本所に行ったは良いけれど
連、賢治と一旦分かれて、喜助と柴一は行方不明者の情報がないかと思いながら、京橋区と日本橋区を抜け、両国橋まで来た。
明治八年一二月に架け替え終わった九六間ある西洋式の木橋で、六年しか経っていないが両国の大火の際に着いた煤汚れや焼けた跡が目立つ。橋の両端には、魚の尾びれのように裸火が二つに分かれるガス灯が設置されている。まだ日が高いため、ガス灯に火は点っていないが、夕方になると点消方≪てんしょうかた≫がガス灯に点火する。
橋のみならず、銀座などにもガス灯はあり、夕方に点火、朝方になると消灯してまわる。ガス灯の明るさは、ぼんやりと周りを照らす程度だが、江戸期の真っ暗の中で提灯を下げるよりも明るい。しかしガス灯があっても、足元は見え辛い上に長屋に行く道は暗いので提灯は必要なのだが。
ゆったりとした歩調で両国橋を渡る。擦れ違う人は、女は着物が殆どだが、男は着流しだったり、洋装だったりと様々だ。明治四年の散髪脱刀令後は徐々に断髪する者が増え、今では大半が断髪している。
橋を渡り終えて本所区に入ると、鼠小僧治郎吉の墓がある回向院の屋根が見えた。
「さて、これからどうしようか」
回向院へ続く道を歩きながら、喜助は隣を歩く柴一に声を掛けた。
「どうしようかって、考えてねえのかよ」
呆れた声を出した柴一に、満面の笑みを浮かべた喜助は大きく頷いて見せる。
「うんじゃねえ、うんじゃ。どうすんだよ」
威嚇をする猫のように言い返した柴一に、笑みを浮かべたまま喜助は散歩しようかと呑気に言う。
「依頼を受けたから、本所に来たんじゃねえのかよ」
「そうだよ。でも、結局のところはどうにもならないから、散歩に切り替えとこうって思ったんだよねえ」
喜助の言葉に、柴一が深い溜息と共に肩を落とした。可愛いと心の中で呟きつつ、喜助はそれにと続けた。
「それに、柴一と二人っきりで散歩なんて久し振りだし」
「やめれ。変な誤解される」
恨みがましそうな柴一の視線が喜助に向けられるが、喜助は涼しい顔で流している。
「お父さんは、可愛い息子と散歩できるのが嬉しくて仕方ないんだよ」
「だーかーらっ! 可愛いって言うな。何回言えばお花畑みたいな頭は理解してくれるんだよ」
喜助が真顔で見つめた途端に、柴一は身構えた。暫く沈黙が流れる。
「な、何だよ」
沈黙に耐え切れずに身構えたまま柴一が聞くが、喜助は無言のままだ。
「何か言えよ」
「べーつーにぃ」
「別にって顔じゃねえじゃねえかよ」
柴一の表情が、言っちゃいけない事を言ったのかと喜助に聞いている。
「頭がお花畑のお父さんは、柴一が可愛いから揶揄ってみただけなんだけど」
「お花畑を根に持つな、くそ親父」
満面の笑みで答えた喜助に、膨れっ面を見せた柴一はすぐに何か気になったように後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「何でもない」
喜助に聞かれて、柴一はすぐに向き直る。
「そう、なら良いけど。何かあったら、ちゃんと言うんだよ」
「分かってらあ」
流れに沿うように回向院の前を通り過ぎ、小泉丁と松坂丁に挟まれた道を進んでいく。相生町の途中から亀沢町と陸軍用地の間の道に曲がり、厩橋の方へ歩いて行く。
「親父、本当に散歩に切り替えてたのか」
厩橋を渡り、浅草に入れば長屋まではそう遠くない。どう頑張っても帰路についているようにしか思えなかったのだろう、柴一が不審げに喜助に聞いている。
「そうだよ。だって闇雲に歩き回っても何も出てこないし、親子団欒をするには賢治を引き離さいと出来ないし、丁度良いなって思って」
「依頼放棄するなよ、馬鹿親父」
呆れて言った柴一に、喜助はくすくす笑っている。
「まあ、今の処手詰まりだけど、依頼放棄はしていないから心配しないんだよ」
にっこりと笑みを浮かべて言った喜助は、すぐに笑みを消して不機嫌そうな表情を見せた。
「どうだか」
わざとらしく溜息を吐いて、急に不機嫌になった喜助に気付いた柴一は、喜助に声を掛けようとしたが、すぐに止めて不思議そうに辺りを見回した。
「どうしたの、柴一」
「なあ、道曲がってから、誰も会ってねえんだけど」
人通りがあってもおかしくはないが、誰一人擦れ違ってはいない。
「だろうね。壱が人払いの結界張ってるから、誰も会わないのは当たり前だよ」
喜助が急に不機嫌になった理由は、柴一にとって嬉しいことで対照的に満面の笑みに変わる。
「あのね、あからさまに嬉しそうにしないでくれる。お父さんは、また親子団欒の邪魔されて凄く嫌なのに」
「ちったあ我慢しろよ。ほっかむりのおじちゃんはその場だけだし。終わったらまた団欒出来んだろ」
柴一の言葉に、喜助は少しだけ考える仕草を見せて、確かにねと呟いた。
「壱、出てきなよ。その辺にいるんでしょ」
軽く息を吸って、聞こえるように言った喜助の言葉に反応するように、建物の影から壱が姿を現した。