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暁闇に春風ぞ吹く  作者: 夜宵氷雨
第1章 山吹と巴
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音色

 幾重にも重なる衣の袖口から、白魚のごとく滑らかな、長い指が覗く。その指は優雅な動きで、箏の琴を奏でる。美しく、どこか悲しげな音色が、屋敷の外にまで広がった。

「この曲、なんていうかわかる」

 鈴を振るように愛らしい声が、巴の耳に刺さる。言葉は問い掛けだが、知っていて当然と、言われているのだ。もう何度も、彼女が、山吹が奏でる箏を聞かされているのだから。

 しかし、音曲に疎い巴は、どの曲も違いがわからなかった。どの曲も美しい音色だとは思うが、それだけであった。

 しかし、こうして曲目を問われて間違えると、山吹はいつも癇癪を起こす。山吹が癇癪を起こすと、周囲に怒られるのは巴の方であった。

 それに異を唱えることはできない。


 山吹は、古くから信濃国東部に勢力を伸ばす滋野党の棟梁、海野幸親の娘である。その幸親の兄で、信濃権守であった中原兼遠が巴の父だから、二人は従姉妹同士になる。しかし父親同士の兄弟順や朝廷での官位はともかく、この地の棟梁が海野に婿入りした幸親である以上、山吹に対して、無礼は許されないのだ。

 巴は、何度か山吹の箏を聞くうち、雰囲気によって、曲名を判別することを覚えた。

「『想夫恋』、でしょうか」

 もの悲しさを含んだ曲といえば、まずこれが浮かんだ。

「正解よ。だいぶわかるようになったのね。それとも、この曲だからかしら」


 山吹の言葉に、巴は曲名を当てたことを後悔した。山吹が癇癪を起こしても、わからない振りをする方がよかったかもしれない。

 『想夫恋』は、本来『相府蓮』と書き、かつて大陸に栄えた、晋朝の大臣の邸に咲く蓮を歌ったものであった。それが、読み方が通じる『想夫恋』と書かれ、男性を慕う女性の気持ちを歌うものとされているのだ。

「何度も、聴かせて頂きましたから」

「そうかしら。『青海波』もよく弾くけれど、当てたことなんてないじゃない」

 巴の返事に、山吹の機嫌が悪くなる。『青海波』は、似たような雰囲気の曲が多く、わかりづらいのだ。しかしそれは、言っても無駄なことだ。今の山吹は、巴に曲名を当てさせようとしているのではないのだから。


「ねえ、巴。巴には、『想夫恋』を捧げたくなるようなお相手はいないの」

 口を閉ざした巴に、山吹が問い掛ける。

「そのような御方は、おりませぬ」

 巴は辛うじて声の震えを抑え、俯いたまま、ようやく言葉を絞り出す。

「本当に」

「もちろんです」

「そう。じゃあ、私が冠者殿を婿殿をお迎えしても、巴は平気なのね」

「心より、お祝いします」

 そう答えた声は、自分でも驚く程に擦れている。

「そんなの、うそよ」

 山吹の声が、甲高く響く。次の瞬間、山吹の傍らに置かれていた譜本が、巴に向かって投げつけられた。 幾重にも重なる衣の袖口から、白魚のごとく滑らかな、長い指が覗く。その指は優雅な動きで、箏の琴を奏でる。美しく、どこか悲しげな音色が、屋敷の外にまで広がった。

「この曲、なんていうかわかる」

 鈴を振るように愛らしい声が、巴の耳に刺さる。言葉は問い掛けだが、知っていて当然と、言われているのだ。もう何度も、彼女が、山吹が奏でる箏を聞かされているのだから。

 しかし、音曲に疎い巴は、どの曲も違いがわからなかった。どの曲も美しい音色だとは思うが、それだけであった。

 しかし、こうして曲目を問われて間違えると、山吹はいつも癇癪を起こす。山吹が癇癪を起こすと、周囲に怒られるのは巴の方であった。

 それに異を唱えることはできない。


 山吹は、古くから信濃国東部に勢力を伸ばす滋野党の棟梁、海野幸親の娘である。その幸親の兄で、信濃権守であった中原兼遠が巴の父だから、二人は従姉妹同士になる。しかし父親同士の兄弟順や朝廷での官位はともかく、この地の棟梁が海野に婿入りした幸親である以上、山吹に対して、無礼は許されないのだ。

 巴は、何度か山吹の箏を聞くうち、雰囲気によって、曲名を判別することを覚えた。

「『想夫恋』、でしょうか」

 もの悲しさを含んだ曲といえば、まずこれが浮かんだ。

「正解よ。だいぶわかるようになったのね。それとも、この曲だからかしら」


 山吹の言葉に、巴は曲名を当てたことを後悔した。山吹が癇癪を起こしても、わからない振りをする方がよかったかもしれない。

 『想夫恋』は、本来『相府蓮』と書き、かつて大陸に栄えた、晋朝の大臣の邸に咲く蓮を歌ったものであった。それが、読み方が通じる『想夫恋』と書かれ、男性を慕う女性の気持ちを歌うものとされているのだ。

「何度も、聴かせて頂きましたから」

「そうかしら。『青海波』もよく弾くけれど、当てたことなんてないじゃない」

 巴の返事に、山吹の機嫌が悪くなる。『青海波』は、似たような雰囲気の曲が多く、わかりづらいのだ。しかしそれは、言っても無駄なことだ。今の山吹は、巴に曲名を当てさせようとしているのではないのだから。


「ねえ、巴。巴には、『想夫恋』を捧げたくなるようなお相手はいないの」

 口を閉ざした巴に、山吹が問い掛ける。

「そのような御方は、おりませぬ」

 巴は辛うじて声の震えを抑え、俯いたまま、ようやく言葉を絞り出す。

「本当に」

「もちろんです」

「そう。じゃあ、私が冠者殿を婿殿をお迎えしても、巴は平気なのね」

「心より、お祝いします」

 そう答えた声は、自分でも驚く程に擦れている。

「そんなの、うそよ」

 山吹の声が、甲高く響く。次の瞬間、山吹の傍らに置かれていた譜本が、巴に向かって投げつけられた。

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