集合二
煙をたなびかせる閉じられた扉は、みしりと嫌な音を立てるや中心を横一文字に亀裂が入り、楊の目の前で部屋の外へと吸い込まれるようにして軋んだ。
楊は鳥籠と肩の鳥を反射的に抑え、床に体を丸めて座り込んだ。
次に起こる事を彼は経験上知っていた。
炎の起こらない燃焼によって酸素を使いつくした空間は気圧が変わり、気圧差で楊の部屋のドアごと楊の部屋の空気を吸い込んだのである。
酸素を得た火種は一気に爆発する!
あの日の情景を思い出してしまった楊は、いつの間にかその時と同じように右手で愛鳥がいた筈の場所を押さえていた。
「はは。違うじゃん。俺は自分だけを守っていたんだよ。」
あの日の楊は炎が迫った一瞬に、籠からも愛鳥からも手を放して、防げるはずのないドアの向こうに両手を向けていたのである。
自分一人だけを守るかのように、腕を交差させて。
「あぁ、畜生。俺は誰も守れやしない。」
「あら、後悔しているのであれば、まずは立ち上がりましょうか。」
声をかけてきた女の声に驚いたが、声の方向に視線を動かせばそこに二本の足まであることに楊は少々どころか脅えてもいた。
見通しの良い整備された道路で、彼は自分に近づく者どころか、参拝客ともすれ違わないでここまで来ていたはずだというのに、女は彼に気配など感じさせずに間近にずっといたということなのだ。
しかし、彼女の靴先がアヒルの口の様に平べったく少し反り返っている事に、楊は脅えた自分を笑っているようだと勘に触り、自分を取り戻してもいたのである。
「素敵なドライビングシューズですね。母のお気に入りのブランドですよ。」
「ふふ、いいでしょう。新作なの。」
楊の皮肉が通じるどころか、彼女はデニムのような生地の靴の甲にびっしりと飾られているビジューを見せつける様に足を動かした。
楊が戦利品に気が付いてくれたと喜んでいる彼女の様子に、自分の母親も新作だと喜んでこのように見せびらかしてきたな、と楊の皮肉が皮肉になっていなかったと気づいてしまっていた。
彼の母親も限定品だからと開店前に並んで迄買ったという、有名ブランドのそれは三万以上もする高級靴でもあるのだ。
ここで楊は完全に白旗を心の中で上げた。
彼女は元公安の相棒と同じく海千山千の女であるのだから、自分が彼女に勝てるわけはないのだと観念してゆっくりと彼女を見上げたのである。
しかし、彼女の服装にまた楊は驚かされてもいた。
彼女が来ているのは楊の母親の好きなブランドの新作だった。
袖がチュールになっていて、あでやかな花々が色とりどりに刺繍してあるという華やかなデザインのニットのアンサンブルは、楊の母が買ったと見せびらかして来たものとお揃いなのである。
「こんにちは、田辺さん。服まで俺の母と一緒って、嫌がらせですか?」
「あら、お母様もこのブランドがお好きなの?うふふ、奇遇ね。」
どこにでもいる少々余裕のある家の主婦の姿を纏う公安の女刑事は、そんな笑顔は普通の主婦がしないだろうという悪辣な顔つきを楊に見せつけた。
「奇遇?ちがいますね。これこそあなたの案件で、いつもの様に山口とちびが死体を発見したわけでは無いのですね。」
「ふふ。そう。あの子達はお家のお手伝いをしているだけ。でも、E地区にはあなたが来てくれないと困るの。」
「対処に困った死人でしたら、そこにちびがいるではないですか。」
楊は自分が来た後ろの方角を、見もしないで指だけで指し示した。
「そうね。でも、本当にあなたではないといけないのよ。」
楊は渋々と立ち上がりながら、以前の相棒によく似た事のある田辺美也子に逆らえそうもないと考え、そしてその状態に情けなくも喜んでいる自分がいた事も気付いていた。
楊は二か月前までは一課を預かる課長であったのだ。
それがろくでもない事件ばかり押し付けられる課だったとしても、部下がいて、部下に使われながらも人を使い、事件の解決に当たる事にそれなりの充足感もあったのである。
勿論、それが死人退治というだけの課で、その課を作り上げたのが楊の相棒の髙であったとしても、元公安の髙こそ「死人退治」の熟練者なのだから仕方が無いであろう。
公安が動くような組織的だが不可解で残虐な事件の捜査途中で、それが死人絡みであったと発覚する事が何度かあったがために、公安の人間は死人の取扱を熟知しているのだ。
また、人知れず動ける公安だからこそ死人専門に動いてもいる。よって、楊の新設の課を作るにあたり署長と密談を重ねていたのは元公安の髙であり、事件を闇に葬る必要が出来た時には髙が動いていたのだ。
「あなたは嫌になりませんか?こんな死人退治は。」
「ふふ。普通の人間が自分の勝手だけで何の罪もない人を殺したり、苦しめたり、一生元の生活に戻れないまで壊す事件を担当するよりはね、化け物の方が気が楽なのよ。化け物であれば人権などない。裁判もない。だから、少々痛めつけてもいいものでしょう。」
「そうですね。彼らは呼吸ができないからいつも窒息しているようで辛く、痛みを以前よりも強く感じるという化け物ですものね。」
「あら、痛みが強いって事は、快楽も強いのよ。そして、その辛い呼吸が人を殺して食べれば楽になると知ったら、自分の抱いていた妄想を実現しても自分の中では正当化されてしまう。いえ、積極的に行動に移すのよ。それが身内に対してであっても。」
楊の真横を歩く田辺の横顔を見つめながら、楊は彼女がいつも家族をもつ平凡な主婦の姿をしているのは、平凡な主婦であった頃を偲んでいるからなのかとふと思い至った。
否、彼は見えたのである。
キルトマットの上でハイハイをする赤ん坊と、ゆったりとした笑顔を見せる太り気味ともいえる恰幅のいい男性。
そして、彼等だけが消えた家族のリビングルーム。
「あなたは、家族を亡くされたのですか?」
「さあ、って。――いいえ。あなたは知って尋ねたのね。」
「すいません。赤ん坊と男の人が見えて。」
「ふふ。あなたも今や飯綱使いですものね。クロちゃんのように何でも見えちゃうようになったのかしら。」
「勝手に見てしまったことは謝ります。ですが、違いますよ。俺は、そう、俺はちびからオコジョを貰っただけで、飯綱使いだなんて。」
玄人が養子にならねばならなかったのは、飯綱使いという武本家の血のためである。
武本家には五十年の呪いという馬鹿なものもあるが、それ以外の呪いも沢山あるという呪われた一族ともいえるのだ。
それは武本家が使うというオコジョの形をした獣の霊が、人の意識を盗み見て主人へと持ち帰るという事によるもので、だからこそ武本家は客の好みを知れるからと商売の家として栄えられたのだが、その見返りとして、客の持つ悪運や栄える事に対しての同業者からの恨み迄もオコジョが持ち帰ってしまうのである。
玄人が大怪我を負わされて死にかけた時に五十年の呪いが発動しなかったのは、弱った体に武本家に溜まった呪いを一身に受けてしまったことによる。
そこで、武本玄人ではない者へと成り代わる必要があったのである。
だが、武本姓を捨てた筈であるのに未だに彼が武本家の当主のままでもある訳は、余命のない彼に武本五十年の呪いを与える為でもあるが、そもそも彼が武本家の呪い除けという人型の生贄として武本家に作られただけの話だということだ。
つまり、飯綱使いの力の一片もない実の父親と、能力がありすぎる武本家の期待の星である彼の従兄の青年に武本家の呪いが行かない様にと、それだけの目的で生み出された赤ん坊が玄人なのである。
玄人が男であろうと女であろうが、それどころか、性のないものであったとしても、男子のみしか呪いがかからない武本の呪いが彼に必ずかかるのはそれが理由なのだと、楊は玄人へ対して言いようのない苦い気持ち迄沸き上がってしまっていた。
だが、そのようなことは気付いてもいない女の声が楊がそのような気持ちになった原因の質問を繰り返してきたのである。
「でも、あなたはその力を使って設楽季を滅ぼしたのよね?」




