(2) 24の前奏曲(プレリュード) Op.28-13
その部屋の存在は知っていた。
入学してからずっと部屋の前の電球が切れていて、そんな部屋なんてないと言われても納得できる程ひっそりと存在している。
練習室は東校舎C棟5階カウンターにて貸出手続をしてから1時間の使用が認められる。
ピアノの練習室は3〜6階で奇数階にグランドピアノ、偶数階にアップライトピアノが置いてある。
ここは3階。
いつもきちんと守るが何故だか今回ばかりは手続きをするのが面倒に思われた。
ドアを開けて部屋へと入る。
薄いピンクの絨毯に白い壁、グランドピアノは左に寄りに置かれ、窓が一つあるだけだった。
蓋を開け、調律の確認をする。
一見して他の部屋との違いはないようだった。
しかし、ただひたすら静かだった。
学校は常に音で溢れていて、練習室は隣の隣の隣のピアノの音が聞こえ、オルガン、チェンバロ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、サックス、ファゴット、トランペット、トロンボーン・・・・・・
曠然たる敷地内のどこにいたって聞こえてきた。
それがこの部屋では全て遮断されていた。
楽譜を開いて椅子に座る。
いつもなら無理やり高める集中と緊張が、これ以上ないというくらいに研ぎ澄まされている。
ハノンを弾いたら二度とこの空気を作れないという気がして
【 24の前奏曲 Op.28-13 嬰ヘ長調】
を、左手の閑寂で穏やかなアルペジオに乗せて、右手で優しく慈悲深い和音で奏でる。
作品28は第15番変ニ長調のいわゆる『雨だれ前奏曲』が有名だが夜想曲第2番変ホ長調作品9-2のように甘美な旋律が前に出過ぎている印象を受ける。
またどちらも大衆的であり大衆的といえば同じく作品28第7番イ長調の太田胃散のCMを見たときは時に何とも言えない残念さがある。
第7番自体は明るくも優美なマズルカ調がキャッチーで言うまでもなく雨だれも第2番も素敵だが第13番の決して訴えかけるのではなく内向的で美しくも悲しい旋律がなにより俺にいかにもショパンだと思わせてくれる。
最後の余韻が消える---
「ピアノはやっぱりショパンですわ」
俺以外誰もいないはずの、誰も気づいてないと思われていた部屋にその人はいた。
感じのいい笑みを浮かべてドアの側ににたたずんでいた。40代後半くらいだろうか。
落ち着いたグレーの背広がよく似合うどこにでもいそうな紳士的な人だった。
「すごいな、よくこの部屋に気付いたね」
「すみません。勝手に入りました。すぐ出ます」
楽譜を持って椅子から立ち上がる。
「ああ、いいんだ。ここは特別だから。少し話そう。時間はあるかい?」
少し掠れて知的さを感じさせる優しい低い声だった。
先ほど聞こえた母性的な声は聞き間違えだったのだろうか。
いや耳には自信がある。
ドアを開けた音さえ気づかなかった。
あの声も今の声もどちらも、この部屋の一部のように静けさを少しも壊すことなく発せられていた。
その人は存在自体がこの部屋と同化してしまっているような不思議な不気味さと、こちらから話しかけるのを躊躇ってしまうような奇妙な違和感の森厳さがあった。
質問はもうこの部屋に入ったことで意味の無いものになっている気がした。
「時間はあります」