(3)
その人は、部屋に一つだけある窓の壁に肩を預けて、俺は椅子に座ってピアノを弾く時と同じくらい背筋を伸ばして次の言葉を待っていた。
目が合う。澄んだ綺麗な目だと思った。
「すまないね」
「……」
いきなりなんだ。
探るように見ると彼は軽やかに笑った。
「話しかけてきたのがこんな老人で。ほら放課後音楽室で女の子がピアノ弾いている姿に恋に落ちるとかあるだろう?」
彼はどんなに多く見積もっても小父さんだ。
それを老人といい、恋がどうとかと話しかけてくる。
彼個人は親しみ深い人なのだと思った。
「四歳の頃からピアノ弾いてますけど、そんなベタな展開一度だってなかったですね」
「それは悲しいな」
「ええ、期待はしてましたけど」
「なら君と会うのは娘のほうが適役だったな」
「それだと娘さんが俺に対して恋に落ちることになりますよ」
するとわざとらしく殊更、生真面目な調子で
「それはいかん」
と言い、表情をゆるめた。
「彼女は?」
「いませんね」
「今まで何人と付き合ったんだい?」
「二人です」
「どんな子達だった?」
「一人目はバレー部の社交的で友達の多い子でした」
「うん」
あなたは誰で
どうしてここにいて
どういう意図があって俺にそんな質問をするのかと
尤もらしい質問はいくつもあったが、それをしなかったのは、依然としてこちらから何かを尋ねるのを躊躇ってしまう雰囲気があったからだけではなく、今俺は質問に答える側なのだという妙な確信とこのまま誘導に乗って答えるのが、そんなに悪くないように思われたからだった。
そうして促されるままにベラベラと話していた。
「中三の時に告白されて付き合いました。けどそのとき俺、ピアノと勉強それに部活の掛け持ちと内申目当てで生徒会に入ってたので、くそ忙しかったんです。にもかかわらず、電話を毎日かけてくる子だったので流石に疲れて二ヶ月ちょっとで別れました」
「それは大変すぎだろう。掛け持ちって何を?」
「サッカーと合唱です」
「ほう」
「球技苦手なんですが友達に誘われて。付き合ってるとき一番削れる時間はこれだと思ってましたね」
「それじゃあ合唱部が主だった?」
「いえサッカーでした。合唱はテナーが足りないという事で助っ人で入ってただけです」
「なるほどね。意外といえるほど、私は君をまだ知らないが、君がサッカー部のユニフォームを着てグランドを走る姿より、合唱コンクールで学生服を着てステージで歌っている姿のほうが遥かに想像しやすいよ」
「そうですね、合唱部のほうが合ってました」
「二人目は?」
「二人目は高一の秋に、俺から告白して卒業するまで付き合ってましたね。ルカっていう名前で聡明で目が大きい、猫みたいな子でした」