育メン
さて、親友が預かるも言ってくれない想定通りのろくでなしでしかなかったと確信した楊は、翌日は赤ん坊を背負って仕事に赴くことに決めた。
警官は一般庶民の安全を図るのが仕事であり目的であるのならば、親を失った寄る辺のない子供を保護して育てるのも大事な仕事であろうとの彼なりの見解だ。
もともと、親友には赤ん坊用品を買わせて持って来させるという目的だけで呼んだのだから、それ以上の幸運が無くとも落ち込む必要など無いのである。
楊は赤ん坊用の籐製のクーハンと、オムツやいくつかのおもちゃを見下ろして微笑んだ。
「よし、準備は万端。行くぞ、純子。」
「あう。ぱーぱ。」
楊が純子に背中を向けると、彼女は教え込んだように楊の背中に貼り付いた。
そこを楊は片手で彼女を支えながら、しゅるっと彼女を柔らかい紐で自分と結び付けたのである。
専用の背負い紐など無くても、兵児帯さえあれば子供など簡単に背負えるのだ。
楊は七歳まで祖父母どころか曽祖父に遊ばれていたからか、昔の知恵に関しては造詣が深く、無ければあるもので工夫するという事が上手い。
また、工夫上手の彼は、ただでさえ狭い部屋の一角にカラーボックスと白布で祭壇をこしらえてもいた。
そこにたった一日だけ妻だった女性の骨が入った白木の箱を供えたのだ。
思い入れが過ぎると楊は百目鬼に叱られたが、楊としてはふきと約束したとおりに一年は夫として一緒にいてあげようと考えているのだ。
さて、純子を連れて職場に向かった楊だが、バス停でも、ただ歩いているだけでも、新米の父親として行く先々で楊と純子は友好的に迎え入れられた。
それどころか、楊も嫌になるほど何度も話しかけられて呼び止められて、終には機嫌のよかった純子がぐずりだすという有様だった。
ようやく出勤時間ぎりぎりに部署に入れたのだが、そこだけは温かく楊を迎え入れるどころか、ブリザードが吹きすさぶからと、楊が辞表を出したいくらいの迎え方であった。
葉山警部補にはお早うの挨拶もなく片眉をくいっと上げられ、部署で楊を待ち受けていたらしき水野と佐藤は、楊を怒鳴るどころか殺気の籠った視線で睨み続けるだけである。
それも、彼女達の個人デスクに座りながらではなく、部署の奥の壁際に課長席と対面するかのように設置されている黒ベンチで、二人仲良く座りながら楊を睨んでいるのだ。
楊は二人の殺気を帯びた監視の視線を受けながら自分のデスクである課長席におどおどと向かうと、びくびくしながらも持ち込んだ大荷物を解き始めた。
楊の背中でおしゃぶりを咥えてちゅっちゅと音を立てている純子だけが今の楊にとって拠り所でもあるが、背中がとても暑くて一分一秒でも早く彼女を手放したいのも事実である。
「あ、かわさん。職場放棄って罰則を受けない様に、これを今日中に処理しておいてください。」
警部補に事件ファイルらしきものを机の上にどさりと置かれ、反射的に楊はそのファイルを捲ったが、どれもこれから入力作業等の事務処理が必要なものであった。
楊が消えた昨日の数時間どころか、先日の合同捜査で楊が不在中の物も多数含まれている。
「えっと、葉山君。この書類束は君の分も半分入っているよね。っていうか、全部君の?」
葉山警部補は、高校球児かと勘違いするほどの清々しい笑顔を楊に見せつけた。
「昨日の俺は、上司の職場放棄を誤魔化してあげるという、別の仕事に忙殺されていましたから。」
「……かしこまりました。」
楊はデスクの左脇に置いたクーハンに簡単にバスタオルを敷くと、そこに背負っていた赤ん坊を入れ込んだ。
赤ん坊は楊から離されて一瞬泣きそうな顔を作ったが、楊が鞄から出した百目鬼に買わせた青虫のぬいぐるみのおもちゃを手渡されると、すぐに機嫌を直してぬいぐるみと遊び始めた。
彼は自分のデスクの椅子に座った後も彼女の様子をしばし眺め、彼女がぐずりそうも無いとわかるとその様子に安心し、自分も仕事に戻るべきと判断をした。
そこで部下から押し付けられたノルマをこなすべくと、まずパソコンに電源を入れようとして、そこで彼の時間が止まった。
だるまさん転んだは、遊びでなければただの恐怖である。
気が付けば、部署の奥の長椅子に座っていたはずの部下二人が楊のデスクの真ん前に立っており、殺気を込めた目で楊を無言のまま見下ろしていたのである。
「え、ええと、あの、君達は、きゅ、休暇、中、だったっけ?えと、無理して来なくても、えと、自宅で休んでいてもいいの、よ?め、目の下の、く、クマさんが、こ、ここ、こわいなぁって。」
「あら。そんなに私達を心配してくださっていたんだ?」
「だよね。あたしらを見捨てたって思っていたよ。」
「え、あの。み、見捨てたって、な、何かな?」
「で、どっちにしました?かわさんが決めれないならば、私達はじゃんけんで決めることにしました。あみだくじでもいいですけど。かわさんはどちらがお好みですか?」
楊は反射的に部署にいる同じ男性の葉山警部補を見返したが、鬼畜と名高いキャリア刑事は、さも面白そうに楊の進退を鑑賞しているだけであった。
「あ、畜生!葉山!お前これ見よがしにポップコーンを食うなよ!」
葉山は彼のデスクの上に置いてあるLサイズの紙コップを取り上げて、これ見よがしにストローに口を付けて中の黒い液体を啜ると、ストローを咥えたままにやりと楊に笑い返してきた。
「ちくしょう。俺を娯楽扱いかよ。」
「かわさん。いいからこっち向いて。で、どっちにします?」
「さっちゃんを選んでも、純子は渡さないからね。」
「ちょっとみっちゃん、話が違うでしょう。どっちを選んでも、純子は選ばれた方が育てるって決めたじゃない。」
「だって、純子は奪われたくないよ!」
「でも、純子にはかわさんが付いてくるんだから、それは駄目よ。」
「純子だけでもって、それは駄目?」
「純子をかわさんが育てるのが決定事項でしょう。純子をかわさんから離したら施設にやられちゃうじゃない。後は誰がかわさんの相手になって純子を育てるかって話にしたんだから、今更純子とかわさんをバラせ無いわよ。」
「そうだよね、かわさんが純子を育てるのは決まりだもんね。あとはどっちが奥さんになるのかって事だけか。」
「そうそう。もう面倒だから、じゃんけん、する?」
「じゃんけん、弱いんだよなぁ。」
楊は自分を取り合いながらも純子を完全に二人に押し付けられており、さらに自分が純子の付属物の様に言われ始めた事に首が傾がるばかりで、首を傾げたまま再び鬼畜に目線を動かせば、彼はスマートフォンに没頭している様子であった。
彼は楊に仕事を押し付けた上に楊をからかって遊ぶ事はしたから、もうすでに楊に興味を失っているのであろうと楊は悲しく考え、さすが東大出のキャリアは切り替えが早いと尊敬もしてしまっていた。
「かわさん!」
「かわさんったら!」
「ぱーぱ。」
純子の声に足首がねちょりと温かいと微笑みながら見下ろせば、足元に赤ん坊がしがみ付いており、それは楊の右足に絡みついて裾が持ち上がっている脹脛に顔をあてていた。
「ぱーぱ。」
再びの純子の声に、楊は先程もクーハンを置いた左側から楊を呼び掛けていたのだと気が付き、右足首にしがみ付いて脹脛に顔をあてて足を引っ張っているのは純子であるはずが無いと胃が裏返るような吐き気を感じていた。
楊は彼を見下ろす美女二人をゆっくりと見上げて、今の彼の気持ちを彼女達に告白することにした。
「俺の右足にヤツメウナギが貼り付いている。このウナギをどうにかしてくれた方と俺は結婚する。」
そうして楊はすいっと意識が遠のいていった。
脹脛に痛みなど感じないが、楊にはヤツメウナギに体内の血をどんどんと吸い取られていく感覚はしっかりとあり、自分の血が別の所へと吸い出されていく生理的嫌悪感にぞっとしながらも撥ね退けるという動きが取れないのである。
楊が積極的に意識を失いたがっていたとしても、誰も彼を責められないだろう。




