵐を顎クイする写真が現れた。そして、もっと過激なものも。
「こ、これは、その……」
かつてないほど、千歳は動揺していた。脳が痺れ、目頭に熱が集まる。
一拍遅れて、別の理解が追いついた。昨日からクラスのみんなが妙によそよそしいのは、この写真を見たからなのだ。すでに千歳の秘密は、クラスじゅうに広まってしまっているのだろう。
脇の下やてのひらに汗が滲み出てくるのが分かった。呼吸が徐々に荒くなり、吐き気すらこみ上げてくる。
「千歳、大丈夫か?」
慎一郎は椅子を立ち、千歳の隣にしゃがんで肩を抱いてくれた。
その優しいぬくもりが、千歳を妙に冷静な気持ちにさせた。ついさっきまであった、絶望と言っても差し支えない規模の混乱がさーっと引いていき、一抹の鋭い感情だけがそこに残った。
千歳は慎一郎の手を振り払って、すっくと立ち上がった。
「千歳……?」
「僕、帰るね」
千歳はバッグを掴んで、ドアを開けた。
慎一郎は呆然と固まって、目だけで千歳の動きを追っていた。
廊下に踏み出すと、千歳は一度後ろを振り返った。そして言った。
「質問に答えてなかったね」
「え?」
「さっきの写真、あれはフェイクでもなんでもない。本物だよ。誰がどうやって撮ったのかは知らないけど、油断した」
「……」
「慎一郎は優しいから、何かやむを得ない事情があったんだと思ってるよね。でも違うよ。それは僕が好きでやったことだ。そこに、同情されるべき深刻な事情なんてひとつもない」
「……」
「しょうじき言って、気持ちよかったよ。自分より圧倒的に強い相手を屈服させるのはゾクゾクした」
「千歳……」
「僕はそういう人間なんだ。弱いし、みっともなくて、そして異常なんだ。慎一郎の一番の友達にふさわしい人間じゃない」
千歳は口元を笑いの形に歪めて、部屋の中でしゃがんで固まる慎一郎を冷たい目で見下ろした。
「ばいばい、結城くん」
千歳は階段を駆け下りて、玄関を飛び出した。
道を進むにつれて、冷酷な仮面がぼろぼろ剥がれ落ちてきた。口角は下がっていき、目尻もそれに連動した。くしゃっと表情が歪んで、目から大粒の涙があふれ出した。
すれ違う人々が何事かと一瞥をくれる。
雨が制服に十分しみ込んだとき、慎一郎の家に傘を忘れてしまったことに気づいた。でも構わず歩き続けた。
ちょうどひと気のない狭い路地を見つけ、千歳はそこに身を滑り込ませた。ゴミの集積所らしく、気の早い近隣住民が置いた丸々と太ったゴミ袋が積み上がっている。
千歳はゴミの山の陰に隠れるようにしゃがみこんで、膝をかかえて声をあげて泣いた。洟をすすって、嗚咽を漏らした。
「千歳」
声がした。
顔を伏せていても、相手が誰かは声ですぐに分かった。
雨粒がビニールかポリエステルをバタバタと打つ音がするので、その人物が傘をさしているのも分かった。
「なんでここが分かったの、フチュ」
「ゴミ捨て場にイケメンが落ちているのはBL本のテンプレだ」
全く答えになっていないけど、どうでもよかった。
千歳は顔を上げると、空に向かって落ちるように、フチュの胸へ飛び込んだ。
フチュは千歳の髪を撫で、「今は好きなだけ泣くといい」と優しく言った。
「ありがとう。優しいところもあるんだね」
「お前の泣き顔、ほんとゾクゾクするからさ」
「こいつ~!」
千歳は顔をフチュの胸に押しつけたまま、回した腕で背中をぽこぽこ殴った。
「ははは」
フチュは小さく笑った。
「それで、いったい何があった?」




