エリシュカの存在意義・5
* * *
最初に家を出てきたときは、行き先を迷っていたこともあり、移動にはまる一日かかったはずだが、寄り道もしない伯爵家の馬車は、二時間程度でエリシュカをキンスキー伯爵邸へと連れてきた。
広い世界を知った今は、大きいと思っていたお屋敷が、小さな牢獄のように思える。
「帰ってきたのね。エリシュカ」
屋敷に入れば、不機嫌そうな母に迎えられた。
「どうしてあなたはこんなに私たちを困らせるの?」
まるで憎しみさえ内包しているような瞳に、冷たい声。エリシュカの胸に、見えない棘が突き刺さる。
「お母様、あの」
「逃げても無駄だと、もう分かったでしょう。伯爵家に生まれた娘として、与えられた責務をこなしなさい」
欠片も心配しているそぶりを見せない両親に、自分は何を期待していたのだろうとエリシュカは苦笑した。ブレイクやリアン、リーディエやヴィクトルが優しかったから、感覚が少しおかしくなっていたのかもしれない。
悲しかったが、妙に冷静にもなっていた。父や母に対して、すでにあきらめを持っていたからかもしれない。
エリシュカがここから飛び出して知ったことは多い。
貴族と平民の間には、感覚の相違があること。
他人でも、ちゃんと親身になってくれる人が世の中にはいるということ。
エリシュカは貴族としても平民としても中途半端だ。前世の記憶が強く、平民の自由な心を持っている。だけどエリシュカは没落しかけているとはいえ貴族の娘で、どう頑張っても生まれは変えられない。
(覚悟を決めよう。心を殺して貴族の令嬢として生きる)
貴族としての生活なんて欲しくない。だけど、ブレイクやリアンの生活を守るためなら、きっと頑張れる。
(そうすれば、きっとリアンさんの両親を死なせてしまった罪滅ぼしにもなる)
唇を噛みしめ、エリシュカは心に蓋をすることにした。
「……はい。お母様の言うとおりにします」
* * *
屋敷の中は、出て行ったときよりもさびれていた。
やはり大量の魔道具の魔力供給が追い付かなくなったのか、魔道具のシャンデリアが取り外され、旧式のランプが取り付けられている。
(少しは、私の進言も聞いてくれたのか)
使用人の数も、前よりは減っていた。困窮具合が見て取れて、少し切ない気持ちになってしまう。
「姉上!」
二階からマクシムとラドミールが揃って現れた。
「どこに行ってたんだよ」
「あなたたちこそ、学校は?」
「テスト休暇さ。戻る前に姉上に会えてよかったよ」
「そうだよ。俺たち、リアンの店にまで捜しにいったんだぜ」
右にマクシム、左にラドミールに囲まれ、話しながら部屋まで向かう。
「あなたたち、リアンに失礼なことをしていないでしょうね」
エリシュカが釘を刺すと、マクシムたちは不機嫌そうに眉を寄せた。
「逆でしょう。リアンが俺たちに失礼なことばかりするんだ」
「そうだよ。あいつ、偉そうに俺たちに説教するんだぜ?」
双子は相変わらずの横柄な態度だ。エリシュカはイライラしてしまう。
「リアンは私やあなたたちより大人よ。ちゃんと働いて生活しているんだもの」
「でも平民だ」
「平民の何が悪いの」
「姉上こそ、言動には気を付けてください。嫁入り先でおかしなことばかり言うと、離縁されてしまいますよ」
マクシムにたしなめられ、その手があったかと思う。
(嫌われて離縁されるって手もあったわね。一度は嫁ぐんだし、約束を破ることにはならないか)
やけっぱちな気分でそんなことを考えていると、マクシムとラドミールは、両側から嫁入り先であるバルウィーン男爵の人柄を切々と語り始める。
いくら人柄がよくとも、十七歳を後妻に求める四十四歳に心を許す気にはならない。エリシュカは、ふたりを押しのけるようにして歩き、部屋へと閉じこもった。
出て行ったときとそう変わらない部屋で、ポツンと佇んでいると、不意に心細くなってくる。
「……ただいまって気分にはならないものね」
心を許せる相手がいない屋敷は、どれほど広く、豪華であろうとも、寂しい。心にぽっかり穴が開いたようだ。
「子ネズミ、置いてきちゃったな」
あの日、エリシュカの背中を押してくれた魔道具も、今はもう無い。
これまで我慢できていたのに、急に涙が目に浮かんでくる。
「大事なものだったのにな……」
無性に悲しくて、エリシュカはしばらく大きな声で泣いた。
翌日からは、エリシュカの輿入れの準備が始まった。
エリシュカは、朝食を終えるとすぐに一室に閉じ込められ、出入りする仕立て師に採寸されたり、母親が布地サンプルに是非を伝えるのを見たりしていた。
エリシュカが家出中に、バルウィーン男爵から届いたという手紙も見せられた。
【体調が優れないと聞いておりますがいかがですか。私は息子に家督を譲り、隠居する身ですので、屋敷でのんびり暮らしましょう。可愛らしいお嬢さんをお迎えできる日を楽しみにしています】
手紙の感じで言えば、悪い人ではなさそうだ。ただ、十七歳の初婚の娘を隠居する際の相手に選ぶというとことに気持ち悪さを感じてしまう。
「バルウィーン男爵はいい方ですよ。彼が求めているのは、伯爵家の娘を娶るという事実だけじゃありません。姉上の絵姿をとても気に入ったそうです。亡くなった奥方に似ているそうですよ」
やたらに男爵を推してくるのはマクシムだ。
「私は、奥様の面影を重ねられているということ? それっていい人がすることなのかしら」
「姉上、突っかかった言い方は止めた方がいい。相手先からは喜ばれませんよ。姉上は愛されて幸せになるために、夫となる男爵を立て、彼らの息子さんたちともうまくやらなくてはいけないんですよ」
(愛されるために、努力しろということ? それって、自分を曲げてまでしなきゃいけないことかしら?)
疑問は留まるところを知らずに沸きあがる。
「俺たち、明日には学園に戻るけど、もう逃げるなよ、姉上」
ラドミールが騒がしく言い、エリシュカは答える気力もなく黙っていた。
昔から不思議なのだが、双子はエリシュカに対して、過保護なくらいに構ってくるのだ。
(嫌われてはいないのでしょうけど)
エリシュカはいつも彼らの傍にいるのが居心地悪い。
(私の気持ちも、考えも、全部押しつぶされるというか……)
それは父親に対しても思う。エリシュカは彼らの所有物だとは思われているが、ひとりの人間として、尊厳を守られることが無いのだ。




