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静謐なる部屋  作者: 上川鶴馬
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(12)

部屋には彼女がいた。


「ねぇ今日はマズルカ弾かない?」


「マズルカ……」


「もしかしてルカさんのこと思い出してるの?」


俺はあの日のことを話した。

別れた原因やきっぱり振られたことを残さず全て。




「神前式の誓詞奏上も素敵だと思うわ。


『私共は今日を佳き日と選び


今後は信頼と愛情とを以て

輔け合い励ましあって

良い家庭を築いて行きたいと存じます


何卒幾久しくお守り下さい』」



まるで本当に式をあげている気持ちになった。

姉の結婚式よりも神聖で厳かだった。

部屋全体が清らかさに満ちている。

ふいに俺は彼女に抱きしめられた。

亡き母を彷彿とさせる包容力があった。

しかし彼女の胸は驚くほど小さかった。

背も俺より10cm低い。

子供と母。

大人を飛び越えているようだった。

彼女は一体どこに存在しているのだろうか。

俺も彼女の背中に手を回す。

キスをした。

いつかキスをしたいと思ったあの唇に。


そのまま彼女を抱いた。

ベットも何も無い、ピアノがあるだけのこの部屋で。




---------




「あなたって本当に生きているのね」


彼女は感心するかのようにそう言った。


「はぁ……?」


なんと返せばよいのだろうか。


「てっきりあなたは私が作り出した幻だと思っていたの。あなただけじゃない。父もそこのピアノもこの部屋も、全て私が作り出した妄想の世界の話だと思っていたわ」


「この部屋も?」


「ええ。ずっと長い間この部屋には父が出入りするただけだった。私は出ることが出来ない。カメムシやスランプのせいで色々頭が可笑しくなっていたから有りもしない部屋をでっち上げてそこに話し相手としての父を登場させてるのだと思ったわ。父のことなら自分のこと以上に分かる自信があるから簡単よ。この部屋では時間は止まっていて食事も睡眠も排泄も必要ない。夢の世界だと思った。カメムシなんて出てこない、本当の夢の世界だと」



彼女の話は要領を得なかった。

この話はどう受け止めるのが正解なのか。

俺は困惑した。



「あなたが初めてこの部屋に入ったとき私はとうとう居もしない人を作ってしまったんだと思った。半年間注意深くあなたを観察したわ。行動や考え方、話し方が私や私の知り合いと類似していないかと。あなたはどこにも矛盾がなかった。そんな人を作れるほど私は賢くない。だからあなたは間違いなく実在する人よ」



「すみません。全く分かりません」


「なら、この間話した特異点は? この部屋によく似てると思うのだけど」


「似てるってこの部屋と特異点がですか?」


「ええ」


何を言い出すんだ。

特異点は大きさ無限小の点だ。

密度、重力は無限大。

体積ゼロの空間がこの部屋と似ているなら俺たちは今そもそも存在できていない。


「それはナンセンスです」


「ナンセンスって言葉、すごく腹立たしいわ」


「すみません。やはりこの間は説明が不十分でした。どうかこれ以上間違った解釈をしないで下さい」


「そんな哀れんだ目をしないで。私はあなたのお父さんに言っているのではなくこの部屋にいるあなたに言っているの。何度もここに来てあなたは何も感じなかったの?」


感じなかったわけがない。

この部屋の不可思議さは来るたびに感じていた。



「……どこが似てると思うのですか?」


「圧縮されたことで時空と時間の進行が止まるところよ」


「時空の進行はこの部屋から出られないことで、時間の進行は時間が止まってる、ということですか?」


「そうよ。ブラックホールは理論的にはどんなものからでもなるんでしょう? 私達人間もこの部屋も十分に圧縮すればブラックホールになるのなら特異点は出来るはずよ」



「そうですね。それは間違ってはいません。では収縮が始まった理由はなんでしょうか? 」


「これこそあなたはナンセンスと言うのでしょうけど、スランプとカメムシに追い詰められてたことが理由よ。それが私に収まりきらないストレスとなって私は崩壊したの」



今日一番の爆弾だった。




「……すみません。今日はもう帰ります」


話にならない。

さっさと切り上げて帰りたい。


「呆れされるようなことを言ってごめんなさい。今日はありがとう。嬉しかったわ。あなたにとっては迷惑だろうけど話せたこと、それ以外のことも、ありがとう。とても幸せだと思えたわ」


そうだった。さっきまで俺は彼女を抱いていたはずだ。それが何故ムードも色気も何もかも消え去った議論に変わっているのか。


「すみません。明日来ます。さようなら」


すみません、さっきと同じ言葉だった。

こちらは適当ではない。



「さようなら」


そう言った彼女の顔はとても輝いていた。

未練なぞ後悔なぞ恥なぞ、一つも持ち合わせていない美しい笑顔だった。



彼女に申し訳なくて俺は逃げるように部屋を出た。




---------





家に帰ってから考えたが頭が痛くなるだけだった。

何故いきなりあんな謎なことを言い始めたのか。

よりにもよってあの後に……



練習室は変わらず日が一切当たらない奥まった場所にあった。

足元がみえず、また距離感も掴めないほど暗かった。

ゆっくりと近づく。

ドアノブの位置だけは確認できる。


部屋に入る。


彼女の姿はなかった。




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