6「陽当たり」
四時間目の授業中。ハサミを使った際に誤って指まで切ってしまい、急遽授業を抜けて保健室へ向かうことになった。消しゴムの厚紙を切ろうとしたのだ。絆創膏は持っていたが、血が出ているので消毒したほうがいいとすすめられるがままに教室を出た。
講義の声だけが響く廊下を抜け、中館一階の保健室に到着する。扉は開いたままだが校医は留守だった。気温が徐々に夏へと近づきつつもまだ冷房の入らないこの季節には、風通しを良くするために窓だけでなく扉も開放している部屋が多い。周囲が静かなためか、この静寂を乱してはならないと無意識に足音をひそめて入室する。奥のベッドに生徒が仰向けになって寝ているのが見えた。意外にもそれは真夏だった。
体操服で長袖を着込んだまま額に氷水の入った袋を乗せている。その姿ですぐに三時間目の体育を思い出した。授業が終わり皆が着替えに戻るなか、彼は一人、なぜか木陰から動こうとしなかったのだ。夏目が声をかけるとただ先に行けと言うのでナズナもそれに従ったのだが、おそらくあのとき、既に熱に当てられたのだろう。
なんだか腹の底がモヤモヤする。いつもはなんでもかんでも、言わなくてもいいようなことまで包み隠さず喋り通すくせに、なぜこういうときはなにも言わないのか。言ってくれればいくらナズナとて、保健室まで肩を貸すなり水を持ってくるなりしてやったのに。
真夏は規則正しく寝息をたて、どうやらただ横になって休んでいるのではなく本当に眠っているらしかった。足音をたてずに近くまで寄ってみると、なるほど顔色が悪い。寝ているのではなく気を失っている可能性が頭をよぎるも、それなら校医が傍を離れるはずもないので、これは本当にただ眠っているのだろう。彼は普段から寝不足がちで、教室でもよく居眠りしている姿を見かける。
少し休むだけのつもりが寝入ってしまったといったところか。相変わらず目の下の隈は濃い。なにをどうすればそんな立派な隈ができるのか。しかし目を閉じているとなおのこと、くっきりとした二重瞼や睫毛の濃く長いのも、よりはっきりわかった。やはり目元の印象は強い。
真夏はかっこいいほうだ――という千秋の言葉を思い出す。たしかに顔だけで言えば悪くはないはずだ。黙ってさえいれば、わかる人にはわかるような顔立ちだと思う。異性の間で噂になるほどのものではなくとも、なにもせずじっとしていれば、好きな人は好きなのだろう。顔だけで言うなら少なくとも批判の対象にはならない。
強い風が吹き、窓辺のカーテンがぱさりと音を立てて揺れた。その瞬間に真夏の目が開きこちらを見たのでぎょっとする。まさか今の音で目が覚めたわけではないだろう。かといって長く直立不動であったナズナの気配を察して目を開けたというわけでもあるまい。
「……起こした? 起きてた?」
念のため尋ねるが真夏は首を横に振り、窓のほうを見る。
「いや……なんか音しなかった?」
「カーテン?」
「たぶん」
真夏は起き上がるような動作をしたが、肩を軽く浮かせたところで止まって再び体を横たえた。目線はナズナの指で止まっている。
「怪我?」
「ああ、うん、ハサミでちょっと……」
真夏は左手で額の氷袋を押さえ、頭を浮かせてあちこち指差しながら説明する。
「消毒液はそこの戸棚、透明の瓶な。絆創膏もそこ。それからそっちの机の上、そこの紙に名前とクラスと症状、使った備品を記入して」
「詳しいじゃん。だてに保健委員やってないね」
「まあな」
いつもより静かなのが体調のせいか寝起きだからかは知らないが、うるさくないのは好都合だ。先に利用報告票に記入しておこうと机上のボードを手に取った。ナズナが書き込む前には当然だが真夏の分の記入もあり、やはり熱中症らしい。それを手本に用紙の記入欄を埋めていたのだが、あるとき気が付く。
「ねえ、これ真夏の字?」
「違う。体育のヤマナカ」
「なんで?」
「ヤマナカに連れてこられたから」
「はあ」
戸棚を開けて消毒液の確認をするが、違いの分からない数種類の薬品がずらりと並んでいた。
「消毒液どれ」
「ラベルに書いてないか?」
がしゃ、と音がしたので振り返ると、真夏が起き上がってベッドを這い出るところだった。氷袋がシーツに落ちた音らしい。靴を足にひっかけてナズナの隣に並ぶ。戸棚から小さな球体のコットンが詰まった透明の瓶と、中の見えない茶色の瓶を取り出して、背後にある椅子を指さした。
「そこ座って」
真夏が透明の瓶――万能壺と呼ばれていた気がする――の蓋を開けると消毒液独特の鼻にツンとくる匂いがした。医療用ピンセットでコットンをひとつ摘み、ナズナの指の傷に押し当てる。ひときわ鋭い痛みの後、じわりと傷口が熱くなった。次に茶色の万能壺から今度は赤褐色のコットンを出した。薬品を塗ったあとの傷は痛くなかったが血濡れのように赤く、なんだか手当ての前よりグロテスクだ。
「それ懐かしいね。赤チンだっけ」
「そう、赤チン。正式名称はマーキュロクロム液。もしくはメルブロミン液」
「は、全然違うんじゃん。赤チンって名前どっから出てきた?」
「赤いヨードチンキの略だ。同じ目的で使われる希ヨードチンキっていう薬があって、それが茶色なのに対して赤い色なことから来てる」
薬を塗った後の傷に絆創膏を巻く。
「結局それってなんの薬?」
「消毒剤。殺菌力は弱いけど持続性があって、化膿止めの効果がある。ただ製造過程で水銀が発生して危険だってんで製造禁止になってるから、俺たちの世代にはあまり縁がないはずの薬だな」
「小学校にはあったけど、中学はどうだったか……もう作られてないってことはそれ、なくなったらおしまい?」
「いや。海外から原料を輸入してて今も販売されてる。だから、たしかに昔より数は減ったけど、これで最後ってわけじゃない」
薬品を戸棚に片付ける背中が質問に答える。医学に通じているのではない。使い道のなさそうな雑学をよく知っているだけだ。
「……そういえば、先生は?」
「事務の仕事を手伝いに行ってるよ。すぐ戻ってくるとは言ってたけど、……まだ戻りそうにないな」
事務室は保健室のすぐ近くだ。出入り口は開けっ放しなので、もしなにかあっても少し大きな声を出せば事務室まで届く。なので真夏は一人で放置されていたのだろう。
「真夏、このあともそのまま寝てんの?」
ベッドに戻った真夏に問うと、真夏は足をベッドに投げ出してうーんと長く唸った。
「動けるようになったら早退したほうがいいって言われてんだよ」
「超動いてたじゃん」
「だよな」
「昼ご飯は? あの後輩の弁当なんでしょ」
「いつもは朝に持ってきてくれるんだけど、今朝はちょっと寝坊したらしくて今日はまだ。向こうもこっちも移動ばかりで会えなかったんだ」
「でも弁当自体は持ってきてんだよね、その子」
「そうだよ、だからどうするか悩んでんの。彩ちゃんは俺がここにいること知らないし、携帯は教室だし」
「……あー、持ってこようか」
「え?」
「いいなら行かないけど。カバン」
「持ってきてくれんの」
「まあ」
手当てが終わった指をくい、と立てて見せる。その動作で発言の意図が伝わったらしいのはさすがと言うべきか、真夏は頷いた。
「うん……じゃあ、頼む」
授業終了の鐘が鳴ったタイミングで保健室をあとにする。先に自分のクラスへ戻って香に事情を話し、教科書とノートを片付けてから彼とともに二組へ向かった。教室の隅、窓際の最後尾。香が蒼に先程ナズナがしたのと同じ説明するが、どうやら真夏が保健室にいることは蒼も夏目も知っているようだ。授業のはじめに体育教師の山中がやってきて、教科担当の教師と話しているのが聞こえたのだという。
机の横に掛けてある学生鞄と、畳んであった制服を持って再び保健室へ戻る。依然として扉は開けっ放しだ。真夏、と声をかけながら入るが保健室にいたのは真夏一人ではなかった。白くきめ細やかな肌、長いまつ毛と大きな瞳。指通りの良さそうな髪は背中に届くくらいの長さだ。体つきはほっそりと華奢で背はナズナと同じか、僅かに高い。
清水彩――件の後輩である。彩はナズナに気付くとぺこりと頭を下げた。ナズナはそちらを気にしながら真夏のもとへ歩み寄る。傍に弁当箱があるので、おそらく彼女はこれを届けに来たのだ。どうやって真夏がここにいることを知ったのかわからないが、おおかたナズナと入れ違いに二組の教室へ行き、夏目か千秋に教えてもらったのだろう。
「真夏、鞄と服」
「おうナズナ、ありがとう」
「生きて家まで辿り着きなよ」
ナズナが話す間に真夏がジャージの上着と中のシャツを脱いだ。
「先生が車で送ってくれるみたいだから心配ねえよ」
「別に心配してないけど」
水泳の授業以外で彼の手首から上の肌を近くで見たのは初めてだ。右肩に大きなひっかき傷のような傷跡が目に入る。たしか小さいころに割れたガラスが刺さってできた傷だと、中学のころに言っていた。人前で肌を出さない男なので着替えるところも見せないと思っていたナズナとしては、彼の行動が少し意外だった。ワイシャツだけの格好を見るのも中学校以来だろう。今や夏になればシャツの上からセーターを着込んで登校する真夏だが、中学時代はセーターもカーディガンもなかったので、夏になれば彼もワイシャツだけの薄着だった。あのころと同じ格好なのになぜかとても物珍しい光景に感じてしまう。
シャツのボタンをいつも通り一番上まできっちり留めたあと、真夏は素早くブレザーに腕を通して薄着姿を封印した。ズボンはまだジャージのままなのでおかしな格好だ。ふと隣を見ると、例の後輩は落ち着かない様子で真夏に背を向け、壁に貼ってある煙草と肺のなにも面白くないポスターを見ていた。そういえば慌てて後ろを振り返っていた気がする。
「……ああ、後ろ向いてたほうがいい?」
彼女にならってポスターを見る。男の裸は蒼で見慣れてしまっているので見たところでどうとも思わないが、真夏とて他人に見られていては着替えづらいかもしれない。本当に気にしている人はなにも言わずいきなり脱いだりしないが。
「見たけりゃ見ててもいいよ。好きなだけ」
「バカか」
真夏はいつの間にか着替えを終え、雑に畳んだ体操服を制服と一緒に持って来ていたナップサックに押し込んでいた。ナズナはそれを受け取り、清水彩の横を通り過ぎて保健室を出て行く。ナズナ自身に長居の理由がないことと、彩がまだ残っているのは真夏と話すことがあるからだろうと気を遣ってのことだった。
「お前が死ななきゃまた明日」
「おう、がんばってどうにか生き延びるわ」
扉の前で思い出したように立ち止まり、最後に軽口を叩いてからナズナは二組の教室へ引き返した。




