前世の記憶と幼馴染・4
「姉様ー」
屋敷の方から、エリシュカの弟たちの声が聞こえてくる。
「マクシムとラドミールだわ」
途端に、エリシュカの顔が曇る。彼女のふたりの弟は、キンスキー伯爵待望の男の子ということもあり、両親からかなり溺愛されていた。しかも、双子なため、どちらが継承権を得るかで常に競い合っている。
エリシュカは弟たちが羨ましいのだ。
両親とエリシュカは、今はほとんど会話もしない。サビナとリアンに任せっぱなしだ。昔は一緒に散歩をしてくれたこともあった母親が、今は双子の散歩にすら誘ってくれない。
だが、エリシュカの気持ちとは裏腹に、双子はエリシュカのことが大好きなのである。どちらが姉の愛情をより多く得ることができるのか、必死にアピールしてくる。
「姉様!」
双子が近づいてきたので、リアンは脇に避ける。その隙間に入り込むように、右腕にマクシム、左腕にラドミールがしがみついた。
「痛いわ、放してふたりとも」
「嫌です。姉さま、どうしてリアンなんかと引っ付いているんですか。僕らと遊びましょう」
「そうだよ。僕らと遊ぼう」
子供ながらに丁寧な言葉を使うのがマクシムで、あどけない口調なのがラドミールだ。
エリシュカは困ったように眉を寄せ、ちらりとリアンを見た。
「リアンは私のお目付け役だもの。一緒に居てあたり前でしょう?」
「やだやだ! 僕たちと遊ぼうよ」
ラドミールが駄々をこね、リアンは苦笑して一歩下がる。エリシュカは嫌そうだが、姉弟の仲は深めたほうがいい。両親とうまくいっていないエリシュカにとって、味方は多い方がいいと思うのだ。
「俺はしばらく下がっています。おひとりになるときにまたお呼びください」
「待ってよ、リアン」
エリシュカは必死に目で訴えたが、使用人であるリアンがこれ以上出しゃばることはできない。
背中を向け、歩き出したリアンをエリシュカが追いかけようとしたが、それを双子が阻んだ。
「姉様、こっちです」
「放してマクシム、私は……」
「こっちだよ、姉様」
ラドミールが強くエリシュカを引っ張った。するとぐらりと体が傾げて、バランスを崩す。
よろけただけならよかった。けれどここは池のほとりで、周囲はやや湿っていた。エリシュカは足を滑らせ、池のほとりの石に強く頭を打ち付けた。強い衝撃と共に意識を失い、池へと落ちてしまう。
もちろん、庭園にある池は、そんなに深いものではない。けれど、小さなエリシュカが横向きに倒れれば、溺れるくらいの深さはある。
バシャーンという激しい水音、突然泣き出したマクシムとラドミールの声。
すでに屋敷の入り口まで戻っていたリアンは、音を聞いて、慌てて池の方へと戻った。
その場には、青い顔で口もとを押さえたキンスキー夫人と、泣き叫ぶだけのマクシムとラドミールがいた。エリシュカの足だけが、水面より上に見えていて、リアンはすぐに彼女が落ちたのだと判断する。
リアンは慌てて池に入り、エリシュカの顔を水面より上へと引っ張り出す。
「お嬢、……お嬢!」
意識はない。早く助け出したいが、まだ十歳のリアンの力では、濡れたエリシュカを池から抱き上げることはできなかった。仕方なく水に浸かったまま、彼女の体をうつぶせにし、水を吐き出させるように背中を叩いた。
やがて、双子の泣き声に気づいた従僕が駆けつけ、エリシュカを抱き上げる。その後の従僕の適切な応急処置で、エリシュカは上手に水を吐き出した。
双子はがたがたと震えていて、一部始終を見ていたキンスキー夫人は、蒼白になっている。
エリシュカが従僕によって運ばれて行き、リアンがずぶ濡れの自分のシャツを絞っていると、夫人の震える声がする。
「……お前のせいよ」
リアンは、夫人がなぜ険しい目で自分を睨むのか分からなかった。
「エリシュカが溺れたのは、目を離したお前のせい!」
「奥様?」
リアンは驚いた。いくらなんでも、それは言いがかりだ。大体、すぐ傍で娘が溺れたというのに、助けないだけではなく助けさえ呼ばなかったのは、夫人の方だ。
「そんな! 俺はお嬢を助けようと」
「当然でしょう。自分の失態の尻ぬぐいじゃない。言い返すなんて……。お前は自分が使用人だってこと分かっているの?」
「奥様! それはあんまりです」
リアンの悲鳴のような声は、夫人の怒りを買うだけだった。
その日、リアンは地下の部屋に閉じ込められた。夕方には、両親ともども、即日解雇されたのだ。
リアンは納得がいかず食い下がったが、両親に引きずられるようにして屋敷を出ていく。
世の中には、理不尽がまかり通る。それはすべて身分のせいで、弱いものは強いものに食いつぶされる。リアンは唇を噛みしめ、キンスキー伯爵邸を睨みつけた。
* * *
目を覚ましたエリシュカは、全ての記憶を失っていた。
自分が誰なのかも、前世の記憶も、リアンのことも全て。
のぞき込んでくる双子の顔を見ても、疑問しかわかない。
「……誰?」
「姉様、僕らが分からないの?」
「同じ顔、双子なの?」
双子は顔を見合わせ、声を合わせて泣き出した。
夫人はふたりを優しく慰めながら、「あなたはエリシュカ。キンスキー家の長女です。池に落ちて頭を打ったのですよ」と淡々とした声で言う。
医者の見立てでは、頭を打ったことと転落のショックで記憶喪失に陥っているのだろうと言うことだった。ある日、いきなり戻ってくるかもしれないし、一生このままかもしれない。けれど、生活様式などは体に身についているし、まだ七歳だから、勉学の遅れもすぐに取り戻せる。普通に生活をするには問題ないと判断された。
「大丈夫。姉様、僕らがいます。今日ここに生まれてきたと思えばいいのですよ」
マクシムの手は温かく、エリシュカは自分を庇護してくれる存在がいることにほっとした。しかし、夫人も双子も、他の使用人も一様にリアン親子のことは口にしなかった。
エリシュカは自分が池に落ちた原因も、心の底から信頼していたリアンのことも、思い出すことはなかったのである。