人肌のぬくもり
懐中電灯やスマホのライトで闇を丸く切り取りながら、千歳たちは忍足の名前を叫び続けた。
やがて短い廃トンネルにたどり着いた。苔むして、蔦が絡まった、見捨てられたトンネルだ。もちろん照明なんてひとつも点いていない。
そこで、突然、鬼塚がぴたりと足を止めた。
「どうした? 何か見つけ……」
そう尋ねる慎一郎の唇に、鬼塚はすっと人差し指を当て、黙らせた。
は? かっこよ……。
傍から見ていた千歳は思わずときめいた。
鬼塚は、道の脇の森の奥に懐中電灯を向けている。自ずと、他のみんなも同じ方向を照らす。
静寂が一同を包み込む。虫や鳥の鳴き声と、枝葉が風に揺れる音と、どこからか漂ってくる小川のせせらぎが、彼らの横を通り抜けていく。
鬼塚が、すっと、懐中電灯の明かりの先を指さした。
寡黙な少女が森の奥を静かに指さすというホラー映画さながらのシーンに恐れ戦き、千歳はごくりと生唾を飲み込んだ。
「そっちにいるのか? 誰だか知らないが、さっさと忍足空を返してもらおうか」
伊集院は言うと、ずかずかと森の奥へ踏みこんでいく。
「おい待て、一人で行くな」
慎一郎が後を追い、他のみんなも彼に続く。
なんとなく森に入るのが怖くて足踏みしていた千歳も、一人で置いて行かれるほうがもっと怖いと思い至り、後を追おうとする。
と、その時。
ふっ……。
視界の隅で、何かが動いた。
千歳は素早く懐中電灯をトンネルに向けた。
短いトンネルを抜けた先に、人影があった。
「忍足くん……?」
人影は、少年のそれだった。シルエットだけでも、不思議とそう分かった。
人影はすぐに歩き出し、トンネルの半円から消えてしまった。
「待ってよ! 忍足くん!」
千歳はトンネルに駆け込んだ。叫び声が反響し、その自分自身の声に急き立てられるように彼は全力で走った。
トンネルを抜けると、そこは相も変わらず左右を森に挟まれた細道だった。
千歳は人影が消えた方向へ懐中電灯を向ける。
森だ。人影は、森の奥へ入っていった。
みんなと離れてしまったことには気づいていたけど、引き返すという選択肢は浮かばなかった。
落ち込む千歳にから揚げをくれた忍足の優しい微笑と、記憶の中で向き合う。
ここで引いたら、もう一生忍足に会えなくなる気がした。
千歳は森の中に駆け込んでいった。「忍足くん!」と声をあげながら、ひたすら進んだ。やがて、別の道に出た。そして、道の先に廃屋を見つけた。
「え」
千歳は、頬に生ぬるい水滴を感じ、空を見上げた。
さっきまでの輝かしい星空はすっかり灰色の雲の向こうに隠されてしまっている。
一滴を感じた後は、指数関数的に雨脚が強まり、暴力と言って差し支えない水が空から降り注ぐ事態となった。
たまらず千歳は廃屋の中に逃げ込んだ。
以前は倉庫として使われていたと思しき小さな廃屋だ。雨粒が屋根を殴りつける音が頭上から降り注ぎ、千歳の周りに積もっていく。
廃屋といっても、鉄筋造りで、しかも割と最近まで現役だったようで、雨漏りの恐れはなさそうだった。
「にわか雨だよね? すぐやむよね?」
不安で独り言を呟く千歳。
言うまでもなく応える者はない。
千歳は床に膝を抱える格好で座って、ぼんやりと虚空を見つめた。
「忍足くん、ほんとに幽霊に連れ去られちゃったのかな……」
じわりと、千歳の目に涙が滲む。
膝を抱えた腕の間に顔を埋めるように、千歳は項垂れた。
誰が見ているわけでもないのに、泣き顔を晒すのが恥ずかしかった。
男らしくない、と思った。男らしくならなきゃと思った。
突如、ドタドタと物音が響いてきて、千歳は驚いて顔を上げた。
廃屋の戸口に、人影が立っていた。
「伊集院くん……?」
「早乙女千歳?」
伊集院はびしょ濡れで、雨宿りのためにここに駆け込んできたのは一目瞭然だった。
「すごい雨だね」
気まずさを紛らわそうと、ひとまず千歳は喋った。
「そうだな。殺人的な雨だ」
「みんなは?」
「はぐれてしまった。まったく、どいつもこいつも、勝手に消えて迷惑極まりない。一応ここは山の中だ。遭難の恐れだってあるのに」
一人ということは、はぐれたのは伊集院のほうでは?
そう思ったけど、千歳はもちろん黙っていた。
伊集院は、千歳から離れた壁際に腰を下ろした。
「……」
「……」
雨音が、沈黙をより一層引き立てる。
スマホをテントに置いてきてしまったので時間の経過を正確には計れないけど、それでもはっきり分かるくらい、時間の流れが何倍も遅く感じられた。ひたすらに、雨が早くやむことを願った。
ふと、伊集院が震えているのに気づいた。
歯がガチガチ鳴ってしまうのを、努めて抑えつけようとしているのが分かって、哀れを誘う。
「伊集院くん、大丈夫……?」
「問題、ない」
「服、脱いだほうがいいんじゃないかな? 濡れた服は体温を急速に奪うから」
「分かっている。ただ……」
伊集院は千歳に目をやり、視線が合うとさっと顔を反らした。
ああ、と千歳は思った。伊集院は恥ずかしがっているのだと気づいた。
「僕、雨やむまでずっとあっち向いてるからさ……その、気にしないで」
「念のため言っておくが、ふだんは同性の前で服を脱ぐことには何も感じない。……今は、例外だ」
「例外? どうして?」
「君は本当に自覚がないんだな」
わけが分からなかったけど、伊集院の声に含まれた怒気に圧されて、千歳は口をつぐんだ。
千歳は壁のほうを向き、窓の外の豪雨を見つめた。でも伊集院の脱衣がガラスに反射しているのに気づいて、体の向きを調整した。
伊集院がボディバッグを外し、ポロシャツを脱ぎ、水を絞るのが音で分かった。それからカチャカチャとベルトを外す音、チャックを下ろす音、肌に張りつくチノパンを苦労して下ろす音が、千歳に伝わってくる。
裸の男が背後にいるという状況を俯瞰してみると、千歳はにわかに緊張した。
「早乙女千歳、もういいぞ」
「え、いいって……?」
恐る恐る視界に伊集院を滑り込ませていくと、彼は銀色の膜に包まれていた。
「アルミブランケットだ。遭難に備えて、念のため携帯していた。たたむとてのひらサイズになるから便利だ。百均で買える」
ちょっと恥ずかしいのか、伊集院はやや早口で言った。
そしてやはり恥ずかしいからか、「ところで、早乙女千歳」と強引に話題の主導権を引き寄せる。
「なに?」
「どうして泣いていたんだ?」
ああ今訊くんだ、と思った。
だけどどうしてか、伊集院の声がいつもと違って柔らかくて、千歳は抵抗なく事実を述べた。
「忍足くんが、心配で……」
「君は優しいんだな、本当に」
「え?」
「演技でも偽善でもなんでもなく、君は他人のことを思いやれる人間だ。今はっきり分かった」
「い、伊集院くん、どうしたの?」
急に、と付け足そうとしたけど、やめた。
「早乙女千歳。悪かった。僕は君に、ずいぶんとつらく当たってしまっていた」
この感覚には覚えがあった。
中学生の時、千歳を執拗にからかってくる同級生がいた。ある休日、夜道で彼とばったり遭遇してしまった。千歳は慌てて立ち去ろうとしたけど、相手が「待って」と引き止めてきたので逃げるわけにもいかなくなった。相手は、『ごめん』と言った。『俺、早乙女にひどいこといっぱいしちゃってたよな、ごめん』と。
どうして急に謝られたのか、ずっと不思議だった。でも今ようやく分かった。二人きりだからだ。第三者の目を気にせず、二人だけの関係性の中で話ができるからなのだ。
「いいんだ」
千歳は伊集院に答えた。
「僕、トロいから、イライラされちゃうのは当然だし……」
ぐぅ~……。
千歳のお腹が鳴った。猛烈な雨音の隙間を縫って、その音は廃屋の中をひと巡りした。
千歳は顔を赤くして、伊集院に聞こえていないことを祈ったけど、聞こえているのは分かっていた。
「お腹減ったのか? まあ当然か。夕飯まだだからな」
伊集院はボディバッグから薄くて四角い箱を取り出すと、それを千歳に差し出した。ブロックタイプのバランス栄養食だった。
「遭難対策で、念のため持っていた」
「でも」
「僕は焼きマシュマロがまだ腹に残っている。気にするな」
「ありがとう」
千歳はありがたく受け取って、それを食べ始めた。
空腹は軽減されていったが、今度は寒さに襲われ始めた。伊集院ほどではないけど、千歳も雨に被弾していた。ジャブのように体温が徐々に奪われ、ダメージが蓄積していた。
「ねえ、伊集院くん」
「どうした?」
「申し訳ないんだけど、あっち向いててもらってもいいかな?」
意図を察した伊集院は、詮索せずに「分かった」と答え、千歳に背中を向けて座り直した。
千歳はTシャツを脱いで、迷った末にカーゴパンツも脱いだ。でも震えは止まらなかった。寒くて寒くて仕方なかった。
足音が近寄ってくるのが分かった。でも寒さのせいで、見られている恥ずかしさを感じる余裕はなかった。
が、次の瞬間、千歳は体を硬直させた。
「……!」
後ろから、伊集院に抱きしめられた。
いや、そうではない。アルミブランケットに、千歳を入れてくれたのだ。
「君は体が小さいから、なんとかなりそうだ」
言うまでもなく千歳は狼狽えたけど、アルミブランケットに包まれた伊集院の体温には、抗いがたい魅力があった。沈黙していた体の細胞たちがみるみる息を吹き返していくのが分かった。
千歳の背中と、伊集院の胸が密着している。伊集院の心臓がバクバク暴れているのが如実に伝わってくる。
ああ、伊集院くんも緊張しているんだ。そう思うと、千歳はちょっと安心した。
「ありがとう。温かい」
「よかった」
しばらくすると、汗ばむくらい体が火照ってきた。
雨脚はやや弱まってきたけど、できればもう少し待ちたいという塩梅だった。
「伊集院くん……?」
伊集院の息が荒いことに千歳は気づいた。
「大丈夫? 風邪ひいちゃった?」
答えはない。
代わりに、彼の手がゆっくりと千歳の胸に回されていく。
「……い、伊集院くん?」
もう完璧に、弁護の余地なく、千歳は後ろから抱きしめられる形になっていた。裸で人とここまで密着したのは、生まれて初めてだった。
にわかに、アルミブランケットが開かれた。
そして目にもとまらぬ早業で、レジャーシートのように床に広がったアルミブランケットの上に、千歳は押し倒されてしまった。




