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静謐なる部屋  作者: 上川鶴馬
6/14

(6) 12の練習曲(エチュード) Op.25-1

娘と聞いていたから勝手に彼の年齢を踏まえ、高校生くらいだと想像していたが、なんだか同期でいそうな人だと思った。しかし大学内で見かけたことはない。




彼女は申し訳なさそうな顔をして口を開いた。


「悪いけど一度を部屋を出て、それからまた入ってきてくれない?」


「……」


「私は出られないから、ねぇいいかな?」


次に発せられる言葉に身構えてた分、拍子抜けした。

謎だがとりあえず部屋の外に出ればよいのだろう。


「いいですよ」


「ありがとう。それじゃあ30秒したら扉を開けてね」


「分かりました」




1.2.3.4………………金管楽器、木管楽器、打楽器に、弦楽器。そして鍵盤楽器。色んな音が聞こえてくる。

そういえば挨拶を返していなかった。入ったときに言うとしよう。それと一応彼女が本当に彼の娘なのか確かめる必要があるだろう……………………28.29.30


ドアを開ける。

さっきまでいた場所に彼女はいなかった。

移動してピアノを前にして座っている。

ドアを閉める。

挨拶なんて出来そうになかった。

静けさが部屋の隅々まで行き渡ったタイミングで彼女は弾き始めた。


【 12の練習曲(エチュード) Op.25-1 変イ長調 】


この曲は多くの愛称を持つが最も有名なのはロベルトシューマンが名付けた『エオリアンハープ』だろう。

この曲を聞いて感動したシューマンが、自然に吹く風によって音を出す弦楽器の一種『エオリアンハープ』を連想したのが由来となっている。

楽曲全体を通じて、繊細で美しい流れるようなアルペジオが印象的な曲で旋律は豊かな詩情を感じさせる。



・・・・・・それにしても上手い。

俺は楽理科なので技巧的なことはよく分からないが、

彼女のこの上手さは奏法などといったことだけが理由ではないように思われた。

今まで聞いてきたどのエオリアンハープとも違った印象を受ける。

とても洗練されていると思った。

丹念に繊細に歌うように奏でられる。


春のうららかな日差しと名もない花に囲まれた小川が静かに流れる情景が思い浮かぶ。

ふと彼女が弾いていることやら俺に部屋に入るところから始めさせたことやらの理由に察しがついた。

こんな話までするとは仲の良い親子だなと思った。


彼女は穏やかにそして母性的な慈しみを持って弾く。

クライマックスに入る。

3分も経たずに終わってしまった。






彼女はくるりと首を右に向け俺を見る。

「どう? 恋に落ちた?」


どうやら推測は当たっていたようだ。

これで彼女が彼の娘であることが裏付けられた。


「落ちなかったですね」


「あら残念ね。ねぇあなたのピアノ聞いてみたいわ」


「俺に君を落とせる自信はないです」


「どうして?」


「君のほうが上手いから」


彼女は顔をこちらに向けたまま黒目だけを動かして、例えて言うなら、ちょうど俺の右隣に人が一人並んだくらいの所をじっと見つめている。


「私、26歳なの」


「見えないですね」


「童顔でしょう」

てっきり同い年くらいだと思っていた。

だが改めてよく見ると確かに目元には幼さが残るものの口元はどこか艶めかしく26というのも納得できると思った。


「ちょうどあなたくらいの時にね、留学してたの」


「なるほど」

だからそんなに上手いのか。


「留学すれば上達するとは限らないわ」

彼女に自慢げな調子はない。


「そうかもしれませんが、この大学にいるより遥かに有意義ですよ」


この大学では留学は盛んではない。

才能がないというのもあるが、そもそも音楽を貪欲に学ぼうとする意思、勤勉さ、愚直さがない。

彼女がもし仮にここの学生ならば26歳ということを踏まえ留学した後に入学したと考えるのが無難だろう。


「この大学、ねぇ……あなた、この部屋に初めて入った日がいつだったか覚えている?」


「いえ、正確な日付は覚えていません。10月くらいだったと記憶しています」


彼女の父親に初めて会ったのは秋だった。

もう半年が過ぎたのか。

彼に会うことはすっかり俺の生活の一部となっていて今更ながらどうして彼女と会わせたのか疑問に思う。

まさか本当に恋だの愛だのの話ではないだろう。

それに彼は何故ここにいないのだろうか。


「そうよ。10月。10月17日よ。私の誕生日でもありショパンの命日でもある10月17日にあなたはこの部屋に来たの」


「誕生日がショパンの命日とは」


「生まれ変わりだなんて思っていないわよ?」

おそらく小さい時から同じ様なやりとりをしてきたのだろう。小馬鹿にした空気があった。


「俺も生まれ変わりなぞは、くだらないと思っています」


「……あなたって夢がないって言われるでしょう?」


「言われますね。あと理屈くさいとか」


「ふふ、やっぱり。私はね、夢があったわ。音楽留学といえばどこを思い浮かべる?」


「パリやウィーン、ドイツのハノーファーやアメリカのバークリーですかね」


「私の留学先はポーランドだった」


「なるほど、ショパンの故郷の」


「そうよ、留学先にするなんて浅はかだと思う?」


ああ、先程の生まれ変わりがどうとかで小馬鹿にしているように感じたのは少し間違いだったようだ。

あの嘲りは自嘲だ。

俺や俺と同じような考えを持った人に対してではなく過去に一度でも生まれ変わりに近い何かを夢見てしまった自分自身を彼女は嘲り揶揄したのだ。



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