3「夕刻」
手早く着替えて教室へ戻り、ホームルームが終わると香と並んで廊下に出た。下校時も蒼と千秋を含めた四人でいるのがいつものことだが、もちろん毎日毎日そうだというわけでもない。ホームルームもクラスやその日によって長かったり短かったりするので、クラスが別であれば帰る時間が多少ずれてしまうのも当たり前だろう。二人を待たず、あるいは待たれずに、ナズナと香の二人だけで帰ることも多い。
念のために二組の教室を覗いてみたものの、今日はナズナたちのほうが遅かったようで、蒼と千秋の姿はない。そのまま教室の前を通り過ぎようとしたとき、開けっ放しだった扉から目にも留まらぬ速さで誰かが飛び出してきた。ナズナたちの前に立ち塞がったのは案の定というか当然のごとく、西東真夏だ。真夏は珍しく上着のボタンを外しており、ナズナたちの前で急ブレーキをかけて踏み留まると、いきなり上着の前を掴んだ両手を大きく広げてその内側を見せた。
「バーン!」
「えっ、なにしてんの?」
「変態ごっこ」
中に着ているシャツの第一ボタンが外れていることから、おそらく体操服から着替えていたところなのだろう。彼はいつもボタンはすべて留めている。あっけに取られるナズナの隣で、同じく真夏の奇行に驚いていた香がおもむろに彼の胸元を指さした。
「真夏、ボタン掛け違えてるよ」
「本当だ」
「ダサいね」
「でもナズナはビビってたから俺の勝ちだな」
「は、意味わかんない。なんの勝負?」
「このあと暇? どこかで遊ばない?」
真夏はナズナの言葉を無視して話を変える。ころころと話題が変えてくるのはいつものことなので、それに関しては今さらなんとも思わない。
「僕はちょっと寄るところがあるから」
「なら私もやめとく」
「そ。じゃあ山吹の家行こうっと」
真夏はシャツのボタンを留めなおしながら教室へ戻っていく。山吹というのは真夏の小学校からの幼馴染で、今は他校に通っている山吹和正のことだ。同じ中学の出身なのと真夏という共通の友人がいるので何度か話したことはあるはずだが、ナズナとは友人と呼ぶべきかどうか悩む知り合い程度の間柄である。真夏は日ごろからよく山吹の家に入り浸っているらしい。
そのまま校舎を出ていつもの通学路を歩く。東坂の生徒以外にも帰宅中の中学生がちらほらと確認され、遠くから子供の笑い声が聞こえた。最初はいつもの通りお互いに無言だったが、あるときナズナが口を開く。
「寄るところって?」
さきほどの真夏との会話に出てきた言葉だ。誘いを断るための建前かとも思ったが、香がそんなことをしない人間なのはナズナが一番よく知っている。彼はおとなしく穏やかな性格ではあるが、夏目などとは違って仲の良い相手くらいには思ったことをはっきり口にする。乗り気でなかったのなら正直にそう言ったはずだ。
「ああ、本屋に行きたいんだ。注文していた本が届いたらしくて。……先に帰る?」
「本屋なら一緒に行く」
「なにか予定があったんじゃないの?」
「別にないよ。なんで?」
「いや、真夏の誘いを断っていたから。なにもないなら行ってくればよかったのに」
たしかにそうではあるのだが。
「だって香、行かないんでしょ」
「今日の夕方に受け取りに行くって、お店に言っちゃったからね。ナズナって真夏と遊ぶの初めてじゃないでしょ?」
「うん、でも、あいつはなあ……」
ため息交じりに言うが、その先の言葉が見つからない。予定はなくとも遊ぶ気分ではなかったのだ。それこそ乗り気ではなかったというべきか。
「嫌いとかじゃないんだよね?」
「嫌いではないけどさ、なんていうか」
「二人でいるのは気まずい?」
「別にそうじゃない。二人で会うこと自体は別にあるし……ただ二人だけだとあいつが喋ったときに私が相手しないといけないじゃん。ああ、でもそれがめんどうとか、苦手ってわけでもなくて」
「ああ、たしかに。僕も真夏のこと好きだしおもしろい人だと思うけど、自分が遊んだり話したりするより、他の人と真夏のやりとりを見てるほうが好きかもしれないなあ」
「テレビ見てる感覚に近い。出演はしたくない」
「そうそう、そんな感じ! ……でも、ナズナ、ちゃんと真夏のこと友達だと思ってたんだね」
「え、友……まあ……それがどうしたの」
「いや、成長というか進歩というか。ちょっと、そういうのを感じると思って」
「なにそれ」
「ナズナってあんまり男子と話さないでしょ? 仕方ないとは思ってたけど、男友達って呼べる人ができたんだなって」
「香だって一応、男じゃん」
「そうだけど僕はほら、昔から一緒にいるし。ほとんど身内みたいなものでしょ。それ以外の――たとえば夏目や真夏とは仲良くできてるみたいだからさ、少し安心したよ」
「過保護」
「ごめんごめん」
香がかるく笑って謝る。ナズナは少しむっとしたような顔をしてみせていたが、小さく息を吐いて顔の力を抜いた。
「私は正直、無理だと思ってた。絶対合わないって」
「だろうね。中学のとき、そんな顔してた」
「今でもびっくりだよ、あれを受け入れてるなんて。だってヤバイでしょ、いきなり露出狂の真似とかしてんだよ」
さっきの奇行のことだ。
「はは。まあ、ちょっと驚きはしたけど。でも真夏って普段はああでも、案外いい人なんだよね。いざというとき頼りになるっていうか」
「香、千秋と同じこと言ってる。っていうか、それすごい違和感。その真夏が頼れるいい人みたいな風潮」
「風潮って」
「ただの運任せに自分がやりたいようにめちゃくちゃして、結果それがいい方向に進んだのが過大評価されてるだけだろって思うんだけど」
「ああ……」
「たしかにあの行動力とか思い切りのよさとか、そういう決断力があるところを見てたら、なにかあったときに頼りたい気持ちになるのはわかるけど、それと信用できるかどうかは別だよ。なんの根拠もなく手放しに信じるのは危ない」
「ナズナの言いたいこともわかるけどさ、そう邪険にしてやらないでよ」
「私は別に、ただ……なんか、あいつに黙ってついていくのが癪っていうか」
「ナズナは誰かを頼りについて行くタイプではないしね。皆を引っ張っていくタイプでもないけど」
そう、ナズナはどちらでもない。団体行動が苦手で、集団に加わることを極力避けて通っているからだ。なのでなにがあっても一人で考える。一人で動く。誰かを頼って後ろをついて行くことなど滅多にないというのに、珍しく他人について行こうという相手が真夏など、頼るどころか一人でいるときよりずっと気疲れしそうだ。
「単純に、あいつをそこまで信用してないだけ」
「でも仲は良いでしょ」
嫌いではない。だが好きかと言われるとそれこそ絶対に違う。真夏への印象が良くも悪くもない今の状況は、出会ったときから変わらない。今までの付き合いを思い返して分析しようと頭をひねっても、あの男に対する印象は非常に曖昧で、自分自身でもよくわかっていないからだ。きっとこれからもわからないままだろう。
「まあ、仲良いっていうか、普通に、……それより本屋、行くならはやく行こう」
香の背中を押す。急かされた香はしょうがないとでも言うように、はいはいと笑った。それ以上言及してこないのはおそらく、ナズナの複雑な心境を察したからだ。幼馴染なだけあって彼はナズナをよくわかっている。
「それじゃ、行こうか」