没落人生から抜け出したい・2
* * *
「久々に、木にでも登ろうかな」
むしゃくしゃした気分がおさまらないエリシュカは、久方ぶりに庭にある木の枝によじ登った。十七歳の令嬢がやることではないが、知ったことではない。
風がエリシュカの銀の髪を巻き上げる。葉擦れの音がよく聞こえ、怒りに燃えていた自分の胸が、スーッと凪いでいくのを感じる。
年頃になってからはやめていたので、木登りをするのは五年ぶりだ。
「でも登れるものね」
思えば、記憶を無くしてすぐの頃も、簡単に登ることができた。幼い自分がひとりでできるようになるわけはないのだろうから、教えてくれる人物がいたのだろう。
(でも、サビナは木登りなんてしないわよね)
もしかしたら、記憶を無くす前はほかにも世話係が居たのかもしれない。誰も教えてくれないということは、重要な人物ではなかったのだろうけど。
「それより、先のことを考えないと」
エリシュカは、父親の言うことに素直に従うつもりはなかった。
事業が傾いてきているのに、贅沢を止めなかったのはエリシュカじゃない。なのにエリシュカが借金返済のために身を売るのは理不尽すぎる。
(屋敷を抜け出すのは簡単だけど、どこに行くかよね)
なにせエリシュカの銀髪は目立つ。領土内にいたら、すぐに領主の娘だとバレてしまうだろう。
(他領にわたって、生きていける? ああ、そういえば叔父様はそうやって生きていたわね)
エリシュカは叔父の存在を思い出した。名前はブレイク・キンスキー。父とは年が離れていて、まだ三十歳そこそこのはずだ。たしか交易商人だと言っていた気がする。
父と叔父は折り合いが悪かったようで、叔父はほとんど屋敷に姿を見せなかった。
エリシュカが覚えているのは、八年前、ひょっこりやって来たときのことだけだ。
叔父は子供たち三人におもちゃをお土産にとくれた。彼が言うには、五年ほど前にも一度屋敷を訪れ、エリシュカとは話をしたのだという。エリシュカは覚えていないことを謝り、七歳以前の記憶がないことを説明した。
叔父は、エリシュカが記憶を失っていたことを残念がり、『僕たちは、記憶を無くす前も仲良しだったんだよ』と笑ってくれたのだ。
その後、叔父と父はケンカをしたようで、滞在時間はそれほど長くなかった。父は見送りさえせず、エリシュカはトボトボと歩く叔父の後ろ姿を見て、寂しい気分になったのだ。
(叔父様のところに、身を寄せては駄目かしら)
足が付きやすい逃げ場所ではあるが、女がひとりで街に出て、危険がないとは思えない。
政略結婚は嫌だが、誰とも知らぬ男に襲われるのはもっと嫌だ。せめて生活する力を身に付けるまで、保護してもらいたい。
でも、八年も会っていない姪が訪ねて行っても迷惑だろうか。
風が吹いて、エリシュカの銀髪を揺らす。彼女は首をぶんぶん振ってから顔を上げた。
「考えるより動こう。駄目な理由ばかり考えていても、委縮するだけだわ」
エリシュカは、するすると木から降りると、屋敷の中に戻った。叔父が今どこにいるのか、確かなことはわからない。ただ、昔くれたお土産に、叔父に関するヒントがあるかもしれない。
八年前にもらったおもちゃは、幼い子供向けのもので、すぐに遊ばなくなった。だけど、叔父のことが気になっていたエリシュカは、捨てずにおもちゃ箱の奥にしまい込んでいたのだ。
「……あったわ!」
木で作ってある小さなネズミの人形だ。尻尾の紐を引っ張ると、カタカタ音を立てて前に動く。くまなく見ると、お腹のところに商会の名前が彫り込まれていた。『ブレイク魔道具商会』と書かれている。
「魔道具?」
ただの仕掛け人形だと思っていたが、これは魔道具だったのか。
試しに魔力を注いでみると、ネズミはその目玉をぎょろりと動かした。先ほどまで赤かった瞳が青色に光っている。
「ひっ」
『ジー、ジー、通話、カノウ。オツナギシマス』
「……しゃべった!」
エリシュカは驚きで息を飲む。そのまま見つめていると、ネズミの目の色が緑色に変わった。
『え? ……繋がったの? まさか、エリシュカかい?』
今度は流ちょうな大人の声がした。たまに途切れるものの、鮮明な声がする。
(まるで電話みたい……!)
電話とは、エリシュカがたまに夢で見るニホンにあった、遠くの人とお話ができる便利な道具だ。が、ネズミ型はしていなかった。もっと、板みたいな形をしていたはずだ。
『おーい。あれ、繋がってないのか?』
「つ、繋がってます! 叔父様ですか?」
エリシュカは慌てて返事をした。
『エリシュカだろ? この仕掛けに気づくとしたら、三人の中でエリシュカだと思ってたんだ。ずいぶん時間がかかったね』
本当に叔父だと分かり、エリシュカはホッとした。
「お、叔父様。助けて。私、ここから逃げ出したいの!」
『へ? 何事? ああでも、ごめん、魔力がきれそう』
ブツリ、と音を立て、通信は途切れた。
「ちょっと、なんで? 魔力がもっといるってこと?」
しかし、どれほど魔力を注いでも、先ほどのようには動かず、目の色は赤色に戻ってしまっている。
「……でも、チャンスはあるわ。叔父様は私を覚えていてくれた。商会を訪ねてみよう……!」
父が毛嫌いしているので、叔父についてはほとんどわからない。けれど、商会名が分かれば、人に聞きながら辿っていけるだろう。
「よし、決めた!」
屋敷を出るのだ。没落の気配が見え始めてから、エリシュカは自分のことはなるべく自分で出来るようにしてきた。料理人に料理も習ったし、洗濯もできる。生活に関わることならなんとでもなる。
エリシュカは手早く数枚の着替えと小さなノート、換金できそうな宝石とわずかばかりの金銭を鞄に詰めた。先ほどのネズミも鞄に入れる。
「これでいいわ。あとは置手紙」
父や母へ、政略結婚には応じられないという内容と、死んだものだと思ってくださいという内容。王都にいる弟たちへは、何の援助もできなくてごめんなさいという文言。
それでもエリシュカは自分の人生の方が大事だ。父親ほどの男の愛玩人形になるつもりなどない。
翌日、エリシュカは早朝に家を抜け出した。目立つ銀髪をおさげにして帽子をかぶり、質素な服を着れば、村娘風には見える。
「さよなら、みんな」
旅立つときは、もっと寂しいだろうと思っていた。けれど、エリシュカは妙な清々しさを感じていた。