もうぐだぐだ
長い足にぐるぐると巻き付くようにじゃれつく大型犬を捕まえようとしていた青年は、楊が良くやるような眉間に皺が寄るくらいに眉根を寄せた。
そして、楊が居心地が悪くなるぐらいまでじっと見つめ返し続けてきたのである。
勿論、楊が逆切れるのは決まり事でもある。
「何だよ。その目は!言いたいことがあるならさ、言いなさいよ。」
「――言いたい事って、こんな格好をしているのは、かわさんに言いつけられたとおりに、隣のルリ子さん宅の手伝いをしていたからですけど。あのレースとフリルが大好きで、性悪な巨大ネコを飼われている、この地域のドンと恐れられているルリ子様宅で、です。」
「ポン子のママはヴィクトリアン風の内装をされているだけですよ。」
「あ、ちび。今、大人の話題をしているから。ほら、君も仕事の話は一般人の前でしない。」
「仕事の話、そうですね、関係していますね。潜入捜査で近隣に溶け込むべきって、かわさん自身が言い張っていた事を反省しているんですね。僕はそこまでしなくていいって言ったのに、今は次から次へと近所のお誘いに招かれて業務どころじゃないですものね。」
「誘われんのはお前ばっかりじゃん。」
「最初に僕を生贄にしたのは誰ですか?」
楊は青年から目線を逸らして聞こえない振りをした。
何しろ、楊が潜入捜査を説いた相手である山口淳平巡査は、楊より四歳ほど年若い部下であるが、高校卒業後に警察入りをし、交番勤務という下積み一年を終えるや否や公安に引っ張られたという、大学を出て警察に入った楊よりも刑事歴も長く経験も高い刑事なのである。
楊よりは階級が低いけれども、それは山口が好きに動きたいと絶対に昇進試験を受けない人物でもあるからだ。
昔の相棒に「基本給が上がればボーナスこそ上がるからね。」と唆されるまま、昇進試験に徹夜勉強していた楊とは違うのだ。
新人を任せたいためだけに山口を巡査長に任命したが、その時の山口の怒りを含んだ両目の煌きに脅えた過去も楊にはある。
「もう。おかげで僕はかわさんの奥さん扱いですよ。」
言い捨てるや山口は自分の犬を言い聞かせる事を完全に放棄し、冷蔵庫の方へと歩いて行った。
楊の持っていたものと同じアンプルを取り出すためだろうと、楊は心の中で舌打ちをしながら山口の背中を見送った。
無造作にカットした少々明るい色の髪も、着崩した服装も、スタイルの良い山口がすればそのまま雑誌モデルの様である。
見栄えの良い後ろ姿に羨ましさも込めて楊は眺めてしまっていたが、楊の隣に戻ってきた生き物は、山口の格好良さよりも新発売の乳酸菌への期待しかないらしく、子供の様にひょこひょこと座ったまま蠢いているだけである。
玄人は家事をしないというポリシーを貫くためか、気心の知れた楊宅どころか自宅の冷蔵庫も野菜室以外は自分で開けない人間だ。
ちなみに、そんな彼が唯一開ける野菜室は彼が野菜が大好きだからではなく、彼の愛するモルモットに餌を与える為である。
そのモルモットは、先程迄玄人が転がっていた部屋の隅に置かれたケージの中で、楊が彼女の事を考えた事を知っているかのように見つめ返してきていた。
楊は弱虫と罵られることを恐れない男であるので、そっと巨大鼠から目線を逸らした。
スキニーギニアピッグという品種名通り丸裸の子豚の様にしか見えない小型の生き物であるが、彼女が餌が欲しいと泣きだしたらそれは脅迫とも思える煩さであり、そして脅迫に負けて餌を与えれば食いすぎで腹を壊して大量のウンチを積み上げて異臭を放つという、迷惑なウンコ製造機でしかないのだ。
「この、泣いて飯を食らうだけの生き物が。」
山口と同じぐらいの身長に山口よりも体格の良い男が、楊の目の前でモルモットの籠に野菜を突っ込む姿が低い声と共に思い出されて、楊の背骨がぞくりと疼いた。
楊と同い年の男、玄人を養子にした百目鬼良純は、完璧な外見だけでなくどんな人間も誑し込める恐ろしい声を持ってるのだ。
そこで楊は、玄人と玄人の大事な鼠を楊に預けて以来、百目鬼が彼の新しい師の元から帰って来ないと楊は思い出し、だが、楊を罠に嵌めに現れて数時間前に会ったばかりだったなと、親友の悪辣さも思い出してしまっていた。
楊が今度はあからさまな溜息をつくそこで、山口はほくほくとした顔で台所から戻ってきた。
彼の後ろに続く馬鹿犬は、山口に頭部を洗われたからか首から上が細くなっており、首狩り族の首だけミイラのような間抜けな姿になっている。
そんな不気味犬は楊と目が合うや、何を考えたのか「わふ。」と嬉しそうに鳴いて、再び台所の方へと走り去っていった。
「ゴンタはこの家が物凄くお気に入りみたいだね。」
「廊下が長いですものね。良純さんの言うとおりに廊下に養生用の絨毯を貼って置いて良かったですね。ゴンタの爪で傷だらけになるところでしたよ。」
「その設置料込みの養生絨毯は、あいつにいい値段を払わせられたけれどね。」
「彼はやり手の不動産屋でもありますから。この家を借りる時にはちゃんと契約書も作ってくれたでしょう。この家の持ち主は狸だから、借主のかわさんにメンテナンス料を吹っ掛けるための難癖をつけてくるぞって。」
「はは。俺達の署長を狸って罵っておいて、しっかりその仲介手数料を俺と署長から分捕っちゃうんだからね。あいつこそ大狸だろう。」
「さすが、良純さん。」
「ふん、山口はあいつが大好きだものな。もういいよ。あぁ、ゴンタが戻ってきた。」
ゴンタが運動会をしているこの家は、中庭を挟んだ形に匚の字型となっている昭和の木造建築である。廊下が長いからか、ゴンタは朝から晩まで廊下を行ったり来たりして走り回って喜び、疲れれば適当な場所で転がって眠りこけ、迷惑な廊下の障害物となっているという具合だ。
「騒々しいだけの犬を飼っている男性カップル。まぁ、だからクロトがこの家に入り浸っても怪しい噂が立つどころか、一緒に過ごせるのだからいいですけどね。はい、君の分。」
「わぁ、ありがとう淳平君。」
玄人に山口が甘いのは、山口による楊への意趣返しではなくて、ただ単に山口が玄人の恋人であるからである。
自分が男性であると言い張る玄人は異性愛者とも言い張っていたのでもあるが、大勢の男達に言い寄られる中で全員をお断りするどころか、なぜか山口だけは恋人に選んだ。
百目鬼によれば、玄人が同性で同年代の友人を作れなかったからこそ、積極的に親友の名乗りを上げ絶対的な賛同者であろうとした山口に絆されただけだろうという事だが、楊にはそれは違うと言い切れる。
男性性であらねばならないと思い込んでいる玄人であるがゆえに、「男の子でも構わない」と玄人を口説く男よりも、「男の子」だけに恋愛感情を抱くと公言している同性愛者に愛される事を選ぶのは当たり前であり、それが玄人のアイデンティティの確立には必要不可欠なのだろうと楊は考えているのである。
だがそれは玄人にも山口にも知らしめるものではなく、親友である百目鬼こそ気付かせるものではないだろうと楊は考えている。
百目鬼という男は、僧侶にはあるまじき下世話な男であるからだ。
つまり、数時間前に婚姻届けを出す羽目になった自分の身の上には百目鬼が大きく関わっていた。
その事によって彼が元々抱えていたローンや、最近被った返しきれない借金から解放されたばかりでなく、一瞬で億単位の個人財産までも手に入れてしまったという事実もある。
つまりは百目鬼が楊の金銭的な苦境を助けてくれたとも見ることが出来るが、とりあえず楊はそこには大きく目をつぶって、結婚という罠に嵌められた事だけを恨んでいるのである。
「くそう。俺の嫁のどこが悪い!畜生!刑事の相棒は夫婦同然だろうが!」
「最近そっちは離婚しちゃいましたものね、かわさん。」