前世の記憶と幼馴染・2
エリシュカが昼寝から目覚めたとき、部屋には誰もいなかった。
「お母様? サビナ?」
眠るときは、サビナがいたはずだ。眠っていると思って別の仕事に行ってしまったのだろう。 エリシュカはベッドから自力で起きると、廊下に出てサビナを捜した。
広い屋敷は子供にとっては少し怖い。エリシュカが昼寝をしていたからなのか、二階には人けがなかった。小走りで階段の近くまで向かうと、最初に会ったのはリアンだ。
「あれ、お嬢。もう起きちゃったんですか?」
洗濯済みのシーツを抱えている。リアンは使用人の子供で、正式に雇用されているわけではないが、他の使用人の手伝いをしていることが多い。
「うん。……お母様は?」
目をこすりながら言うと、リアンはほほ笑み、少しだけ屈んで、エリシュカと目線を合わせた。
「先ほどまで、坊ちゃま方とお庭におられましたけれど、静かになりましたしね。……探すならご一緒します。これ、片付けてきますから待っていてくださいね」
「うん」
リアンがパタパタとリネン室に向かって廊下を駆けていく。すぐに戻ってきてくれると信じて、エリシュカは彼の後ろ姿を見送った。
(マクシムとラドミール。お母様に遊んでもらっていたのか)
エリシュカの二歳年下の弟は双子で、キンスキー夫人は彼らを溺愛している。子供と散歩したり、勉強を見てくれたりと、子育てには関心のあるキンスキー夫人だが、エリシュカに対する態度は双子に向けるものとは少し違っていた。
だから、エリシュカは時折無性に寂しくなる。
「……なのよ」
「まあ奥様ったら」
サビナの声が聞こえて、エリシュカは声のする方に足を向けた。声は階段の下からする。
「寝かせてまいりましたわ」
「お坊ちゃまたちはお疲れになったようですね」
「ええ。そうね。無邪気でかわいいこと」
階段の下で、母とサビナと双子の世話係が話している。
エリシュカが二階から声をかけようと口を開いたタイミングで、「でもエリシュカには困ったものだわ」という母の声が聞こえ、冷水をかけられたような気持ちになった。
「いつも空想の話ばかり。お転婆だし、私の言うことなど聞きやしないのだもの」
「まあ奥様、エリシュカさまはあんなに愛らしいじゃありませんか。奥様そっくりの銀の髪も美しくて」
「やめてちょうだい」
母の冷たい言い方に、足がすくむ。エリシュカは思わず壁にくっついて身を隠した。
「お嬢?」
タイミング悪く、シーツをリネン室に戻してきたリアンが駆け寄ってくる。
呆然と口もとを押さえるエリシュカと共に、彼はキンスキー夫人の決定的なひと言を聞いてしまった。
「時々、ものすごく大人びたことを言うし、かと思えばひどく子供っぽい癇癪を起こすでしょう。私、あの子のことがよくわからないの。……あの子が自分の子だと思えないのよ」
リアンは、咄嗟にエリシュカの耳を塞いだ。
もちろん、それはすでに遅く、エリシュカは母の言葉を聞いてしまっていた。ボロボロと涙がこぼれてくるが、嗚咽を漏らさなかったのは、母に自分がここにいることを知られたくなかったからだ。
ただ黙って泣くエリシュカに、かける言葉が見つからず、リアンはしばらくオロオロしていたが、やがて、「部屋に戻りましょう、お嬢」と優しく耳元に語り掛けた。
エリシュカは頷き、手を引かれてお昼寝をしていた寝室へと戻る。
パタンとドアの閉まる音を聞いた途端に、我慢していた声が漏れた。
「う、うわあああん」
「お嬢、大丈夫ですよ。あんなの嘘です。聞き違いですよ」
「わああああん」
母親だって人間だ。感情がある。双子より好かれていないことくらい、肌で感じていて知っていた。そしてエリシュカは、自分が双子とは違い無邪気なだけの子供じゃないことも分かっている。母が、薄気味悪く思う部分は、確かにこの心の中にあるの。エリシュカは前世の記憶を持って生まれてしまったのだから。
仕方ないと思いながら、それでも母親に理解してもらえないのは、堪えようもなく悲しかった。
「俺は、お嬢のこと好きです」
「……リアン」
「大事です。だから泣かないで、お嬢」
リアンがギュッと抱きしめてくれた。リアンの肩がエリシュカの涙で濡れていく。それでも、リアンは背中をずっとさすってくれた。
「……ふえ」
エリシュカはまた泣きたくなる。でも今度は、さっきのとは少し違った。リアンの言葉がうれしくて、安心して泣きたくなったのだ。
* * *
「何事ですか?」
泣き声を聞きつけてきたサビナが、部屋に入ってくる。彼女は中の光景を見て、顔色を変えた。泣いているエリシュカを、リアンが抱きしめているのだ。幼い男女とはいえ、使用人のする行動ではない。
「リアン! お嬢様に何をしたの!」
リアンはエリシュカから引き離され、サビナに頬を強く叩かれた。女性の力にしては強く、リアンはバランスを失い、膝をつく。
それはあまりに一瞬の出来事で、エリシュカは呆然と倒れたリアンを見ていた。
「やめて! サビナ」
「使用人がお嬢様に何をしたの!」
リアンは黙っていた。弁明すれば、さっきの会話を聞いていたのがバレてしまう。エリシュカがそれを望んでいるとは思えなかったから、黙ることしかできなかったのだ。
そこに、エリシュカが割って入る。
「やめて、サビナ!……リアンは悪くない。怖い夢を見て泣いている私を、慰めてくれてたの」
リアンは驚いて顔を上げた。
この状況で、咄嗟に事実と違う言い訳を、五歳の子ができたことに違和感しかなかった。実際、八歳のリアンには思いつかなかったのだから。
「だから怒らないで」
涙を拭きながらそう言うエリシュカを、リアンは不思議な気分で見つめた。
サビナは彼女の剣幕に驚きつつ、「まあ、そうですか」と気まずそうに言い、リアンには「悪かったわね」とぞんざいに謝罪した。
「いえ……」
リアンはキンスキー夫人の言葉を思い出していた。時折、ものすごく大人びているというところには、リアンも同感ではある。
だが、今の言葉はリアンが責められているのを助けるために出てきたのだ。
たしかにエリシュカは変わっているが、優しい子だ。
「リアン、大丈夫?」
まだ潤んでいる瞳を、まっすぐにリアンに向けて、エリシュカが手を差し伸べてくる。
彼女の力では引っ張ることなどできないだろうにと思うと、リアンは胸がむず痒くなった。
「ありがとうございます。お嬢」
笑いかければ、エリシュカはホッとしたように笑った。
* * *
廊下から、それをうかがうように見ていたキンスキー夫人は、胸にモヤモヤしたものを抱えていた。
エリシュカに感じる、他人の気配。ただの子供とは思えない何かが彼女にはあり、夫人はそれが恐ろしかった。
この事件をきっかけに、夫人とエリシュカの間はますます希薄になっていった。
寂しくてたまらなかったエリシュカもやがて慣れていく。愛してくれない人にいつまでもすがるよりも、毎日を楽しく生きる方が大事だ。
エリシュカは母からの愛情が得られない慰めをリアンや庭の散策に求め、今までにましてお転婆になっていく。
そして、伯爵家の庭で、エリシュカが登ったことのない木はないほどにまでなったのだ。