(5)
隣から慎み深い拍手が聞こえてきた。
「良かった。とても良かったよ」
「ありがとうございます」
「すまない。引き止めすぎたね」
彼の視線を追って窓を見る。
既に随分暗くなっていて木々にも秋を感じた。
「また来てくれないか?」
恐る恐るといった感じでそう聞いてきた。
「ええ、いいですよ」
「いつなら来れそうだい?」
「そうですね、3日後の4限の終わりなら」
「分かった。それじゃあ、またここで」
ドアノブに手をかけて
「はい、それでは、また」
そう言って廊下に出た。
3日後、行くかどうか悩んだが約束してしまった以上破るのは気が引けたし、危害を与えようとする素振りはなかったので行くことにした。
ドアを開けると既に彼はいて、俺が来たのを心から喜んでくれているようだった。
それから同じように約束を取り付けて会う事が習慣になった。4限終わりは毎回通った。
相変わらず俺は彼に質問をしなかったので彼に関することで分かったのは彼がピアノの先生であるということだけだった。
直接なにか言われたわけではないがピアノを弾いていると時々鋭い指摘が飛んできた。
その指摘の仕方は長年指導者であることを伺えさせるものだった。
彼は俺が今まで師事してきた誰よりも知識があるように思われた。
また、楽譜に忠実で力によらない、神経が行き届いた演奏でどんな難曲もさらりと弾きこなした。
したがって俺は彼に話3割、指導7割を求めて会っていたのだが、ある日いつものように部屋に入ると、中に青のタートルネックに黒のスカート着た女の人が立っていた。
俺はすぐに分かった。
彼の娘さんだと。
顔はそこまで似ていなかった。
それでも分かったのは、彼女が彼と同じでこの部屋の静けさをとてもよく心得ていたからだった。
むしろ彼以上に理解しているかのようだった。
そしてその直感は当たっていた。
「こんにちは」
口を開いて声を発しているのは間違いなく目の前の彼女なのに、この部屋そのものが発しているような感覚に襲われた。