太古よりのしらべ
僕はびっくりだ。
楊が署内で変な生き物に襲われただけでなく、葉子と結婚してしまったのだ。
葉子は楊を守るために他人でなく夫婦である必要があったと僕に語ったが、かなり若返って幸せそうに微笑む彼女の顔を見れば、彼女は機会を有効活用しただけのハイエナのようにしか見えなかった。
「おばあちゃんはひどい。これで私はまさ君と一生結婚できなくなったわ。」
僕の隣でむしゃむしゃと豚まんを次々と喰らいながら泣く梨々子は、出会った頃と比べて数キロは確実に増えており、僕は咀嚼音だけでなく体内から太鼓を打ち鳴らす音までも聞こえる彼女にウンザリとしていた。
「いいじゃない。これでかわちゃんは梨々子のことを家族としてずっと愛していけるし、梨々子は本当に好きになった人と結婚できるでしょう。」
「ほ、本当に好きなのは、まさ君だけよ!」
「そうかな。君はお母さんとお祖母ちゃんのお人形のままでいたいの?親友の海里と一緒に遊んで楽しかったんでしょう。本当は、かわちゃんをお兄さんみたいに想っているだけなのに、鈴子ママさんや葉子さんの手前、恋人になろうと頑張っていただけじゃないの?」
僕の隣の彼女は、豚まんを掴んだそのまま、うわぁっと大声で子供のように泣き出した。
楊に初恋をしていたとしても、彼女は本当の恋をしてしまったに違いないのだ。
それがあの屑野郎なのは許せないが、僕は少々大人になっている梨々子に好感も抱いていた。
日本に戻って来ても楊にいつものように纏わりつかなかったのは、彼女のけじめであったのだろうし、さらに言えば、楊を愛していても彼女が感じた屑野郎への気持ちと違うのだと彼女が気付いたからに違いないのだ。
あの屑野郎は、だが。
「ねぇ、君がここで泣いていても仕方が無い。かわちゃんのお見舞いに行こう。僕も葉子さん家にかわちゃんが連れ去られてから、かわちゃんに一度も会っていないんだよ。」
それに僕は葉子に受け入れられて彼女の居間に招かれてはいるのだが、一向に楊の眠る部屋に葉子が案内するそぶりを見せるどころか、葉子は僕と梨々子の前から完全に姿を消している。
僕達は山となって積み上げられた肉まんと大きなポットに入れられたジャスミンティーを目の前に、居間のソファに座らされて放って置かれているという有様なのだ。
僕は楊を探しに行きたいが、建前上、ここは一応松野グループの総裁の家という他所の家であり、松野と血族でない僕が自分の親族の家の様に好き勝手に動けはしない。
まぁ、親戚の家だからと言って、好き勝手にできない家だってある。
楊が白崎に帰った後の僕と山口は、家事ができない僕達だけでは餓死してしまうとすぐさま判断して、僕の親戚の家に良純和尚が戻るまで居候をすることにしたのだが、そこは犬だらけで落ち着かない最悪の家だった。
僕は譲の家のことを思い出して、大きく溜息を吐き出した。
セントバーナードを飼っている譲は、愛犬のためにドッグランを作って愛犬のお友達犬の為にペット保育園まで営業し始めたのだ。
わんわんわん、わんわんと、犬の騒々しい鳴き声で気が休まらない家であった。
よくもまあ、山口はこんな家に居候が出来る。
いや、ゴンタの為に彼は頑張っているのかもしれない。
楊の家に山口と葉山は居候をしていたので、楊の家が破壊された日に彼等も一緒に焼け出されてしまっていたのだ。
荷物がほとんど無事だった葉山は警察庁が用意したマンションにすんなりと移住できたが、山口は犬がいるから部屋が決まらないだろうと心配した良純和尚によって譲家に預けられたのである。
譲家は商売を急に始められるだけあって、豪邸で部屋数も多く、家事スタッフまでも常駐している。
さらに言えば、譲に広大な土地を売りつけたのは、良純和尚その人である。
つまり、楊が忌引きで消えた後に合同捜査自体が消え、山口までも白崎に帰ることになったからと僕が山口の部屋に居候することにしたが正しく、良純和尚に鴨にされた犬が好きなだけの人の好い譲を責める権利は僕にはない、が正しい。
しかし、一緒に連れて行ったアンズちゃんがたった一日で犬の声に脅えてお腹を壊してしまったのだ。
下痢が続く彼女に僕は今でも動揺しているのだから、譲への少々の悪口ぐらい良いだろう。
あぁ、ごめんなさいアンズちゃんと、僕は松野家の居間の片隅にあるアンズ専用の籠を見返した。
僕は行く先々でアンズが困らない様に、アンズ専用のケージを行く先々に送りつけており、行く先々の一つである葉子は、僕の為にそのケージを僕達を迎える居間に設置してくれているのだ。
僕はアンズを葉子の家にペットキャリーで同伴しては、そのケージにアンズを放してやるのである。
ケージ中ではいつもの健康そうな姿で、アンズはいつものようにペレットをぽいぽいと適当に放り投げていた。
賢い彼女はろくでもない行動をやれば僕か良純和尚が笑って生野菜を差し出してくれることを学習しており、血便して以来生野菜禁止であるのだが、彼女は諦めずにペレットを放って生野菜を寄こせアピールをしているのである。
「あぁ。アンズちゃんごめんね。病気が治ったら好きなものをあげるから。」
「ちょっと、クロト!あんたは私よりもモルモットなの!まさ君よりもモルモットなの!」
「あ、そういえばそうだったね。わかった。とりあえずかわちゃんの所に行こう。僕一人じゃあこの家の中を探索できないから、君がいてくれて助かったよ。」
「好きに探索すればいいじゃない。あんたはこの家に何度も泊っている家族同然なんだし。動き回りたければ動けばいいじゃない。」
僕はリビングから見える葉子の家の廊下を覗き、そこに白く輝く蜘蛛の糸のようなものが張り巡らされている様子を再び見通した。
恐らくどころか楊の仕業であり、僕はあの網にかからないと思うのだが、僕が通り抜ける事で彼がせっかく構築した結界を壊したくはなかったのである。
「ありがとう。そうだね。でもね、親しき中には礼儀ってね。僕の家は商家だから、なおさら気を付けなければいけないんだよ。」
「あんたは。……そういうところが私と違うのよね。私は自分ばかりで。」
「じゃあ、案内して。僕の為に。」
僕達は久しぶりに手を繋いで歩いていた。
僕は梨々子の影となり、これならば楊のセンサーは僕を感知するどころか僕を安全なものと認識し、僕が通り抜けても壊れることは無い。
「ここよ。王様の部屋。」
リビングから一直線に廊下を歩いて突き当りの両開きのドアは大きく、梨々子が王様と唱えたその通りの重厚なものである。
僕はその部屋から斜め向かいとなる葉子の部屋のドアを見つめ、そして、葉子の部屋の物よりも鈍重そうで豪華な木の扉を再び見返した。
「葉子さんの部屋も大きいけれど、この王様の部屋はもっと大きな空っぽの部屋だったよね。」
「そう。誰の部屋でもない空っぽだった部屋。開けてみてよ。お祖母ちゃんのまさ君への傾倒ぶりがわかるから。一週間もしないでこんな状態よ。」
僕が両開きのドアを開けると、空っぽの部屋は王様の部屋と呼ぶに相応しい風格を備えていた。
サロンに書斎に寝室と、三部屋が連なっているという大スィートルームが完成されていたのだ。
葉子はこの家を建てた際に、すでに楊をこの部屋の主にするべくと決めていたに違いなく、空っぽだった部屋は楊の好きそうな家具によって見事な青年貴族の部屋にしつらえられていた。
僕が一歩入った部屋は書斎となる部屋で、大きな本棚に大きく湾曲した大きな書斎机などある。
天井からは楊が好きそうなモビールがいくつもぶら下り、本棚はまだ殆ど空に近いが、六法全書など楊の仕事に関係した専門書と楊が火事で失わなかった宝物が並んでいた。
僕があげた武本物産の早世した当主が作ったガラスボールや、良純和尚が冗談で手渡したミニカー、そして、ふきの骨が入った白木の箱。
「葉子さんは、本当にかわちゃんの気持ちを大事にしてくれているんだね。」
「あんたが一瞬でお祖母ちゃんの肩を持ったのは、この家具やら絨毯やらが全部武本から購入したものだからでしょう。サロンなんてまさ君が業者に土下座したくらいよ。これ以上僕の戯言を叶えるのは止めてって。」
「武本はお得意さんの無理難題こそ愛する会社だからね。いいお金になる。」
僕は梨々子に肩を軽く叩かれ、僕は大人になっている梨々子を称賛する気持ちさえ湧いていた。
友人がいない彼女にとって、世界は母と祖母と楊だけだったのだ。
楊との婚約破棄は、彼女にとって肉親をも切り捨てる程の覚悟があったに違いない。
それを、あの、糞男が。
「え、クロト?糞男って。」
僕は声に出してしまったらしい。
僕が彼女の秘密を知ったと気が付いたか、真っ青になっている梨々子にどう答えようかと言葉に詰まった丁度その時、僕の足首に柔らかいものが触れた。
「あ、ミーちゃん。」
茶色の不機嫌な顔をした元家なき子であった不細工な猫は、エキゾチックショートヘアという血統と葉子の愛猫という立場からか物凄く気位が高い。
彼女は僕達に存在を知らしめた事に満足したのか、猫らしく甘えることなくそのままふいっと僕達から見て右側の方向へと駆けて行った。
書斎を正面にした僕達にとって右側にある大きな両開きの扉、それは今や大きく開かれていたが、その戸口から覗ける寝室は大きなベッドがどんと中心に置いてある、飾り気も無いが落ち着けて明るい場所であった。
猫は一直線にベッドに駆け寄ると、ぴょんとベットに飛び乗ってベッドの中の虜囚の腕の中に納まった。
気位の高い猫に甘えられても男が不機嫌顔なのは、彼の新たな妻も娘も彼を完全に無視しているからであろう。
彼のベッドのわきには円形のベビー用のキルトが敷かれており、ピンクとオレンジ色のお花畑のような絵柄のその上では、ブランコ型の小さなモビールとままごとセットに囲まれて遊んでいる赤ん坊と、その赤ん坊の母の様にして一緒に座って赤ん坊をあやしている葉子が男性的な部屋に彩を与えていたのである。
「あぁ、葉子さんが僕達を放って置いたのは、かわちゃんよりも赤ちゃんが理由か。」
梨々子が僕の横に立って、せつなそうに楊と祖母の姿を眺めていたことに気が付いた。彼女は何と静かな大人になってしまったことか。
「リリコ?大丈夫。」
「うん。本当はいいの、私は慣れたから大丈夫。いいの。おばあちゃんはあの子に夢中だし、まさ君は私に優しいままだもの。」
再び顔を真っ赤にして泣きそうになった梨々子の手を、僕はぎゅうっと握った。
僕は彼女の友人だし、彼女は僕を友人にした心の広い優しい女の子でもある。
僕が彼女に何かを言うべきではないと口を閉じていたが、この大事な友人を幸せにするべく僕の従兄に殴り込みをかけなければならないことも決意していた。
楊と葉子と赤ん坊という光景をせつなそうに見つめる梨々子に、僕は楊が感じるはずの梨々子への義務感までも感じてしまっていたのである。
あの野郎、ぶちのめす、と。




