生き物であるということ
敵が望んでいた事柄の成り行きは、浮ついた私生活を送る金満な若者の自業自得的な死と、その死に伴う彼の城と言えるべき商社ビルの破壊であろう。
「そして、俺が全ての元凶、か。」
楊は人気のない暗い廊下の天井や壁を見回しながら呟いた。
「あーあ。清掃に馬鹿みたいに金がかかりそうじゃない。」
天井や壁に貼り付いていた軟体生物の姿は既に無いが、それらがいた場所はぬらぬらとした粘液で塗りたくられ、体液による化学反応であるのか、赤茶けた大きな染みが白かったであろう壁や天井を薄汚く彩っているのである。
「燃やさなくとも原状回復には、相当の金が掛かるでしょうに。」
そこで楊は独り言を一度区切り、辺りをぐるりと見渡してから、かなりの大声を響かせたのである。
「ねぇ、聞いているかな?自分のものになっても、これから無駄な金がかかるんじゃあ、お得どころか不良債権でしょう!」
無人の筈の廊下であったが、楊の大声に呼応するように女性の含み笑いが辺りに響き、その響き声の主は楊の目の前にふらりと現れた。
「すごいね。姿を消せる目くらまし。」
楊の目の前に立つのは、楊が設楽季家から追い払ったふきの姪である設楽季夕夏である。
ふきと違い長身のモデルのようなスタイルに、ふきと違い誰が見ても美しいと言うであろう人形のように整った顔を持つ美女である。
四十代とも思えない美しい外見の彼女は二十代のように若々しく瑞々しくもあり、表情の浮かべ方も世間を知らない人形のようだった。
つまり、感情が伴っていないような作り笑いに見える笑顔だ。
そんな美しい彼女は、カシュクールとなっている膝下丈のワンピースを纏っていた。
この赤黒く汚れた世界に華を添えるかのように、素材は金色に輝くシルクシフォンである。
しかし、その華やかな美女は楊と目が合うと、今度こそ感情の伴った、その美しさを全て無駄になるほどの歪んだ笑みを顔に浮かべた。
「私の物にならないのなら、全部を駄目にするし、全部いらない。それだけよ。」
「ふきは愛情豊かな優しい女だったよ。君が彼女に少しでも優しくしてあげていれば、彼女は君に全部を捧げただろうに。」
「あら、優しくしてあげていたわ。」
夕夏はおもむろにウエストの細いベルトを解くと、カシュクールの前をはだけた。
丸裸になった彼女に楊は一瞬怯んだが、彼女のワンピースの下の事実を知るや彼はぎゅうっと瞼を閉じるしかなかった。
彼女の体に残るのは、ふきの体にあった虐待痕と同じものである。
熱湯をかけられたか、醜いケロイドが右肩から左の横腹まで広がり、両胸は膨らみを持つどころか歪み、瘤の様な隆起にしか見えない形で存在していた。
「ふふ。醜いでしょう。でもね、この傷跡を付けたのは、あの、ふきなのよ。あのふきが、私の母を唆して、私にこんな傷跡を付けさせたのよ。愛情深い?笑えるわ。あの女は私が白波の長男の婚約者だと知るや、私を結婚できない体にしたの。」
しかし、目をつぶる楊には違う情景が見えていた。
白波を手に入れたがった女の執念を知ったふきが、哀れな少女に別の道を与えようと声をかけたその情景が。
十歳ぐらいの少女は、その年頃にしては背が高く痩せぎすで美しいものではなかったが、それ以上に似合わないデザインの服を着せられて哀れな存在そのものでしかない。
彼女の母親は嫁ぎ先の親族を殺しかけた咎でそこから追い出されたが、娘を白波の家の少年に嫁がせる事で返り咲こうとそればかりだ。
だからか自分を娘に投影し、自分が似合っても娘には似合う事のない服を着せ続け、さらには可愛らしくなれないのはみっともない娘が悪いのだと、自分を不幸にしてばかりの邪魔な娘だと、罵るばかりなのである。
自分が醜いから誰にも顧みてもらえなかったと嘆くふきが、醜いと母親に毎日のように罵られている夕夏に自己投影したのは仕方が無い。
「ふきはね、本気で君には同情と愛情を持っていたんだよ。」
「じゃあ、どうして。どうしてあの女の目の前で、私が結婚できなければ財産を全て私に上げるなんていったのよ!」
楊は夕夏の叫び声に目を開けるべきだとわかってはいたが、目を開けることはできなかった。
母親に熱湯をかけられた夕夏の過去の映像に、楊は同調しすぎていたのである。
「あの女が余計な事を言ったばかりに!」
ようやく目を開けた楊の目の前にいるのは、子供の時のままの憤懣を抱えて年だけを重ねただけの子供である。
自分の苦しみをそのまま他人に味合わせようと、それでしか自分の苦しみを訴える事しかできない虐待された子供に、楊は「償わせる」という気持ちが完全に失せていた。
彼女は楊が保護した純子と同じであるのだ。
「君のお母さんの壊れ具合を全く知らなかったからだよ。」
楊は夕夏に両腕を差し出し、彼女を腕に抱き留めた。
「でも、君は可哀想だった。可哀想だったね。」
「かわちゃん!駄目!その女を撥ね退けて!」
楊は突然の妹分の大声にびくりととし、殆ど悲鳴のその大声通りに夕夏を遠ざけようとしたところで、自分が何かに刺し貫かれている事に気が付いた。
夕夏の体からは赤黒い突起がハリネズミの様に張り出しており、それら一つ一つが楊の体を引き裂いているのである。
「きゃあ!もう!かわちゃんの馬鹿!」
後ろに倒れる楊を支えたのは玄人であった。
だが非力すぎる玄人には楊を支え切れるはずもなく、彼は楊を自分の体に寄りかからせるようにしながら床に座り込むと、近づく夕夏に向けて右手を掲げた。
「きゃあ!」
今度の叫びは夕夏である。
玄人の手の平からは青白い光線が夕夏へと煌き、彼女はその光を体に受けると大きく体をのけ反らせてから後ろへと転がったのだ。
「うわぉ。お見事な電撃。」
「黙って。」
玄人が掲げた右手を今度は指揮者の様に動かすと、楊と玄人を囲むように青い光が幾筋もの細長い筋を作り出し、彼等を守る様にそのまま電撃の青い檻を作り上げた。
安全地帯を作り上げた事に玄人は安堵の吐息を吐くと、次には楊が考えている通りに楊の血に染まった胸に右手を当てたのである。
「傷を今すぐ治しますよ。」
しかし、楊は自分の胸に当てている玄人の右手を掴むと、彼の手を自分の胸から遠ざけたのである。
驚きの顔つきの玄人が自分を覗き込み、楊はその顔が笑えると鼻で笑うと、掴んでいる玄人の右手の甲にちゅうっと軽くキスをして放した。
「わりぃ。身代わりの術はやめて。」
「かわちゃん!どうして敵にまでそんないい顔をしたがるの!」
「ちび。お前はそのろくで無さをどうにかしなさいよ。記憶喪失時代の虫も殺せなかったちびに俺は会いたい。」
玄人は怪我人である楊の額を右手で強く叩くと、すっと夕夏を指し示した。
「かわちゃん。よく見て。夕夏なんていないの。母親に殺された子供なんてここにはいないの。あれはかわちゃんの血を吸ったヒル。少々の怪我を返したってそんなダメージになりませんよ。」
「え、何を言っているの。俺は見たよ、夕夏が虐待を受けた記憶も。それに、俺達の目の前にいるだろう。」
「だからよく見て!」
楊は自分を抱きかかえている玄人の腕の中にいるまま、青白い電撃の檻の外にいるはずの夕夏を見返し、それが赤黒い赤ん坊のような形をした軟体生物で作り上げられていた人形でしかないと思い知ったのである。
「うそ。本当だ。彼女は姿が見えなくなる目くらましではなくて、俺の血を吸ったあのウナギが合体しただけの生き物だった?」
「もう。かわちゃんたら。ウナギじゃありません。あのウナギの餌というか、お弁当がかわちゃんの血を吸ったヒルです。あのヒルが体内に入り込むと、死んだ人間を活性化してくれるの。生き物は生きていないと血を作り出さないでしょう。」
「寄生虫が寄生した生物を健康にしようとするみたいなものか。それでも、あれは、夕夏、でしょう?」
「――だから、夕夏なんていないの。」
「え?」
楊は玄人の言葉に慌てて夕夏を見返せば、首の折れた人形の様に頭を横に倒して楊達を見返している夕夏だったものの無機物な瞳と目が合い、そこでふきの死の後に何度か面会する度に夕夏に感じていた薄ら寒さの理由に気が付いたのである。
人間は六割の火傷を負えば命に係わる。
死んだ子供を道具にと考えていた狂った母親はどうするか。
傾倒している神様の贄へと、赤黒いヒルが蠢く穴倉に落とし込むのだ。
体内にこの世のものでない生物が入り込み生を取り戻した死体は、自分に何が起きたのか周囲を見回し、そこで、自分を見下ろすふきと青年の姿を目にする。
青年は楊が何度も見返した事のある、写真のなかそのままの姿と暗い夢見がちな顔つきで見下ろしている。
その隣のふきは、楊からの一年の命を拒み、自らを縛り付けていた業までも捨て去ったふきが、楊に見せた表情の記憶までも消し去るほどの憎しみの籠った顔つきだ。
「ふき。どうして。」
声にならない言葉を口にした時、ふきが楊に向かって答えた。
「おかあさま。」
ごぼり、と楊は赤黒い軟体生物の中に沈み込み、しかし、気が付けば玄人の腕から自分は勢いよく上半身を起こしていたのである。
慌てて檻の外の夕夏を見返せば、幼い少女の服装が似合わない夕夏の記憶も、熱湯をかけられた夕夏が苦痛に身をよじる記憶も、楊が数分前に覗いた記憶の全てが第三者視点でしかなかったのだとようやく気が付いたのだ。
「あいつは、誰なんだ。ふきは、夕夏は、どうしたんだ。」
玄人はきゅっと唇を噛むと、楊に答えるどころか、楊の背中を両手で支える様にして必死に撫で上げ始めていた。
楊は玄人が楊が抵抗する前に身代わりの術という、怪我を他人に移す外道の術を楊に施しているのを知ってはいたが、それを止めさせる気にはならなかった。
夕夏だと思っていた者が人間では無いと知ったからではなく、施術を施されるたびに銛か槍で刺されているような痛みを体に与えているからである。
「あ、ぎゃあ。」
楊があまりの激痛にびくりと身を逸らすと、玄人の手がさっと楊から離れ、楊はそのまま後ろに倒れて背中をしたたかに床に打ち付けた。
「あぁ、畜生。傷が無い方が痛いって何事だ!」
「僕は麻薬効果もあるヒルの唾液を抜いただけですからね。傷はまだあります。」
楊は自分の体を見下ろし、着実に余命が無くなりそうな怪我が体にいくつも残っていることを確認し、そういえば百目鬼も玄人も共感力がないから言われた事しかしない奴等だったと、皮肉な思いで思い出していた。
「畜生。ちび、身代わりの術をやって。」
「――だから最初から。」
「いいから!はやく!俺が死んじゃうじゃん!」
彼の妹分は実の妹でなくて良かったと思わせるような憎たらしい顔をして見せると、そんな顔つきになったうっ憤を晴らすほどの勢いで楊の胸に両手をどしんと打ち付けた。
胸に受けた衝撃はかなりの重力を受けた時のようであり、楊は肺にたまった全ての空気までも口から吐き出しており、檻の外ではヒキガエルが車に押し潰されたかのような音がぶちんと鳴った。
「あぁ。くそ。トラウマな音だ。車なのに踏んだってわかる嫌な感触まで思い出したぜ。」
「僕はそんなヒキガエルのお墓を作っているかわちゃんの記憶が見えてがっかりです。よく触れますね。内臓が出ているカエルを素手でなんて。うえぇ、気持ちが悪くなってきた。無理。僕には無理。」
楊は妹分が青い顔で口元を押さえている姿に、お前こそ身代わりの術など外道な述を平気で使えるではないかと責め立てたい気持ちも湧いたが、術師としては玄人の方がかなり上であることを自分に言い聞かせて、起き上がって化け物に対峙することにした。
「うわ。このまま横になっていたい。」
楊が横たわったまま見返した夕夏と名乗ったそれは、体の繋ぎ方を失敗した人の形を成さないものと成り果てていた。
オークル一色だった体は赤の混ざったマーブル状だ。
ところどころが裂けて、裂けたところから赤黒い肉塊の風船が飛び出しているのである。
さらには、楊の体を貫いた棘は長くイソギンチャクのようにユラユラと蠢く赤黒い触手へと変化していた。
「うえ。かわちゃんが潰したヒキガエルそのものだ。さっさとやっちゃってよ。」
「ちびは、もう。」
楊が身を起こして立ち上がれば、青い柵は楊の頭をかすめないようにと自ら楊を避けて消え、青い柵も楊の動きに沿うようにして消えて、いつしか楊と玄人の周りに青い円陣だけが輝いていた。
しかし、ただの円陣ではない。
楊が一歩前に進めば円陣の輪は進んだだけ広がり、さらには、人型の化け物がその触手を楊の方へと伸ばしても円陣から飛び出る青い光によって触手の先を弾かれてしまうのである。
楊は自分がこれからやる事に罪悪感を持たなくとも良いだろう事に少々の感謝と、そして、こんなことが出来る自分に大いにウンザリとした感傷を抱えながら左腕を夕夏だったものに対して翳した。
「君達も生き物なのにね。ごめんね。」
楊は虫を払うように、左の掌を跳ね上げた。
すると彼の左の手の平から真っ黒なものが飛び出し、それが赤黒い肉塊に飛び込んだ一瞬、大爆発の前の閃光が煌いた。
光によって浮き上がったシルエットは、大きく翼を開いた真っ黒な大きな鳥である。
それは、楊の自宅の二階を吹き飛ばした、炎を生み出す楊自身の能力。
鳥が黒いのは太陽の黒点を現すというとおりに、太陽のフレアのような爆発を引き起こすのである。
爆発の次は爆風だ。
けれどその爆風は楊達を襲う事は無かった。
青白い光の円陣が光の壁となり彼等の盾となり、後はただ壁の内側から鳥によって燃やし尽くされた生き物が燃え尽きるまでを静かに眺めるだけである。
楊の頬に一筋の涙が零れ、とうとう我慢が出来なくなった玄人は楊の背中にしがみつき、彼の背中に頭を擦り付けながら彼が虐殺者では無い事を言葉で伝えた。
「かわちゃん。まだビル中にいっぱいいっぱいいるから。クミちゃんや裕也君もいっぱいいっぱい殺しているから、だから、かわちゃんだけが罪悪感を抱かないで。」
「もう、ちびったら。萎えるようなことを言わないでよ。」
「かわちゃん?」
玄人が首を伸ばして楊を伺えば、彼は玄人に軽く目玉を回して見せてから今度は左腕ではなく右腕を高く持ち上げた。
「悪いね。騙して。ここは現実の世界じゃないんだよ。」
楊の言葉通り世界は二重に重なっているかのように風景が滲み、楊が腕を斜めに降ろすとともに重なっていた一つの部分はすっと消え去り、あとには何事も起きなかったかのような商社ビルの真っ新な廊下となっていた。




