没落人生から抜け出したい・5
エリシュカは、十分ほど黙って待っていたが、リアンは全然戻ってこない。やがて芋の煮えたようないい香りが漂ってきたので、おそるおそる奥を覗いた。
「あの、リアンさん?」
「なんだ」
店舗の奥には廊下が続いていて、右手側の部屋からリアンの声がする。
どうやらキッチンのようだ。背中を向けていたリアンが、肩越しに振り返る。
「なんだ。まだかかるぞ」
「……ご飯を作ってくれていたのですか」
呆然とその背中に問いかければ、彼はぼそりと言う。
「お嬢には作れないだろう?」
〝お嬢〟という言葉に、エリシュカの胸は不思議な反応を示した。安堵に似た感覚がまずやってきて、すぐに、なにもできないお嬢様だと思われていることへの悔しさが湧き上がる。
エリシュカは後半の反発心に従い、腕まくりをしながらリアンの隣に立った。
「私も手伝います」
「いいよ」
「できます。これでも、料理は毎日しているんです」
自信ありげなエリシュカの発言に、リアンはますます眉を寄せた。
「なにがあった? キンスキー家のお嬢様が、料理だと?」
リアンの言い方が引っかかる。やはり彼は、キンスキー伯爵家のことを知っている。しかも、没落する前の裕福な時代をだ。
「リアンさんは、もしかして昔、キンスキー家と関わりがあったのですか?」
率直なエリシュカの問いに、リアンは顔をこわばらせた。
「……本当に何も覚えていないのか? 俺のこと、すっかり忘れたのか?」
怒っているようにも、傷ついているようにも見える彼の表情に、エリシュカは自分が悪いことをしているような気持ちになる。言い訳をするように、事情を説明した。
「実は私、七歳のときに記憶喪失になったんです。だからその前に出会った人のことは何も覚えていないの」
「えっ……」
リアンの手から包丁が滑り落ちた。カタン、と硬質な音を立てて、床に転がる。
「危ないわ」
「……嘘だろ。じゃあ俺のこと、全く覚えていないのか? お嬢」
拾おうとした手を掴まれ、まっすぐに見つめられてエリシュカは真っ赤になる。
なにせこのリアンという男、顔立ちは結構整っているのだ。
「ご、ごめんなさい。あなたの名前は、全然覚えていないんです。両親からも使用人からも聞いたことはないと思うわ。良かったら、あなたから教えてくれないかしら。私が何歳のときに会ったんですか?」
「……それは」
リアンは少し考えたように口もとを押さえた。
「昔、家族でキンスキー伯爵家に仕えていた時期がある。俺が七歳から十歳の間の三年程度だ。幼い俺は、小さなお嬢の遊び相手だった」
「あ、じゃあ、もしかして、木登りを教えてくれたのはあなたね?」
エリシュカはぱっと顔を晴れ渡らせた。リアンはぎょっとしたようにたじろぐ。
「あ、ああ。そうだが」
「ありがとう。だったらあなたは私の恩人だわ」
「は? どういう……」
リアンの問いかけを遮るように、鍋が噴きこぼれる。ふたりの意識はいっぺんにそちらに向かう。リアンは彼女の前に盾になるように立った。
「危ない。火傷しちゃうわ」
リアンの脇からのぞき込むように見て、エリシュカは驚く。そのコンロはエリシュカが想像していたものと違った。コンロはガスを使うものが主流だが、これは炎が出ていない。
「なにこれ」
「これも魔道具なんだ。すまん、ちょっと魔力の制御に失敗した」
リアンは鍋の傍にあるボタンに指をあて、小さくつぶやいた。
ボタンで操作できるなんて、夢の世界で見たIHヒーターのようだ。エリシュカも興味深く見つめる。
「まだ試作品なんだ」
「これ、作ったものなの?」
「ああ。ブレイク様はこういった魔力を使った道具を製造・販売している。試作品を作って、気に入ってもらえれば採用してもらえるんだ」
「そうなの!」
リアンは気を取り直したように、鍋のふたを開け、味付けの仕上げをした。
「……詳しい話は、ブレイク様を交えてした方がよさそうだ。さ、飯だ。腹が減ってはなにもできないからな」
「はい!」
元気に返事をして、エリシュカは手伝いをかってでた。スープをお椀によそい、パンを運ぶ。具材が少ないのは、もともとひとり分の量しか用意していなかったからだろう。
それでも、突然来たエリシュカにこうして食事をふるまってくれる彼は、きっと優しい人だ。さっきも盾になろうとしてくれた。ぶっきらぼうな口調だが、行動の端々に優しさが見え隠れする。
「いただきます」
手を合わせて言うと、リアンはふっと笑った。
「どうしたの?」
「いや? ……記憶が無くてもお嬢だなと思っただけだ」
自分の何が彼にそう思わせたのか、エリシュカには分からない。ただ、その懐かしそうなまなざしに、そのままの自分を受け入れてもらえたような安堵があった。
(変なの。お父様やお母様、マクシムとラドミール、誰といてもこんな風に思ったことはなかったのに)
「リアンさん」
「ん?」
「ありがとう」
リアンは不思議そうな顔をしたあと、「ああ、飯のことなら気にすることはない」という。
お礼はそれだけではなかったけれど、エリシュカは説明まではしなかった。
食事を終えた後は、二階の部屋に案内される。
「あまり綺麗じゃないが、一晩だけだから我慢してくれ」
そこはリアンの個室のようだ。ベッドと、クローゼットと本棚のみの物の少ないシンプルな部屋だ。
「俺は隣の作業場で寝る。この部屋は内側から鍵がかかるから、安心してくれ。トイレは一階にある。風呂もあるが……一日くらいはいらなくても平気だろう?」
エリシュカとしても、さすがに年頃の男性とふたりきりのところで、無防備に裸になるつもりはない。
「はい。大丈夫です」
リアンは自分用の毛布や本をひとまとめにして、部屋を出ていく。
「なにからなにまでありがとう、リアンさん」
「……いや、いい。おやすみ」
彼の背中にそう言えば、どこか寂しそうな声で、リアンが答えた。
リアンと過ごした日々を思い出せたらいいのにと、エリシュカはぼんやり思った。