腐宙人、現る・・・!
「はぁっ……はぁっ……」
早乙女千歳は不審者に追われていた。がむしゃらに走って、曲がり角のたびに曲がって、なんとか追手を撒こうとしていた。
手狭な路地を走っているとき、肺が限界を迎えた。千歳は立ち止まり、膝に手をついて息を整えた。
背後を振り返ると、追っ手の姿はなかった。
ほっとして顔を前に戻すと、ヤツは目の前に立っていた。
「わああああああ!」
千歳は悲鳴をあげて地面に尻もちをついた。
ヤツはニィィィイと邪悪な笑みを浮かべ、千歳を見下ろす。
しかし散々千歳を追いまわしたせいで、さすがに息があがっていた。肩が激しく上下し、汗が筋になって額を流れている。
しかもこの不審者、夏だというのに燕尾服を着用しているのだ。
べつに夏じゃなくても異様だ。そのチグハグな風貌に、恐怖はひとしおである。
「いったい、なんなんですか! なんで、追い回すんですか!」
千歳はあがった息で叫んだ。
「お前が、逃げる、からだ」
不審者もまた、肩で息をして答えた。
「そりゃ逃げますよ!」
宝塚歌劇団から脱走してきたような格好の不審者に満面の笑みで追われて、それで逃げない人がいるものか。
実を言うと、もうかれこれ、千歳はひと月近く前からこの不審者の影に怯えていた。
高校の帰り道に、この不審者は必ず出没した。とはいえ何か危害を加えてくるわけではなく、ただじっと、千歳と、千歳の友人を、舐め回すような視線で眺めてくるのだった。
この不審者が不気味なのは、その異様に整った容姿だった。衣装だけでなく、顔も宝塚なのだ。声を聞いた今でも、千歳は不審者の性別を判断しかねる。声も宝塚だからだ。
「目的はなんですか? お金ですか?」
「お前さ」
不審者は千歳を指さして、中性的で冷酷な声でそう告げた。
なるほど、誘拐というわけだ。
「それと、お前のお友達。たしか、名前は慎一郎といったな? ああ、お友達じゃなくて、彼氏と言ったほうがいいかな」
「違う!」
千歳は叫んだ。自分でも意外なほど大きな声が出た。
「慎一郎は、彼氏なんかじゃ……」
「なんだっていいさ。とにかく、私の目的は、お前と、慎一郎だ」
この不審者は、千歳だけでは飽き足らず、慎一郎まで誘拐する気なのか。人身売買を生業とする、ガチの極悪人なのかもしれない。
しかし、不審者は続いて、不可解なことを言った。
「お前と慎一郎は、私を裏切ったからな。きちんと償いをしてもらわないといけないのだ」
裏切った? 償い?
どうやら不審者の目的は、誘拐ではないようだ。なんだか知らないが、不審者は千歳と慎一郎を憎んでいる。
きっと、命を奪うつもりなのだ……。
冗談じゃない、と千歳は強く思った。身に覚えのない罪で殺されるなんて!
「いったい、何をしたっていうんですか……? 何か恨まれることをしてしまいましたか? 教えてください、謝りますから!」
「何もしなかったのさ」
「え……?」
「お前と慎一郎は、何もしないことで、私を裏切ったのだ」
「あなたが何を言っているのか全く分かりません!」
「お前と慎一郎はッ、私の推しカプだったんだよッ!」
「……え?」
時が止まったみたいだった。自らの呼吸音も、不審者の吐息も、遠くから棚引いてくる自動車の走行音も、蝉の合唱も、すーっと遠ざかっていった。
カラスがどこかでカァと鳴くと、それを合図にしたように、音が加速度的に千歳の耳に戻ってきた。
「あ、えっと……その……」
「いいか、つまりこういうことだ。私は、お前と慎一郎のカップリングに萌えていた。なのにお前らときたら、一向に進展がない。まあいいさそれは、人それぞれペースがあるし、私はそんな焦れ焦れな関係も好みだからな」
「あの……」
「だが、お前は、ここ一週間ずっと、慎一郎とろくに絡んでいない! いきなり距離を置き出した! おかげで私は推しカプを眺めることができなくなった! ふざけるなよ千歳ェ!」
ふざけるなはこっちのセリフだ! という尤もな反論をのみこんで、千歳は努めて慎重に言葉を探す。
「あなたは二つ誤解しています。まず最初に、慎一郎は本当に彼氏ではありません」
言いながら、千歳はようやく立ち上がった。そして不審者を見上げた。
立っても見上げないといけないほど、不審者は背が高かった。
「そして二つ目に、僕は男です」
しん、と、沈黙が訪れた。
硬直する不審者を見て、千歳はむしろ申し訳ない気持ちになってきた。
「たしかに、僕はこんな見た目ですので、よく誤解されます。でも生物学上は、Y染色体を持って生まれた、紛れもない男なんです」
「知っている」
「え?」
「だってお前、男子用の制服着てるし」
言われてみればそうだ。いくら顔が女の子みたいで、体が女の子みたいに華奢でも、制服が男子用である以上誤解のしようがない。
「えと、では……」
「お察しのとおり。私は男同士のラブに萌える、いわゆる腐男子ってやつだ。どうぞよろしく」
不審者は言うと、片手を胸に当て、キザにお辞儀をした。
あ、男の子なんだ、この人……。
「まあ正確に言うと、私は男子ではないのだがね」
「え? でもさっき腐男子だって……んっ……」
不審者は人差し指を千歳の唇に当て、黙らせた。
は? 不審者のくせにかっこよ……。
それから不審者は、人差し指を千歳の唇から外し、青空に向かって突き上げた。
「私は遠い星からやってきた、いわゆる宇宙人なのさ。ゆえに、人間の性別によるカテゴライズは無意味だ」
……は?
「……う、うちゅう、じん?」
「まあ、BL趣味の宇宙人ということで、『腐宙人』とでも呼んでくれたまえ」