(4) 愛の夢 第3番
「自分から告白して卒業まで付き合ってたなんて一人目の子と随分違うようだね」
「違いましたね。お互い帰宅部だったので本や音楽の趣味からお互いの家族のことや過去の話まで。話をする時間が沢山ありましたから」
何よりルカほど好きではなかった。
「ああ、そういう時間は大事ではあるね。彼女のどういうところを好きになったんだい?」
「そうですね、地震で学校が揺れたことがあったんです。といっても、震度3ぐらいで大したことはなくて。授業終了20分前くらいに揺れて、休憩時間が終わるとすぐ次の授業が始まりました」
「そして、その授業で彼女は泣いてました」
彼は下手な相槌はせず、ただ耳を澄ませて話を聞いてくれている。
「黒板を見つめたまま、静かに大きな目から涙を流してました。俺の左手斜め後ろ席に彼女は座ってて俺が振り返って見てることに全然気づいてませんでした」
今でもよく覚えている。
クジで決定した彼女の席は教室の一番後ろの窓側で地震があった日、彼女の隣は休みだった。
俺は既に地震のことは頭から抜けていて授業に集中していた。
教員の話に耳を傾け、黒板の字を追いながらプリントを後ろに肩の上から渡そうとした。
だが一向に受け取る気配は見えなかった。
少し考えた後、ああ、そういや今日あいつ休みだったな、と思い出して机に置いておこうと振り返った。
そのときに泣いている彼女を発見した。
はっとするような美しさだった。
「その前の授業や休憩時間に、大きな地震を経験した子の中には、フラッシュバックで泣いてた子もいたんですが、彼女はそういうのじゃなくて、ひょっとしたら自分が泣いてることに気づいてないんじゃないかって程に本当に静かに泣いてました」
「他の理由で泣いていたのかい?」
「いえ、地震です」
「それは怖さから?」
「ええ、ただ怖かったのは地震ではなく誰にも心配して貰えなかったことらしいです」
「心配……」
「友達はいる方なんですがね。あの時は他の皆はそれぞれ大丈夫? や、怖かったね、と話しかけ合ってたけど彼女には誰も声をかけてくれなかったようで。それがとても悲しかったと」
「なるほどね」
「後で泣いてた理由聞いたらやっぱり無自覚だったらしくて自分がこんなに幼いとは思わなかった。不謹慎だった。他の人に申し訳ない、そう言って教えてくれました」
「不謹慎ではないだろう。そんな事態のときは誰でも心細くなるものだ」
「俺もそう言ったんですけどね。生真面目な性格なのですんなり受け入れてくれなくって」
「泣いてる姿が好きだった?」
「俺はそんな趣味はないです。それに彼女が泣いているのを見たのはあの時だけでした」
「人が見ていないところで泣く子なんだね」
「ええ、なのでいつも心配してましたね。彼女は家のことで色々悩んでたので」
「……流石にこれ以上は聞きすぎかな」
「じゃあ一つ彼女の名前に関係してる事です」
「確かルカという名前だったね」
「はい。男じゃないですけど」
「ああ、なるほど。分かったよ」
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「そういえば今日は何を弾く予定だったんだい?」
「愛の夢第3番です」
「おや、ぴったりだね」
「……」
ぴったりとは嫌な表現をする。
「良かったら弾いてみせて欲しい」
好きな曲なので技術面でかなりの背伸びをしたが高校の内に弾けるようにした。
「いいですが、あまり期待はしないで下さい」
「ありがとう」
【 愛の夢 第3番 変イ長調 】
フランツ・リストの最も有名な曲の一つ。簡単そうに思わせて実に難しい。いかに聞いてる人に流れるようなメロディを聞かせるか。
確かルカもこの曲が好きだったな。
気恥しいと思いつつよく頼まれて弾いていた。
超絶技巧でいつも緊張する中間部が脱力して弾ける。
弾くたびに指が足りないと思っていた箇所で今はルカのことだけが思われた。
一緒に歩いて帰った道の、いつ見ても客の全然いない花屋さんとか、今にも壊れそうな建物とか、スヌードを着けて寒いと言った彼女の横顔とか、彼女の部屋にある少し不自然な並べ方の本棚とか……
彼女が結婚したと聞いてから思い出さないようにしていたものが、たくさん波のように押し寄せてきた。
ああ、なんて素敵な曲なんだ。