もういいよ
楊には県警本部から所轄に一緒に流れて以来の数年に及ぶ相棒があり、その男は楊にとっては親友でもあるが楊を扱く鬼教官でもあった。
彼は楊に課題を与えては鍛え、楊は彼の言うがまま昇進試験を受けて階級を上げ、気が付いたら勝手に作られた課の課長にもなっていたのである。
勿論、課のフィクサーは相棒であった男、髙悠介だ。
髙の一重の瞳から発せられる眼光を思い出して、楊は背中に冷たいものが走ったのだが、その冷たいものが無くなった事を無性に寂しいと思っている自分も知っている。
「ふん。そんな仕事はしたくないって言ったら、簡単に捨てられちゃったよ。」
完全に不貞腐れたかのように、楊は拭いたばかりで湿った畳にごろりと転がった。
すると、楊に追い打ちをかけるが如し、楊の顔の上に大型の犬の腹がでろんと乗せ上げられたのである。
「やめて、ゴンタ。なんかとっても嬉しくない。」
猫と違い犬の腹毛は背中の毛よりも柔らかい程度のものであり、顔に当たる毛はゴワゴワとしか感じず、さらに犬独特の体臭とほこりと小便の臭いが混じった生暖かさに楊は癒されるよりも追い詰められ、終には自分を本気で哀れんで涙さえも出てくるようである。
「畜生。長年の相棒には見限られ、県警の役職も無くなったからって、物の様に本庁と合同捜査だって貸し出され、でも、ただの補欠要員的な扱いで、親友には初対面に近い哀れな女性と無理矢理結婚させられてしまう。俺って本当に可哀想だよ。」
「かわさん。かわさんにセットされて身動きの取れない僕の方が刑事としてはもっと不幸でしょうが。」
楊は山口を無視して犬の背中をぎゅうっと抱きしめた。
楊を慰める気持ちのあるらしい犬を可愛がることにしたのである。
何しろ、楊は玄人の自宅から三軒隣りの借家から動いてはいけないと、県警の上司どころか警察庁のお偉いさんにまで命じられているのである。
楊と違い山口は元公安の腕があるからと案件の中心へと引っ張られかけたが、楊が上司権限で山口までも借家の肥やしにしているだけだ。
「ねぇ、かわさん。」
「いいじゃん。お前はさ、俺のお陰でちびと遊べるじゃん。」
「えぇ。その通りですよ。かわさんのお陰です。仕事をしないで恋人と遊べて幸せなどと、公僕が大声で宣伝出来やしないでしょう。」
生暖かい犬の腹と暗闇が急に消え、楊の目の前が開けたのは山口が自分の犬を楊から持ち上げてくれたからである。
「うわぁ。」
楊を覗き込むようにして微笑んでいる山口の表情はいつもの作り笑いではない。
彼の本当の笑顔に遭った全員が全員、「王子様」だと口を揃えるだけでなく、頭に血を逆上せて彼に心酔してしまう理由を、楊は今現在自分で体験しているのだと実感していた。
ただ煌いているのではない。
慈愛、を感じるほほ笑みを山口は湛えているのだ。
全ての者に許しを与えるのかという程の、純粋で優し気な微笑を眺めているうちに、楊はそこで玄人が山口に惚れた本当の理由を知った気がした。
玄人は父親にネグレクトされ続け、精神的虐待を続ける継母を実母と思い込んで成長してきた過去がある。
そんな彼は世界が怖いものでしかなく、常に自分がそこにいられる許しを他者に求めているのである。
ここまで玄人の心の闇は深かったのかと、楊は例えようもない気持ちで玄人を見返したのだが、――彼はモルモットと遊び始めていた。
「おい。そのウンコ製造機を籠から出すなよ。そこは俺の寝床でしょう。布団を敷く所にウンコをぽろぽろ落とされると困るんだよ!」
「仕方が無いですよ、かわさん。クロトの二番はアンズちゃんですもの。」
「畜生、俺はウンコ製造機に負けたのか。はは。お前に百目鬼がいるから同列一番って事で、俺は四番手か?」
「いえ。僕も良純さんも、アンズちゃんの下です。クロトの一番はクロトですから。」
楊は百目鬼に「ざまあみろ」という黒い感情も湧いたが、それ以上に山口が可哀想になっていた。
次に警察庁に貸せと言われたら貸し出してやろうと考えるほどに。
だが、山口を貸し出せばそこで大将となっているあの傲慢な相棒が喜ぶだろうと少々残念な気持ちにもなったが、楊が一人ぼっちで可哀想だと相棒が帰ってくるような気もしていた。
百目鬼に言わせれば、髙は「可哀想好き」という変態なのだそうだ。
髙の中では可哀想度と好感度が比例どころか一本線になっているそうで、可哀想な人間こそ髙には好感度が高いのだと、あの失礼な男が楊に囁いたのである。
「あいつの女房は常に自分自身を不幸に落とす可哀想な女で、愛犬のなずなは虐待されて片目のない奴だろ。山口は普通に天涯孤独で可哀想な身の上の男だし、クロなんて、不幸を呼ぶ哀れな奴だ。そして、お前。可哀想な、がお前の枕詞じゃないか。」
楊はどうしてあんなろくでなしと親友でいるのかと、思い出して本気で自分が可哀想になっていた。
何しろ、誰も楊の告白など聞く気も無いのだ。
本日五月二日、楊は妻帯者になって、やもめとなった。
百目鬼に呼び出された楊は、死んだはずだが死ねない女性の横に立ち、彼女を妻とすると誓い、婚姻届を書き、そして、彼女を滅ぼしたのである。