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5「誤解」

ナズナが夏目と二人きりで話をするのはあまり珍しいことではなかった。二人でいったいなんの話をしているのかというと、ずばりそのほとんどは夏目からの相談事である。一言に相談と言ってもいろいろあるが、それらの実に九割がネガティブな内容なのだった。


この夏目はなにかと白黒つけづらいことで一人悶々と頭を満たすことに耽る癖があり、考えては悩み、悩んでは迷い、迷ってはまた考え、考えては悩む。しまいには以前答えが出たことにすらも再び思考を巡らせ、とにかくうじうじと無駄に時間を食いつぶすのが大の得意だ。別に悩むのが悪いというわけではないが、いつまでも物事に決心をつけられず、臆病なだけでなく粘着質で女々しい性格だと思う。


普段のメンバーで一箇所に集っているときにもその性質は見え隠れしており、彼は他人を怒らせまい、嫌われまいと必死になって生きている。こちらが少し声を荒げただけでもすぐに謝罪し、他人の顔色をうかがってばかりでいつも腰が低い。誰に対してもそうである。頼まれたら断れないのもその性質ゆえのことで、優しいというよりお人好しで、誰にでもいい顔をする主体性のない八方美人だ。自己主張に乏しくいつも周りに合わせて、そうしないと周りの人が皆離れて行くと思っているのだ。非常に弱い。世の中には高所恐怖症や閉所恐怖症などの、ありとあらゆる恐怖症が存在するが、彼の場合は嫌われ恐怖症だろう。


彼は友情の決壊をなによりも恐れている。


校舎二階の渡り廊下で駐輪場を見下ろしながらの対話はもうこれで何度目になるだろうか。彼がナズナに本心を打ち明けるようになったのは中学二年のころからだ。最初は成績や進路などの取り留めのない雑談だったのが、次第に心のうちに抱えていた悩みや不安などを少しずつ口にするようになり、いつのまにか夏目の告白にナズナが適当な相槌を打つ相談窓口と化したのだった。


悩みというのも、はっきりとこういうことがあって悩んでいる――と言うこともあれば、なにに悩んでいるのかわからないが、なにか漠然とした不安感があるのだという非常にぼんやりしたものも多い。自分がなにで悩んでいるのか、その肝心な部分が不明瞭でも彼はいつも悩んでいる。彼は彼なりに苦労していることはわかるが、ナズナとしてはいったいなにをそこまで悩むことがあるのか、なぜ彼の心が常に不安な状態に陥っているのかが理解できない。とりあえず話を聞いてやりさえすれば一時的でも気が紛れて心が軽くなるようなので付き合っているが、正直、ナズナも夏目の扱いに悩んでいる。どう接すればいいかわからないのだ。


繊細で、後ろ向きで、他人からの視線に過敏に反応する。めんどくさい男だと言えばそれまでだが、ナズナがそう言って彼を突き放さないのはきっと、この関係に大きな不満はないからだろう。なにに悩んでいるのかもはっきりしていないくせに、どうすればいいなどと尋ねてくるこの友人が、自分を頼って必要としていることが。優越感とでもいうのだろうか。もしかすると、くだらないことに悩んでばかりの弱い心を持った彼を、心のどこかで見下しているのかもしれない。だとすればとんでもないクズだ。


いやしかし、それは違う。たしかに彼はどうしようもない小心者だが、だからといってナズナは彼が劣っているとは思わない。夏目は運動が得意で勉強もできる。臆病で真面目な性格だが、楽しいことがあれば適度に羽目を外して愉快そうに笑っている。ただ少し神経質で些細なことでも気に病みやすいだけの、そんな彼を見下す理由はない。そもそも人間なら誰しもどこかしら弱い部分があって、彼の場合はそれが普段の生活態度などに顕著に現れてしまっているだけだ。彼が弱いならナズナだって弱い。だとすれば――。


「どうすればいいかな」


「どうすればいいって、なにに対して言ってんの」


「それは……だからその、なんかさ、うまく言えないんだけど、俺ってこのままでいいのかなって、ときどき思うことがあって。ナズナにはない? そういうこと」


「自分を変えたいってこと?」


「そんなかっこつけたことじゃないけど……」


はっきりしてほしい。


「夏目はどんなふうになりたいわけ?」


ナズナが尋ねる。夏目はなぜか虚を衝かれたようにぽかんとして、はっと気が付くと腕組みをする。そのまま下を向いたり上を向いたりしながら絞るような声で小さく唸り、ようやくこちらを向き直って気まずそうに答えた。


「ま、真夏」


「は?」


「真夏、みたいな……こう、なんていうか」


「お前あんなの目指してんの?」


「め、目指すとかじゃなくて。ほら、真夏のああいうさ、思い切りのよさとか度胸とか、なんだかんだ頼り甲斐あったり、さりげなく優しかったりとか」


ああ、まただ。


彼もまた、あの男が優しく頼りになるという錯覚にとらわれている。そんなに頼りになるのなら、いっそのこと悩み相談もナズナでなく、真夏にすればいいのだ。


「あいつみたいになったところで、良いことなんてないと思うけど?」


「ま、真夏みたいな、っていうのは例えだよ。身近な人で例えるとってこと。俺ってこんなだから……もっと精神的に強くなりたいっていうか。あいつみたいになりたいんじゃなくて……だって真夏って」


怖いし――か細い声で夏目は呟く。そう、以前にも聞かされたことだ。彼は真夏の他人への執着心が薄いことを怖いと言う。いつ自分たちの前から姿を消すかわからないからだ。それは彼が恐れている友情の決壊そのものである。なんの理由も前触れもなく訪れるかもしれない関係の崩壊が、夏目に恐怖を与えている。彼が真夏に相談しない理由もそこにあるのだろう。だが、真夏のことについてはもう自己解決がなされたと夏目自身が言っていたはずだ。それに真夏は十分、他人に対する執着心を持っているとナズナは感じている。


夏目は真夏のようになりたいのではなく、夏目がなりたいと思う理想の人格の要素のいくつかを真夏が持っているというだけだ。だから彼は真夏の名前を出した。


「まあ――意味はわかったけど、当分は無理じゃない? 自分の悪いところとか、そんなにすぐ変えられるんなら世話ないよ」


「無理……かな」


「今すぐには無理。でもこれからどうするかによるでしょ。自分自身のことなんだから、変われるかどうかなんて自分次第じゃんか。夏目が変わろうと努力すれば、時間はかかっても変わっていける。っていうかそうなってるもんだよ。たぶん」


これが優越感でないのだとすれば、きっと――ナズナは嬉しいのかもしれない。役に立てているのかはわからなくとも、自分が誰かに頼られて必要とされていることが。おそらくナズナ本人はそのことに気が付いていないが。


予鈴が鳴ったので教室へ戻ろうとしたとき、夏目がナズナを呼び止めた。


「ま、また……相談してもいい?」


優越感。喜び。どちらであろうと関係ない。なぜなら、毎回別れの際にかけられるこの言葉に対するナズナの答えは、いつも変わらないからだ。


「好きにすれば」



*



雲ひとつない快晴だった天候が下り坂になりはじめたのは昼休みの少し前からだ。帰るころになると空は鉛のように重く暗い色へと変わり、雨がアスファルトをいっそう黒く塗り替えた。突然の悪天候に帰宅を阻まれたナズナは、生徒玄関でただ呆然と当分訪れそうもない止み間を待つ。十五分ほど無意味な時間をすごし、いっそ家まで走って帰ろうかと外へ踏み出しそうになったとき。


「ナズナ、傘ねえの?」


振り向くと、屋根のある玄関で既に傘をさしている真夏がいる。ナズナは雨降る校庭をちらりと見、小さく頷いた。


「香は?」


「先生に呼ばれて、少し遅れるから先に帰れって」


「なんだあいつ、なにかやったのかよ。酒? 煙草?」


「バカが。委員会のことだよ」


「ああそう」


真夏はそのままナズナの横を通り過ぎると雨の中に一歩踏み込んだ。ばつばつと雨が傘を叩くノイズが彼の頭上から聞こえる。こちらを振り返いた真夏は当然のように顎で自分の隣を示す。


「入れよ」


ナズナは真夏の傍に歩み寄り、一度だけ躊躇ってからその傘の下に飛び込んだ。雨を弾く音に包まれる。そのまま校庭を出て通学路を辿る途中、大通りの横断歩道を渡り、小道に入ったところで真夏が不意に会話を再開した。


「香は図書委員だったよな」


「私もね」


「香だけ呼ばれたのか」


「そう。各クラスから一人ずつ」


「めんどうな役を押し付けられたもんだ」


「言い方悪いな。香が自分で行くって言ったんだ」


「いいやつだなあ」


「真夏はなんだっけ。委員会」


「保健委員」


「うわ、一番似合わない」


そうして二人で他愛のない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか真夏が帰宅時にいつも曲がっていく分かれ道を通り過ぎていることに気が付いた。ナズナを家まで送るつもりなのだろうか。


「真夏」


「ん?」


「別にうちまで――」


送る必要ないよ――と言おうとしたとき、背後から水を弾く足音が聞こえた。


「ナズナ、まだ帰ってなかったの? もう家に着いてるかと思ったよ」


「あ」


「香。なんだ、もうここまで来てたのか」


「うん。委員会のことで呼ばれてたんだけど、すぐに済んだから」


「……ならもう少し待てばよかった」


香が水色の傘を僅かにこちらへ傾けた。ナズナは考える間もなく、ほぼ反射的にそちらの傘に移ると、真夏に礼を言うべく振り返る。


「じゃあ、真夏――」


そこではじめて、真夏の肩が濡れていることに気が付いた。しかし、真夏はさっと踵を返して傘に身を隠すと、雨の向こうからひらりと手を振った。


「また明日」

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