(7)
「浅はかなんて思いませんよ。そもそもそんなこと俺が何か言えることではないです。浅はかだって罵って欲しいなら言いますがね。俺はそういう、言い方悪いですが執着みたいなものは音楽をやっていく上で必要なことのように思います」
長い沈黙が流れる。
「すみません。無神経でした」
「ごめんなさい。そうじゃないのよ。確かにあの頃は誕生日に何か意味があるように思えて留学した自分がひどく愚かに思えて仕方なかったわ。けど今は留学のことなんてもうなんとも思ってないの。話題を変えましょう」
俺には彼女が解放されたがっているように見えた。
「よろしければ聞きたいです」
「……ありがとう」
彼女は幼く笑った。
「留学は失敗だったわ。国土も現地の人も良かったけれど私がダメだった。音高でもコンクールでも1位を何度も取ってて留学前は自信しかなかった。だから同じ楽譜で同じピアノで同じステージで、どうしてあんなに違うのか全く分からなくて苦しかったわ。20人以上の先生に師事して貰ったし、阿呆みたいに長い夏休みはヨーロッパ中の巨匠の演奏を聞きに行ったし、人脈使って色んな所で演奏もしたわ。それでもちっとも上手くならなかった。むしろ下手になるばかりだった」
苦しく悲観的な内容にも関わらず彼女は努めて穏やかに落ち着きを持って話す。
「私が20のときにショパコンの予備予選で落ちて、ああいよいよこれはもうダメなんだって思った。100人近くいた日本人の多くが、いつか私が1位を取ったコンクールにいた人達だったわ。誕生日をショパコンで迎えるという私の夢は叶わなかった。5年後26になった私が今より上手くなってる見込みも、若く才能ある後輩に勝てる自信もなかった」
「カメムシって分かる?」
俺は頷き、あの硬そうに見えて思いのほか脆い胴体と独特の匂いを持つ茶色い虫を思い浮かべる。
「それが口の中にある夢を私は毎日のようにみたわ。夢の中で私はね、カメムシを食べようとしているの。初めはただ口の中にあるだけで、それだけで気持ち悪くて目が覚めていた。けれど一週間かすると足を、カメムシのあの小さく細い足を噛み始めたの。夢の中だから少しも自分の思い通りにならなくて、とても怖かった。最後には胴体を噛んだ。何が詰まってるかなんて考えたくもなかったけれど、あの臭いや軽い体重、形、が嫌にリアルで、好きだったパクチーが食べれなくなったわ。本当にカメムシを食べたわけじゃないけどね」
なるほど、確かにパクチーはカメムシの匂いに似ている。記憶というのは嗅覚と強く関連しているはずだ。
見るたびに思い出すのだろうか。
「虫を食べる夢はストレスの原因に立ち向かってる証拠だってお医者さんは言ったわ。家にいても、家の外にいても、寝ても、覚めても、私はずっと戦ってるんですって。だけどストレスと戦うことがストレスになっちゃうなんて可笑しいでしょ? だから結局退学して日本に帰ってきたの。実際は日本に帰ってからもすぐには治らず苦しんだけれど、この部屋が表れてからはそんなこと一度だってなかったわ」
表れた、といういう言い方に不自然さを感じた。
そこだけがとても自信なさげで彼女自身もその表現に納得していないようだった。
間違ってはいないが合っているという確信もない、そんな躊躇いがあった。
「思い描くとおりに指が忠実に動いてピアノが弾ける。こんなに気持ちのいいことはない。だからこの部屋は私にとって特別なの。ポーランドにいた時よりも行く前よりも遥かに上達して、この話をするのも問題ない程に回復した。もういい加減カメムシに感謝するべきかもしれないわね」
そう言って彼女は口元に弧を描く。
話すたびに覗ける彼女の口の中はとても綺麗だった。
歯は白く、並びも揃っていて形も大きさも理想的だった。あの口の中にカメムシが居る所を想像することは難しかった。
だが俺は思う。
きっとまだ彼女はパクチーなんて食べれないだろう。
注意深く見ないと分からない程に小さく小刻みに震える唇に、キスをしたいと思った。