翁丸
「信濃殿、久しぶりね。一の宮様は女院様のお計らいで、文章博士の講義を受けていらっしゃるの。今日は女院様が、木曽の話を詳しく聞きたいと仰せよ。無礼のないようにね」
出仕した巴を出迎えた加賀は、一の宮ではなく八条院の御前へ通した。
八条院へ出仕しても、一日中一の宮の相手をするわけではない。女房達が集まる曹司に控え、一の宮の「弓馬の時間」を待つ。
曹司では、伺候していない他の女房達も一緒で、皆、巴の話を聞きたがる。彼女達の中には、ほとんど都を出たことのない者が多く、また、受領の娘で父の任地に暮らしたことのある者も、そこでの生活は都とさほど変わらない。
だからこそ、巴の話に興をそそられるらしい。
いつもは喧しい程に相づちを打つ女房達だが、今日は八条院を憚ってか、妙に大人しい。それでも、話が佳境に入れば、自然と言葉が、口から零れる。
この日の話題は狩であった。
「まあ、怖い。でも楽しそうね」
そう言ったのは加賀で、受領の父を持ち、任国へ同行した経験があるという。
「それで、どうなりましたの」
期待に満ちた目で続きを促すのは、物語が好きで自身も何やら書いていると噂の侍従。お気に入りは『落窪物語』で、現実的な描写と幸せな結末の好対照がいいのだという。
巴が話を続けようとした時。急に御簾が小さく揺れ、微かに風が入る。黒い塊が飛び込み、八条院がいる几帳の向こうへ消えた。
「御前、失礼いたしまする。今、こちらに命婦のおもとが……」
一人の女房が駆け込んできた。声が細く、控えめで大人しそうな印象を受ける。
「ここにおるが……いかがしたのじゃ、若狭」
几帳の向こうから、黒い塊を抱えた八条院が姿を現す。よく見るとそれは、一匹の黒猫であった。艶のある美しい毛並みに、整った愛らしい顔立ち。自身の主が解っているのか、大人しく抱かれている。
「申し訳ございませぬ。鬼丸が鳴いたものですから、驚いてしまったようで……」
若狭と呼ばれた女房が平伏して答える。
鬼丸とは、八条院で飼われている赤犬である。人懐こく大人しいが、気に入った人間には甘え、遊んでもらえるまで激しく鳴くのだ。
命婦のおもと……猫……犬に驚く……巴は、心に引っかかりを覚えた。それはどこか、狩の折、近くに獲物が潜んでいると直感した時の感覚に似ている。必死に頭を回転させた。『源氏物語』に、唐猫が出てくることを思い出す。しかし、犬は出てこない。『在五中将』、それとも、『大和物語』だろうか……いや、どちらも違う。他に読んだものといえば……一つの作品の名が浮かんだ瞬間、脳内に閃光が走った。
「鬼丸は、今日から翁丸ですね」




