9「本質」
芸術の授業は美術、音楽、書道のうちから選択した科目を、それぞれ指定の教室で二クラス合同で受ける。体育のときと同様、一組は二組と合同だ。一組のナズナと香は美術を、二組は真夏と蒼が同じく美術、夏目と千秋は音楽を選択している。
美術室は中館の三階に、音楽室は西館の三階に位置するため音楽の二人とは中館二階の踊り場で別れることになる。三階には渡り廊下がないのだ。どうでもいいことだが、夏目は仲間のなかでは少数派な音楽を選択したことを少し後悔しているらしい。美術を選んでいたところで夏目には絵など描けないのだし、そもそもそれが理由で美術を避けたのだからおとなしく歌でも歌っていればいいのだ。絵と違って歌のほうは少なくとも下手ではない。
しかし意外だったのは真夏が美術を選択していたところだ。彼はいい加減な性格でいい加減に生きているくせに、なんだかんだで絵は描ける。強い筆圧といい加減なタッチのせいで線は粗いが、線が粗いだけだ。観察力が必要になるスケッチは得意な部類だろう。それは中学のころに見ていたので知っている。
だが一方で歌も好きだと言っていた。聞いていてあまり違和感を感じないくらいのそこそこ正しい音程に小手先の技術を加えて聞こえの良さを補っているため、カラオケレベルだがずっと隣で聞き続けてもストレスにならない程度ではある。夏目はうまいと称賛していたが、あれはごまかすのがうまいだけだろう。
正直、ナズナが美術を選択したのは三つのうちで最も得意なのが美術だからというのもあるが、絵を描くより歌を歌うほうが楽だろうし、真夏は夏目に誘われて音楽に行くと思っていたのも理由のうちにあった。選択の際にどこでもいいしどうでもいいとぼやいていたのを覚えているからだ。香はともかく蒼もナズナもわざわざ真夏に一緒にやろうと声をかけたりしない。そこを見誤ったのは己の判断ミスか……そうでなければ真夏の変則的な決断だ。真夏が美術を選ぶとわかっていればナズナはきっと音楽を選んでいた。ただ真夏は二つのことを同時にできないのか、それとも絵を描くことに集中してしまうのか、美術の授業中は比較的静かになる体質だったのが救いだった。
教卓から一番遠い教室の隅で四つの机を寄せる。ナズナの隣に香が、その正面に真夏と蒼が座っている。蒼も昔から絵を描くのが得意だ。筆の運びは細く繊細で、弱弱しい。しかし儚さを感じさせる画風で透明感のあるものや美しいものを描くのがうまい。だが結局は双子ということか。真夏や香には見分けはつくものの、蒼とナズナは単なる絵柄ですら似ていると言われている。
「漠然としすぎなんだよな」
真夏が画用紙を前に愚痴を洩らすように言う。香がカッターで鉛筆を削りながら、え? と聞き返す。
「テーマだよ、テーマ」
「ああ、『夢』だっけ」
真夏は机の上に鉛筆を置いたままそれを手にすることなく十五分、ずっとなにを描くかで悩み続けている。彼は一度描き始めると早いが、描き始めるまでが長い。しかし今回に至ってはナズナも同じだった。
「たしかに、なに描けばいいかわからない」
鉛筆の先で机をとんと叩く。
「夢って。将来のってこと? いつかしたいこととか願い事? それとも寝てるときの?」
「テキトーに……なんか、好きなものぶち込めばいいんじゃないの」
蒼は教卓から持ち出してきた資料集のページをパラパラ捲りながらため息を吐いた。ナズナもつられて大きなため息を吐く。
「哲学かよ。夢ってなに?」
「寝ている間に見える幻覚のことである。眠る間に脳がその人自身の記憶の整理をする過程で構成さ――」
「それ前に聞いたし」
「前っていつだよ」
机に突っ伏したまま説明台詞を垂れ流す真夏の語りを遮る。真夏が不服そうな顔をしたような気もするがナズナはまるで気に留めない。
「要はなんでもいいってこと?」
「なんでもいいほど困る指示はないな。もっと具体的に指定してくれたほうが助かるってもんよ」
「想像力を養うってことじゃないかな?」
そろって頭を抱えるナズナと真夏に香がくすくすと笑い声をもらす。
「こんなことでどうにかなるようなもんか、想像力って」
「先生になにかアドバイスでももらってくれば?」
「俺あんまり話したくないんだよね」
「どうして?」
「勧誘される」
「真夏って中学のときから美術の先生にモテるよね」
真夏はよく美術部に勧誘されるのだ。かくいうナズナも何度か美術部に来ないかと声をかけられたことがある。おそらく蒼もそうだろう。我々が教室の後方に座っているのもそれが理由だ。美術を担当する教師であり美術部の顧問でもあるその人から少しでも離れたいのだ。
ザカザカと鉛筆を走らせては何度も消して修正する真夏と、鉛筆を持ったまま固まるナズナ。どちらも進み具合は同じだ。真夏は考えながら描き、ナズナは考えてから描くタイプで、蒼はナズナとほぼ同じだが資料集などで閃きを探り、香はどちらかと言えば真夏と似た描き方だが、考えがまとまらないうちに描き始める真夏よりはある程度頭の中でまとまってから描くので、結果的に四人のなかで一番早く描き終えるということが多い。
「これだと思う具体的なモチーフがないなら直感だろうな、もう。なにも考えずに描いてみるのが一番かもしれない」
諦めたように言う真夏にナズナはいい加減に相槌をうつ。
「深層心理のあらわれってやつ?」
真夏の鉛筆の音が前に座るナズナの耳にもはっきり届く。描き方が大胆なので自然と音が大きくなるのだ。芯が折れないかいつも心配になる。前回の製作では一時間のうちに二回は鉛筆を削りなおしていた。彼の手元をそっと覗き込んで見ると、本当になにも考えずに描いているのか、真夏の手は止まらない。このままいけば、もしかすると今回は彼が一番に作品を仕上げることになるかもしれない。しかし逆さに見ているせいもあるが、なにを描いているのかわからない。これは珍しいことだ。いつも完成するものは荒っぽくて線が強くて、それでも描いてあるものがなんなのかはひと目ですぐに判断できるのに。
全体の雰囲気はまだ色がないこともあってなんだか仄暗く、あまりポジティブな印象はない。物とも人物とも風景とも違う、あえてはっきりした形が見られないところが、なんだかなにかを隠しているような気にさせられる。この線はあれだろうか、あの形はこういうことだろうか。あれこれ考えて予想してみるがどれもいまいちピンとこない。本人に聞いたところで答えはしないだろう。それでも、ただデタラメに描いているわけではない。すべての線に意味があるはずだ。しかしナズナにはわからない。
まるで西東真夏という人物そのもののようだ。
*
「なんだか、悲しい絵ですね」
遠くから聞こえるかすかなざわめきが包む静寂のなか、不意に背後から聞こえた声にぎょっとする。振り返ると清水彩がナズナの肩越しに壁に貼られた絵を見ていた。いつの間に来たのだろう。
「清水――さん」
「二年生の作品ですよね」
授業で製作した作品は短い間だが美術室や付近の廊下に展示される。モノクロ調で描かれた真夏の絵は、周囲の絵が色とりどりに着色されたカラフルなものが多いだけにひときわ目を惹いた。目立つのがあまり得意でないはずの彼にとっては大失態だ。それもいい目立ち方ではなく、完全に悪目立ちだ。
「ナズナ先輩の絵はどれですか?」
「……そっち」
はぐらかしたところで作品についているタグを見れば名前が書いてあるので意味がない。正直に教えると彩はそちらを見て、わあ、と歓声をあげた。
「とっても綺麗ですね。私、あまり絵が得意じゃないので、こんな風に描ける人って尊敬します」
「おおげさだよ。蒼……私の兄と似たり寄ったりだし」
「それでもすごいです。絵を描くのが得意なんですね」
視線を横に流すとやはり目に入ってくる、奇妙な存在感がある一枚の絵。ナズナの視線は再びそこで止まった。それにつられてか、彩もまた黒ずんだ画用紙に目を向ける。
「……真夏の絵だよ、これ」
「先輩の?」
「あいつ自身はなにも考えずに描いたらしいから、別にどういうモチーフがあるとか、そういうのはないみたいだけど」
悲しい絵に見えるのかと聞こうと思っていただけなのが遠回しな言い方になる。しかし彩は裏に埋もれた言葉の真意をくみ取ったらしい。聡い女だ。
「具体的にどこがどう、っていうわけじゃないんですけど、なんか、悲しいような感じがしません?」
「さあ、私にはわからない」
「私も……わかりません」
「なにそれ」
「お題は夢……その『夢』って、この絵にとってどういう意味なんでしょうか」
「さあね。それは解釈した本人に聞いてみないと」
「『夢』という言葉自体はとても前向きで明るいものだと思います。でもこの絵は――白と黒しかないのが大きな理由でしょうけれど、真っ暗でさびしい、なにか、自分だけが取り残されたような……不安な気持ちになってきます」
不安。
それがこの仄暗い印象の正体か。
「不安になるようなこと、誰かを不安にするようなことなんて、あいつには……」
「本当に?」
「……ない」
だって、なにかあれば自分から言うはずだ。あの男はバカみたいに正直で、実際にバカで、嘘を吐かないことだけが唯一の特技のようなものなのだ。なにも溜め込むことのなさそうな能天気さが取り柄のようなものなのだ。
「そう思っているのは先輩だけかもしれませんよ」
なにがわかるんだよ。
「なにが――言いたいの」
私にあいつの。
いったいなにが。
ナズナが問いかけるも彩は黙ってこちらを見つめるばかりだ。その真意はまるで読み取れない。別に真夏のことで彼女の意見にどうこう言うつもりはなかった。ただその考えがわからないのだ。いや彼女に限った話ではない。他人の考えていることなどわかるはずがないのだ。わかったような気になっているだけだ。心が焦る。
「なんか言いなよ」
「ナズナ」
はっとして振り返った。階段の踊り場から香がこちらを覗いている。
「ここにいたんだ。千秋と蒼、もう先に帰っちゃったよ」
「香」
「あ、そういえば真夏もナズナを捜してたっけな。まだ教室にいると思うけど……」
「いい。あとで連絡する」
「そっか。それじゃあ行こうか」
「清水さ――」
彩を振り返るが、そこには既に誰もいない。香が来たのでどこかに行ってしまったのだろうか。気を利かせたつもりかもしれないが、なにも言わずいつの間にか姿を消すなど。そういうところは真夏と同じだ。彼もよく勝手にいなくなる。
「どうかした?」
「……別に。帰ろう」