断章 千歳くんと女装
ある休日。
「ち、ちちちち千歳! お前……!」
自宅の姿見の前で服装をチェックしている千歳を見たフチュが、顔じゅうに驚愕を広げてガタガタ震え始めた。
「あ、フチュ……えっと、これはさ、ワケがあってさ……」
「千歳ェ! お前、やっぱり女装の趣味があったのだな!」
「やっぱりって……」
フチュの言うように、千歳は今、レディースの服を着用している。純白のワンピース姿だ。
「こりゃ文化祭のメイド喫茶も期待大だな!」
フチュは鼻息を荒くし、なぜかスクワットを始めた。
「シンプルなワンピースでそのクオリティなんだから、メイド服なんて着た日にゃカンストして女の子すら超えた究極生命体にでも進化してしまうのではないかにゃー!? 女装男子サランヘヨ~!」
フチュが壊れた。もともと壊れているけど。
さて、千歳がワンピースを着ることになったのには、むろん理由がある。
数日前のこと――。
『早乙女。折り入って相談があるんだけど、いいかな?』
休み時間にクラスメイトの吉田くんが千歳の席に来て、深刻そうに切り出した。
吉田くんとはほとんど接点がなかったから、千歳は狼狽えた。でも相談があるという相手を無碍にはできない。
『うん、なに?』
千歳がにっこりと応じると、吉田くんは空いている隣の椅子に腰を下ろした。
そして躊躇いがちに、躊躇うのが当然のことを言い放った。
『今度の土曜、俺とデートしてくれないか?』
『え』
呆気にとられ、瞬間冷凍されたように千歳は笑顔のまま固まった。
『ダメかな?』
『えっと、ごめん』
千歳はたじたじになる。
『吉田くんの気持ちは嬉しいんだけど、僕は、その……』
『あ、わりぃ、俺の言い方が悪かった。そういう意味じゃないんだ』
吉田くんは語った。彼は夏休みの終わりに、中学時代の友達数人と会った。その中に、市子という女の子がいた。彼女とは中学のとき、三年間同じクラスだった。ちょっと影のある、だけど心優しい子だった。
そしてその日、お開きのあと、吉田くんは市子に呼び止められた。で、なんと、告白を受けたのだという。
『ええ、すごい!』
千歳は吉田くんの両手をとって、我がことのように喜んだ。
『おめでとう!』
『あ、ありがとう』
吉田くんはちょっと頬を赤くし、目を泳がせた。
『でも、俺、断ったんだ、告白』
『え、そうなの?』
『うん。そしてそれが、早乙女をデートに誘った理由なんだ』
市子は、吉田くんのことがずっと好きで、でもけっきょく告白をできずに中学を卒業し、高校が別々になってしまった。それをずっと悔やんでいたので、集まることになったのを好機と、思い切って告白をした。
でも吉田くんは、今現在別に好きな人がいる。そのことを彼は、市子にはっきりと伝えた。でも市子は食い下がった。『まだ付き合っているわけではないのでしょう?』と、恋人の席に割り込もうとぐいぐい来た。
『それで、俺はつい嘘を言っちゃったんだ。もう付き合ってるって……。来週の土曜日にはデートの予定もあるって……。でも市子ぜんぜん信じてくれなくて、じゃあ次の土曜デートを見学してもいいかって、そう言うんだ。でさ、何を思ったのか俺、いいよって答えちゃってさ……』
『なんとなく話が見えてきたよ』
千歳は目頭を揉んだ。面倒なことになったぞと、心の中で嘆息した。
『つまり、次の土曜日、僕に彼女のフリをしてほしいってこと?』
『そう、そうなんだよ!』
吉田くんは言うと、錬金術でも発動しそうな勢いで両手をぱんっと打ち合わせた。
『このとおり! 一生のお願いだ!』
『……でもさ、それなら、本物の女の子に彼女を演じてもらえばいいんじゃないかな? ほら、吉田くんって女の子の友達も多いし』
『いや、それがさ、俺、女子苦手で……』
『え。それって』
『いやいや、ゲイじゃないんだけどさ、なんていうか、怖いんだよね、女子が……』
意外だった。吉田くんはクラスの上位グループの一員で、どう低く見積もっても陽キャだった。女子を笑わせている光景もよく目にする。
そんな彼が、実は女子が苦手だという事実に、不覚にも千歳はちょっと萌えた。
『だからきっと、リアル女子とサシでデートなんてしたらボロが出て、市子に嘘がバレちゃうと思うんだよ。でも早乙女は男だって分かってるから、気楽にデートできると思うんだ。もちろん金はぜんぶ俺が出すからさ、ね、頼まれてくれないかな?』
お人よしの千歳は、そのお願いを承諾した。
すると吉田くんは大いに喜んで、千歳に手提げ袋を手渡した。その中には、純白のワンピースが入っていた。
『妹から借りたんだ。早乙女と妹は体格もほとんど同じだし、きっと合うと思う』
『妹さんの……? なんかすごい罪悪感が……』
『大丈夫。この人に貸していいかって早乙女の写真見せたら、むしろなんか興奮してたし――』
――千歳の説明を聞き終えたフチュは、「なんてベタで素晴らしい展開なのだ!」と歓喜した。
「要するに、お前と吉田のBLってことだろ?」
「フリだよ、フリ」
「フリでけっこう! 続きは妄想で補う! ささ、そうと決まれば私も出掛ける準備をしないと!」
「ちょっと待って。フチュ、ついてくる気?」
「あたぼうよ! 腐力を溜めるチャンスでもあるのだから、お前にとってもそのほうが都合いいはずだ」
まあ、それはそうだ。
吉田くんと市子に気づかれないよう隠密に行動するという約束で、同行を許可した。
ドアtoドアで三十分かけて、繁華街の映画館へ向かった。千歳は入口で吉田くんと待ち合わせた。
「おお、早乙女……。すげぇ、かわいいな」
吉田くんは千歳の全身を眺め、放心した様子で言った。
「ありがとう。でもちょっと恥ずかしいな……」
二人はエスカレーターで発券機のあるフロアへ上がっていく。
「それで、市子さんはもういるの?」
「ああ。後ろにいる。真っ黒な服を着ているのがそうだ。すぐ分かると思う」
千歳はさりげなく体を横にして、流し目にエスカレーターの後方をチラ見する。
吉田くんの言うとおり、すぐに分かった。いわゆるゴスロリファッションの女の子だ。
「すんごい綺麗な人だね」
千歳は驚いて言った。
「だよな。だからこそ余計に怖い」
再び市子をチラ見すると、彼女のさらに後ろに、フチュを見つけた。さすがに燕尾服ではなく、歩に買ってもらったシンプルな服を着ている。そして色の濃いサングラスをかけ、よく分からないけどなぜか髪をオールバックにしている。
それでも圧倒的な美貌は霞まず、近くの女性二人がちらちら彼を見て囀っている。
市子とフチュの二人に追われるデート。これは落ち着かない……。
映画は無難におもしろかった。映画館を出ると、その後はゲーセンで遊んだ。千歳も吉田くんも、ともすれば追跡者の存在を忘れてしまうくらい素で楽しんだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
吉田くんがゲーセンの男子トイレへと消える。
彼を待ちながら、なんとかもったなと千歳はほっとする。今の千歳は女装男子なので、女子トイレに入るわけにも男子トイレに入るわけにもいかない。
なので、家を出てから今まで、千歳は飲まず食わずを貫いている。いざとなったら男女問わず入れる多目的トイレに駆けこもうと思っていたけど、その必要はなさそうだ。吉田くんが戻ってきたら、次は吉田くんの自宅へ行く手はずになっている。そこまで耐えれば勝ちだ。
「ねえ君」
いきなり何者かに声をかけられた。足元に落としていた視線を上げると、大学生風の三人組の男がニタニタ笑いながら立っていた。
「あ、はい」
「今、一人?」
あ、これ、ナンパだ。
理解すると、千歳は恐怖で凍り付いて、言葉が出てこなくなった。
初めての経験ではない。でも以前は、「僕、男です」と苦笑いで応じることで、お引き取り願うことができた。
しかし今はそうはいかない。ばっちり女の子の格好をしているし、市子の監視を受けているのでネタバラシするわけにもいかない。市子は少し離れたところにあるクレーンゲームの前に立ち、こちらを注意深く窺っている。
「かわいいね君。名前なんていうの?」
三人はじりじりと迫ってきて、今や千歳は逃げ場を失っていた。世の女性はこんな怖い目に日々遭っているのだと思うと、恐怖の中に憎しみと悲しみが混じり合ってくる。
限界だ、と千歳は思った。
彼は、市子には聞こえないように注意深くボリュームを調整して、「僕、男です……」と囁いた。
「男……?」
虚を突かれた三人は、そろってぽかんとした顔になる。しばし互いに顔を見合わせ、なにやらぶつぶつと言葉を交わしている。そして。
「ひっ……!」
千歳は悲鳴を上げた。いきなり一人が、千歳の股に手を当ててきたからだ。恐怖はさらに厚く上書きされる。
「マジだ……ついてるよ……」
男は、余韻を確かめるように、顔の前で何度か手を開け閉めする。
「もうさ、男でもいいよ」
別の一人が、そう言って苦笑した。
「たしかに、こんだけかわいかったら、べつに男でもいいかもな」
本気とも侮蔑ともとれる調子で、三人は好き勝手に言い合う。下卑た笑い声が積み上がっていく。
様々な感情がせめぎ合い、千歳の目の奥をつんと熱くする。
「お前たち」
声がした。
顔を上げると、三人の後ろにフチュが立っていた。
「わ、ビビった!」
三人は振り返り、フチュを睨んだ。
「男でもいい。お前たちは、さっきそう言ったな?」
フチュは、感情の読めない平板な声で言った。
「は? それがなんだよ?」
「きてます」
フチュは言うと、両手を胸の前で広げた。
「は?」
「ハンドパワー」
フチュの指先が一人に触れる。
すると、その男は一瞬で気を失って倒れてしまった。
「お、おい、何をした!?」
「合気道」
「ぜったい違う!」
「ハンドパワー」
「それも違う!」
「ハンドパワーなのっ!」
フチュはハンドパワーでもう一人沈めた。
「な、なんなんだよ、お前、マジで……」
恐れ戦き、生き残りはじりじりと後ずさりする。
男が後ずさったぶんだけ、フチュは前進する。
「お前たちはさっき、男でもいいと言った。言語道断だッ! 『男でもいい』ではなく、『男がいい』の境地に達してから出直してこいノンケ風情がぁぁぁぁぁ! ハンドパァウワァァァ!」
「うわああああああ!」
生き残りは悲鳴を上げて走り去っていった。
「フチュ!」
千歳は思わず、フチュに抱き着いていた。
「よしよし。お前には今度合気道を教えてやる」
しんみりしているところに、吉田くんがトイレから戻ってきた。
「……どういう状況、これ?」
さらに。
「吉田くん」
女の声がした。
見ると、すぐそばで、市子が仁王立ちしていた。
「ひえっ……!」
吉田くんがたじろいだ。
「この子、男の子なんですってね?」
市子は千歳を一瞥して言った。
ああ、バレた……。
「あ、いや、えっと……」
吉田くんは哀れなほど狼狽え始め、やがて意を決したようにびしぃッと勢いよく頭を下げた。
「すまなかった! そう、早乙女は男だ。騙してすまない!」
市子は腕を組んで険しい表情をしていたが、やがて「はあ」と気品すら漂うアンニュイなため息をつく。
「いいです。あなたの気持ちはよく分かりました」
「ほんと、すまなかった」
平謝りする吉田くんは、しかしほっと胸をなでおろした。
どうやら市子は、彼を諦めてくれたようだった。
「吉田くんは、男の子が好きなのですね」
「……え?」
「それはとてもよいことです。尊いということです。今日、それを私は知りました」
「……そ、それはよかった」
「ところで」
市子はやや鼻息を荒くして言った。
「吉田くんは、受けなのですね? そのはずです。そうでなくてはいけません」
「あなたとはいいお茶が飲めそうだ」
フチュが言いながら前に出て、市子に右手を差し出した。
市子はそれに応え、二人はがっちり握手した。
「なにこれ?」
吉田くんがきょとんとして呟く。
「さあ」
千歳はそう答え、こらえ切れず吹き出して笑った。




