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脱兎のごとく

 楊が気が付いたのは医務室で、とりあえず楊の結婚相手は葉山警部補に決まった事に楊はホッとしていた。


 佐藤も水野も豪胆でどんな現場でも引くことは殆どないのであるが、彼女達は内臓などのグロテスクなものに弱いという弱点がある。

 女性だから弱いのではなく、犬猫を多頭飼いしていた飼い主の死に際しての現場検証をした時に、飼い主を失って放置される事となった動物達の共食い現場を彼女達が見る羽目になったそのトラウマだと楊は考えている。

 ただの殺害現場ではなく、罪のない生き物が自分が生きるための行為としてお互いに噛み殺しあい貪っていたという地獄に追いやられていた、という事実だからこそ心の底に残るのであり、いつまでも忘れられずに悩むのだと楊は経験で知っているからだ。


「病院は行かなくていいって言いますか、説明が出来ないので行くなの命令です。」


 スマートフォンから顔をあげないままの葉山の説明を聞きながら、楊は自分の脹脛に気味の悪い穴がぽっかりと空いている様にぞっと背筋を凍らせた。

 そして、そんな気味の悪い傷跡から目を逸らすべく、止血処理をしている鑑識班主任の手際に無理やりにでも目を向けた。


 宮辺みやべ壮大そうた主任は、中肉中背のどこにでもいる外見の男でもあるが、中身がどこにでもいない男である。

 宮辺は学歴と能力からもっと良い場所に就職できるはずの男である。

 どうして警察の鑑識に彼が入ったのかは、アメリカドラマに触発されたと楊は聞いていたが、宮辺の臭覚が犬並みに優れているせいで人と交わるのが苦手という理由があったのだと楊は最近知った。


 知った理由が楊がふざけて玄人の胸元にキスしてしまったそこを宮辺の嗅覚によって知られ、宮辺から楊が散々に罵られたというだけの話である。


 宮辺は男の娘系の大人のアニメが好きという危険な嗜好を持っており、その性癖から玄人に恋い焦がれているという、玄人にはとても危険な男でもあるのだ。

 しかしながら、主に死人関係を扱うどんな現場や事象にも動じないで解明してくれるという、得難い男でもある。


 そんな男がゴーグルにマスク着用という白い防護服姿で、楊が汚染物でもあるかのように楊の怪我の処置をしている。

 楊は自分を憎み嫌っている楊の怪我への処置に、宮辺がしてはいけない事を証拠を残さずに紛れ込ませるなど朝飯前ではないのかと、安心どころか楊に不安だけを掻き立てられているのである。


「み、宮っち。あのさ、君が一生懸命に俺の足に塗っているのは、それは、何?あのさ、見たところ確実に消毒薬じゃないよね。そ、それは、な、何なのでしょうか。」


 宮辺は楊に使っている薬剤の瓶のラベルを見返して、そして、楊を呆れた目で見返した後に、再びその薬品を染み込ませたガーゼで楊の脹脛を拭い始めた。


「ねぇ、宮っち。」


 宮辺は何も答えず、その代わりにスマートフォンを片付けた葉山が楊の質問に答えながらベッドに座る楊の横に腰を下ろした。


「トロンビンですよ。ただの止血剤。あの化け物はヒルと同じヒルジンを使うみたいですからね。これを使わないと血が止まりませんから、黙って宮辺さんに手当てさせてあげて下さい。彼はあの化け物の唾液の臭いに我慢ならないそうなんだそうですよ。えぇと、あの、雨が降った後に車に轢かれてしまうヒキガエルの内臓?の臭いなんだとか。」


 楊は内臓をぶちまけて道路で死んでいるヒキガエルの姿を思い出して、顔を両手で覆って自分の悲鳴を押さえた。

 内臓丸出しの大きな蛙が彼の脹脛に吸い付いている姿を想像してしまったからだが、吐き気は想像だけでなく、どんどんと胸をせりあがってきてもおり、楊は抑えるどころか吐き出していた。

 しかし、葉山が楊の横に来たのはそれを予想していたからであり、楊は葉山の差し出したビニールを敷いたゴミバケツに全てをぶちまけ、足の処置をしている宮辺に胃液その他をかける失態から逃れることが出来たのである。


「あ、あふ。ありが。」


「何も言わないでください。このまま吐いていて下さい。その症状は大量に血を流した貧血のせいというより、唾液の中の強い麻酔剤の後遺症だと思われます。麻薬課が持ち込んだ合成麻薬ってのが、宮辺主任によるとこの唾液と同じ成分らしいですからね。」


「おう。それじゃあ。俺は中毒者に、なるの、か、な。おう。」


「さぁ、それはわかりませんが、吐き気はもっとひどくなりますよ。俺だって、吐いてしまいたい気持ちですから。」


 葉山は吐き出しやすいように右手で楊の背中を叩きながら、力の出ない楊のためにバケツを左腕で支えていた。

 楊は葉山に寄りかかりながら、なんとなく想像のつく次の説明を目を閉じて待った。

 実はこのまま意識を失って聞きたくはない気持ちが湧いていたが、知らないで次の段階に進まされてはと、彼は気力を奮い立たせて葉山に先を促した。


「いいから。さくさくと、はぁ、言って、……ちょうだい。」


「いいですか、これからかわさんは警察病院へ搬送されて、そこで数日間は隔離されます。あの化け物の体液を受けた人間のその後の観察も含めてですから、病院ですが治療はされないどころか実験も受ける可能性もあると覚悟して下さい。この血止めのトロンビンだって、何の処置もするなという上の指示を知らなかった宮辺さんが、ヒルの怪我みたいだと慌ててやってしまった処置です。良い部下を持って幸せですよ、かわさんは。」


 楊よりも青い顔で楊に説明をする葉山に、楊は感謝を込めて彼の手の甲をそっと指先で叩いた。

 葉山が上に言われて仕組んだにしろ、上の思惑を知って動きたくとも動けない目に遭わされていたからにしろ、否、そこまで楊は考えて、数日前の髙との邂逅を思い出したのである。

 彼は楊に見たくもないものを見せて、それがどんな物かも教え込んでいたではないか、と。

 あれは、あんな生き物がいるではなく、気配を覚えろという髙の教えだったのかと、楊は脅えるだけで全く考えても覚えてもいなかった自分に心の中で罵りをあげた。


「はぁ。俺は上の人間にモルモットに選ばれていたわけね。」


 そこに左足首に小さな痛みを受けて、楊は声をあげずに宮辺を見返した。

 彼は楊の左足首にガーゼを掴んでいたピンセットの先端を当てただけなのだが、楊の注意を引いた事がわかったからか、彼はそのピンセットを怪我をした右足首の方へ同じように押し付けた。


「やばい。なんにも感じない。」


 すると宮辺は楊を冷たく見返すと、今度はマスクをそっと下ろして、楊が聞きたくもない彼の予測を口にしたのである。


「感覚が戻らなければ切断することになるよ。傷口の周囲の組織が溶けたみたいにぐちゃぐちゃなんだ。細胞が再生しないならね、壊死は確実だね。」


「はは。まさか。」


 楊は赤黒い穴が開いた自分の脹脛を見直した。

 宮辺の懸念がわかるほどぽっかりと空いた穴は交通事故の現場の人体の傷というよりも、楊が殺人現場で何度も目にしてきた腐りかけた遺体に開いた傷口に近い色合いなのである。

 臭気しか発しない、腐った血肉の穴だ。


「血が止まったとしても、俺は死ぬのか。」


「死なせるんじゃなくて、やばーいあんたを身動きさせなくするのが目的なんじゃないの?」


「はは、そっかぁ。俺は普通の刑事さんじゃ無くなったものね。普通に火事で死ぬどころか、死にたくないって二階部分を弾き飛ばして爆発させたとあっちゃあ、この世の中ではありえない事だもんね。見逃せないよね。」


「恩恵を受けた人間は俺の様にいるのにね。かわさんの力のお陰で一階は殆ど無傷で、俺の持ち物は煙臭いだけで済みましたし。あ、そうだ。爆発した外車の持ち主の一人がなかなか浮気の尻尾を掴ませない男だったそうでしてね、経済DVとモラハラで苦しんでいた奥さんが離婚できたそうですよ。良かったですよね、奥さんは。旦那が警察庁の偉い奴の息子だったからか、弁護士も及び腰で、三年も離婚できずに苦しんでいたそうですよ。」


 楊は自分を潰そうとした企みが、ただ単に私憤を利用しただけの物だと知って、身の上を受け入れるという選択をさっさと捨て去ることにした。

 何しろ、彼には一生働く必要のないほどの金があり、警察組織から何時でも逃げれるどころか、盾になってくれる居場所もあるのだ。


 彼はスマートフォンを取り出すと、前世からの最愛の女に助けを求めた。


 上の動きを知っているがために楊を見守り、彼を助けようと身構えていた部下もいるのだ。



 生き延びて、仕返しに動かねば立つ瀬が無い。

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