追われる者
「助けて」
道から外れた枯れた葦の群生掻き分けながら、誰かが走っていた。誰かに助けを求めているが、夜中の海岸近くだ。誰一人居る者はない。否、後ろから何かが追いかけて来ている。
群れをなしている葦が追いかけて来る者によって、激しく音を立てながら揺らされ、徐々に近づいているのだ。
息を切らしながら、縺れ気味の足を無理矢理動かす。人里まで辿り着くには、まだ一里走らなければならない。
「あっ」
数日前に雨が降ったせいか湿地帯故に走り辛く、地を踏みしめた足が泥に取られて勢いよく転んでしまう。痛みを覚える前に起き上がり、着物に泥が付いているのも構わずに再び走り出す。追いかけて来る者がどれくらい近づいているのか、分からないまま無我夢中で走った。
「誰か、助けて」
息を切らせながら叫ぶが、誰も居ないことは分かり切っている。湿地帯を出れば、何とかなるかもしれない。微かな希望を持って、追いかけて来る者から逃れようと無造作に葦を除け、道なき道を直走る。
揺れる葦の間に真っ暗に広がる空間に気付き、もう少しと重く感じる足を必死に前へと走らせる。
後、二三丈。先程よりも、枯れた葦の激しく揺れる音が近づいている。追いつかないでと願いながら、走って行く。
残り一八丈で、音が更に近づいた。嫌だと叫びながら、重さが増した足に鞭を打つように走らせる。
一〇状手前まで走ると、枯れた葦の切れ間は更に大きく開かれており、道に出られることを示していた。
葦の切れた五丈先から、風が吹き込んでいることに気付く。後少しと祈るように、葦の切れ間を目指す。
枯れた葦を抜ける寸前に、道が見えた。逃げられると安堵しながら、道に飛び出そうと右足に力を込めて地面を蹴る。
道に体が出る寸前で帯を引っ張られ、後ろに引き倒された。
背を打ち付けられた痛みに顔を顰めながら、小さく呻く。生臭い臭いがして、背を打った拍子に瞑った目を開く。逆さまに見えた顔に目を見開くと、声を発そうと口を動かす。
逆さまに見える顔が、ゆっくりと近づく。
「た、助け、て」
漸く出た声は、すぐに断末魔の叫びに変わり、少しして静寂に包まれていった。
深い闇。前を見ても左右を見ても、何処までも続く闇。
何故、ここに居るのか分からない。否、ここに自分は存在しているのかが分からない。下に視線を落としてみたが、ある筈の手足も体も見えない。
何が、どうなっている。ここに居る理由は何のか。
『漸く』
左耳があるだろう、すぐ横で声がした。神経が逆撫でられるような、生理的に受け付けない声。
何が起こっているのか、嫌悪感を払いのけるように息を吐く。意識しながら息を吸い、落ち着かせようとゆっくり息を吐く。しかし、落ち着かせようとする意識と逆に、鼓動が早くなっていく。
『待ちわびた』
何がと問いかける前に、足元に跳ねのけたくなるような感覚に襲われる。下から這い上がる感覚を見えない右手で払おうとするが、払えずに更に這い上がってくる。
纏わりつく声と、得体の知れないものが這い上がってくる感覚に、嫌悪感を露わにして振り払おうとするが、振り払われるどころか粘着するように絡みつかれ、呻くように小さく声を漏らした。
『もう遅い。今更足掻いたところで、お前は何も出来ない』
振り払おうとする動作は、何時の間にか声に抗うように逃れようとする動作へと変わっている。
這い上がってくる感覚が首まで到達すると息苦しさを覚え、そのまま息苦しさが増していく。絡みつき首を絞めつけるそれを引き離そうと両手を掛けるが、離れるどころか益々絞めつけは強くなり、同時に意識が朦朧としだす。朦朧としながら両手の力が抜けてき、だらりと両腕が重力に引かれた。鼓動だけが、大きく早く打ち付けている。
誰も居ない、ここで自分は消えてしまうのだろうか。あの笑顔には、もう会えないのか。
残った力で口を動かすが、首を絞めつけられている為に声が出ない。それでも同じ言葉を口にしていた。
会いたい、と。




