ヴィクトルの魔石・3
「……でもさ。私は、そんなあなたにだから、助けられたんだと思う。ありがとうね、エリク」
「リーディエさん」
「ずっとうまくお礼言えなかったけど。本心よ」
差し出された手を握る。握手が、本物の熱を持って伝わる。
「ほんとですか? 私、役に立ちましたか」
「ええ。あなたとは友達になれるって思っているわ」
「うれしいです!」
エリシュカは感極まって頬を染めた。途端に周囲からヒューヒューと冷やかしの声が上がる。
慌てて手を離し、今自分が男装していることを思い出した。
「す、すみません、リーディエさんっ」
「いいわよ、別に。それよりさぁ……」
顔の熱を引かせようと、飲み物を口に含んだ瞬間に、リーディエが爆弾発言をした。
「エリクって店長のことどう思っているの?」
ぶはっつと盛大に噴き出した。リーディエは予測していたのか、腕で顔をガードしている。
「汚いわね! すみません。おしぼりください」
すぐに店員が固く絞ったおしぼりを持ってきてくれる。
傍から見ると、年上の女性にやり込められている少年に見えるのか、「しっかりしろよ、兄ちゃん」などと、冷やかしの声も飛び交っていた。
「……なっ、なにを」
「一応確認しておこうと思って。私もリアンさん狙っていたから」
「えっと、それは……」
エリシュカは途端にしどろもどろになる。リアンのことは好きだ。一緒にいると落ち着くし、傍にいることを許されている気がする。
ただ、それを言葉にしようと思うと、難しかった。
「頼りにしてます。私に兄がいたら、きっとあんな感じで……」
「あら、兄でいいの? だったら私、諦めないけど」
「駄目って言ったら諦められるんですか?」
思わず反射で聞いてしまった。だってエリシュカだったら、リアンを慕う気持ちは、どんな風に抑え込んでも、抑えられない気がする。
リーディエは肩をすくめて答えた。
「私にとって結婚とは、今の生活からの脱却を意味するの。リアンさんは身近な人の中で一番将来有望で、いい人だわ。だから彼に恋をした」
「それって、恋なんですか?」
エリシュカにはそうは思えない。打算と言ったら失礼だが、そんなものが混じっているように思えるのだ。
「そこに疑問を感じるくらい、あなたは心が自由なのよ。ここでは身分による差別が普通にあるし、治安だってよくない。誰だって、自分の利益を確保することに必死なの。貴族だけじゃなく、平民にだってこのくらいの打算はあるわ。あなたにそうなれとは言わないけれど、大半の人間が、そういう感覚を常識として持っていることは覚えておいて欲しいわ」
リーディエの言葉は真実だろう。エリシュカの心は、どこか異端なのだ。母が、自分の子でないと感じるような。
チクンと頭が痛む。そして、かつて泣いた記憶がよみがえってきた。母親の言葉に、傷ついたあのときを。沈み込みそうな心を救ってくれた人を。
(ああだから。リアンさんが好きなんだ)
「私、……リアンが好きです。ただ一緒にいたいって思うだけで、なにもできないですけど。……大好きなんです」
勢いで出た言葉は、宣言というよりは牽制だったのかもしれない。
リーディエは一度目を丸くしたけれど、まるで本当の姉のように優しく微笑んだ。
「分かったわ。だったら私、あなたを応援するわね」
「……いいんですか?」
「ええ。あなたは私の恩人ですもの」
にっこりと笑ったリーディエはとても美しく、エリシュカはリアンも自分よりは彼女の方を好きになるのではないかと思えた。けれど不思議と、高まった彼への気持ちが消えることもなかった。
食事の途中で、エリシュカは若鳥の串焼きを持ち帰り用に頼んだ。
「店長にあげるの?」
「ええ。とっても美味しかったので、お土産です」
「馬鹿ね。冷めたらおいしさは半減よ」
「あ、そっか」
この世界にはレンジがないのだ。これもあったら便利なもののひとつではないか。
「じゃあ、いつか温める魔道具を作らなきゃいけませんね!」
レンジのようなものを魔道具として作るなら、どうすればいいだろう。エリシュカが夢中になって考えていると、隣のリーディエがくすくす笑っていた。
「あなたも店長も魔道具のことばっかりね」
「す、すみません」
「謝ることないわ。らしいわねって思っただけ。いいじゃない。お似合いよ、そういうところ」
恥ずかしくなって、エリシュカはお水を一気に飲み干す。
やがて、持ち帰り用の照り焼きも届き、ふたりは店を出る。
「送るわよ」
リーディエはそう言ってくれたが、エリシュカは胸を張って答えた。
「大丈夫です。むしろ私が送ります。今は男の子ですから!」
「それもそうね」
結局、貧民街の入り口までリーディエを送っていって別れることになった。
「本当にここで大丈夫ですか?」
「うち、すぐそこだから平気よ。あなたこそ、気を付けるのよ」
「はい!」
リーディエと別れた後は、小走りで店の方に向かう。いいにおいのする包みを抱えたエリシュカは、やはり目に付くらしく、道路の端で何の気なしにたたずむ若者たちの視線が気になる。
しかしそれも、貧民街を過ぎれば少なくなっていった。
「……はあ、なんか緊張したぁ」
店の近くの通りにまで来ると、多くの店が閉まっているからか人けは一気に無くなっている。ここまで小走りだったエリシュカは、立ち止まって息を整えた。
(……ん?)
視線の先に、うつぶせになり地面に転がっている男を見つけた。
(なんだろう。怖い。ここは見て見ぬふりで行くべき?)
だが、病気だったらと思えば、無視するのも気が引けた。そっと近づいていくと、その姿には見覚えがあった。
夜に溶けるような黒い髪、端正な横顔は、ヴィクトルのものだ。
「ヴィクトルさん?」
「……エリシュカ?」
こちらに向けられた顔を見て、エリシュカは一瞬、別人だったかと思った。だが彼が自分の名前を呼んだことで本人だと分かる。それくらい、いつもの張り付けたような笑顔が消え去り、固い表情をしていた。