(8)
4限が終わり、練習室を目指す。
中には彼女の父親がいた。
彼女とは次に会う約束はしていなかった。
「やあ、こんにちは。よく来たね」
「こんにちは。すみません、この間、娘さんに辛いことを思い出させてしまったようで」
「ああ、いいんだよ。ありがとう。こちらこそ、すまなかったね。カメムシの話なんていきなりされて驚いただろう?」
「驚きよりも……」
既視感が強く残る。
彼女が少し、ルカに被ってみえた。
俺は弱い子が好きなんだろうか?
誰かを守ってあげたいと思うような、俺はそんな人間だろうか。
「驚きよりも、そうですね、彼女の話があまりに意味深く思われたので惚れましたね」
「おやおや」
「いい娘さんですね」
「ありがとう。君にそう言われると嬉しいよ。嫁にはやれんがね」
後ろを強調して言った彼の顔があまりに真剣で思わず笑ってしまいそうになる。
「俺は結婚願望ないんで安心して下さい」
俺がそう言うと彼は面食らった顔をした。
「俺は? 娘はあるというのかね?」
「いえ、違うんです。すみません。姉が結婚したんです。昨日電話があって初めて知りました。私結婚したの、相手不動産業だから今度の水曜会わせるわ、と。流石に今回は驚きました。姉も私も、もう随分長いことそういう相手がいなかったのというのも、ありますけど、まあ純粋に姉に結婚願望があることが意外だったので、それでつい、俺はって言ったんです」
「ああ、なるほど。めでたいね。おめでとう」
「はい、ありがとうございます。ただ姉がチャペルウェディングへのこだわりが強いので、相手の方がマリッジブルーにならないか心配です」
「そういう話はよく聞くね」
「とにかく我儘で幼いんです。もはや姉ではなく妹だと思ってます」
「誕生日にリュックをくれたと言ってたじゃないか」
「お下がりですがね。しかも15の時からずっとです。女物すぎて使えないのとかもあって、流石に6個もいらないですよ」
「そうか、しかしまあ良いことだよ」
「そうですね」
誕生日……
彼は優しく微笑む。
「娘が時々来るやも知らん。こちらは妹だと思って構わんから相手してやってくれ」
「了解です」
次に練習室に行ったとき彼女がいた。それから何度も会って話した。だが三人で会うことは一度もなく彼、彼女、彼、彼女の順で会っていた。
部屋の静謐さは常に守られていてきっとこれが何より大事なことなんだろうなと思った。