15「宣言」
目が覚めたとき、真っ先に視界に入ったのは白い天井だった。朦朧とした意識がはっきりとしたものへと変わるにつれて、自分のおかれた状況をひとつずつ理解していく。腕に繋がれた点滴の管。額や手足に巻かれた包帯。動こうとすると全身が痛んだ。
ここが病院であることは誰に言われずともわかった。だが、なぜ、自分の身になにがあってこんなところにいるのかはわからなかった。まだ記憶にモヤがかかっているようで、はっきりと思い出せない。視界の外で物音がして、目だけでそちらを見る。ナズナが目を覚ましたことに気付いた看護師があわてた様子で呼びかけながらナズナを覗き込んだ。
目を覚ましてからしばらくは検査だのなんだので忙しかったが、三日もすると少しずつ落ち着いた。いったい、なにが起きてこんな怪我をしたのか。病院に駆けつけた家族から詳しく聞かされた話によると、ある朝、学校に行く途中の交差点で、ナズナは信号無視のトラックに撥ねられたらしい。事故のショックで前後の記憶が抜けてしまうことはよくあるそうだ。とはいえ、必要ならそのうち思い出すだろう。記憶というものは、思い出せなくなることはあっても、それは完全に消えてしまうわけではないのだと――以前、誰かから聞いたことがあるのだ。
外傷はそれほどひどくはないと医師から聞いた。片腕を骨折して、足の骨にもヒビが入っているが、それ以外はちょっとした擦り傷と打撲だけで済んでいる。ただ、どうやら強く頭を打ったしく、事故から四日ほど意識不明のまま眠り続けていたそうだ。検査では異常なしと診断されたものの、まだ不安は残るとも。
自分が事故に遭ったこと、それをよく覚えていないこと自体には、それほど動揺もしなかったのだが、四日も眠り続けたと聞いたときは、さすがに耳を疑った。だが疑ったところでどうにもならないと受け入れた。たしかに長い間ずっと眠っていたような感覚が体に残っている。
……なにか、夢を見ていたような気がするのだ。
「ナズナが気付いたって連絡あったときは安心したよ。無事に目が覚めて本当によかった」
心底安心した顔で夏目が言う。千秋や香もその言葉に頷いた。
「私、突然あんな事故が起きて、ほんと心臓止まっちゃうかと思ったよ」
「おおげさだよ。脳も検査したけど異常なしだって、先生も言ってたし」
ナズナはなだめるが、香は首を横に振った。
「おおげさじゃないよ。それに事故の後遺症とか脳へのダメージって、事故の直後はなんともなくても、しばらく経ってから現れることも多いらしいし。まだまだ油断できないよ」
「それはそうかもしれないけど」
窓際に背をもたせかけて立っていた真夏がからから笑った。
「あのときはもう、千秋は泣きだすわ蒼はぶっ倒れるわで大騒ぎだったんだぜ? お前はお前で意識がないまま四日も眠りこけてるし。なにより頭を打ってたんだ。急に容態が悪化して死んでたかもしれない。それをおおげさって言うのは、ちょっと事態を軽く見すぎだな」
「夏目なんて毎日泣いてたんだよ」
「か、香! それは今言わなくてもいいじゃん!」
「私からすれば寝てただけだし。事故のこともよく覚えてないし」
「記憶っていうのは、忘れることはあっても消えたりはしないもんだ。前にも言ったな? 覚えているかどうかは知らないが」
「……まあ、たしかに、起きてすぐのころよりは、いろいろ思い出したけど」
「よかった、本当によかったあ。ずっと不安だったんだから」
今になって千秋が泣きだすので、ナズナはぎょっとした。蒼があわてふためきながらハンカチを出す。夏目もつられて目を赤くしていた。真夏が窓から背中を離して蒼とともに千秋をあやし、夏目には泣くなと叱咤する。そんな四人を横目に、香がナズナに耳打ちした。
「あんなこと言ってるけど、一番取り乱してたのは真夏なんだよ。毎日病室に様子を見に来てたらしいし、それに目の隈が前より濃くなってるんだ。ろくに寝れてなかったみたい」
「……あれが?」
いまいち信じられないが、たしかによくよく見てみると最後に見たときよりも不健康そうな顔色をしている――気がしないでもない。こころなしか、少しだけ痩せたような。いや、だが、あれがそうまで他人を心配するようには思えない。香が言うからには事実なのだと思うが、想像できないのだ。
千秋が落ち着いてきたらしい。蒼がベッドの横のパイプ椅子に座った。
「まあ、思ったより平気そうで、……うん」
すきま風の如く細い声だ。なにが、うん、なのか。素直に無事でよかったと言えないのだろうか、この片割れは。しかし面と向かって言われてもむず痒いだけなので、これはこれでいいだろう。素直な蒼など気持ち悪いだけだ。
「ナズナはまだしばらく入院することになるけど、今のところ異常がないなら、たぶん、思ってるよりは早く退院できると思うよ」
「……じゃあ、ノートのコピー頼んだよ」
「うん、任せて」
香が小さく微笑む。
――ああ。
その顔を見たとき、ふと、帰ってきたのだ――と感じた。
「ナ、ナズナ?」
夏目と蒼が虚を衝かれたような顔で硬直する。真夏は黙ってこちらから目を逸らし、千秋はなにかをこらえるようにぐっと唇を噛んだ。香はただ優しく、少し困ったように笑っている。ナズナがそっと自分の頬に触れてみると、指先が濡れていた。
涙だ。
「ゆ――」
なぜ?
「夢を、見てたの」
ナズナが涙を流す必要などないはずだ。
今ナズナは生きているし、怖かったわけでもない。混乱もしていない。
「どんな夢だった?」
香が問う。
「月見崎の水族館。みんなで行く夢」
悲しいわけではない。痛いわけでも、苦しいわけでも、つらいわけでもない。おそらく感情など伴っていない。ただただ涙が流れる。ぼろぼろと際限なくこぼれるばかりの熱い液体を、押し戻すように、ふたをするように、空いていた手で目元を抑えた。
「……楽しかった」
声が震える。千秋がナズナを抱きしめた。鼻を鳴らす音が背中のほうから聞こえた。
「月見崎の水族館って……たしか、去年取り壊されたところだよね」
香が思い出したように呟く。それには真夏が反応した。
「……そうなのか?」
「うん、隣町に移転したとかで、建物も古かったし。それで、その跡地に新しいレジャー施設ができるらしくて、今も工事中なんだってさ」
「完全になくなったわけじゃないんだな」
「場所が移っただけだからね」
「ふうん」
三秒ほどの沈黙のあと、真夏が切り出す。
「じゃあ、ナズナの怪我が治ったら行くか。水族館」
夏目が真っ先に頷いた。
「……そうだね、俺は行きたいな。たしか、去年も行こうって話はしてたけど、結局行けないままだったし」
「うん、僕も賛成」
「ほら、千秋、いつまで泣いてんだよ」
真夏が千秋の肩をぽんと叩くと、千秋はナズナからそっと離れた。赤くなった目をこすりながら体を起こして、蒼の手を取る。
「だめ。今ナズナの顔見てると無限に泣けてきちゃう。ちょっと外の空気吸ってくるね」
そう言って二人で病室を出て行くと、直後に夏目が上を向いた。
「あ、ダメだ。千秋が泣いてるところ見てたら、なんか俺まで」
「ったく、情けねえなあ。しっかりしろよ、葬式じゃねえんだからさあ」
「うん……俺なにか、飲み物でも買ってくる」
袖で目を押さえながら、夏目も病室を出て行った。一度に三人が退室したので、急にあたりが静かになった気がする。
「……ナズナ、ごめんね」
香が唐突に謝罪した。
「なにが?」
「事故に遭ったとき、ナズナ、トラックに気付いて引き返そうとしたでしょ。僕が戻れって言ったから」
目の前に広がる巨大な鉄の塊。ブレーキが威嚇するように叫ぶ中、聞こえた二つの声。
あのとき、ナズナは。
「……覚えてないよ」
戻った。
……戻ろうとした。
「ナズナは戻ろうとして、振り返ろうとして立ち止まったんだ。あのまま走り抜けたほうが早かったのに。僕が余計なこと言ったからナズナは」
「別に香のせいじゃないよ。選んだのは私だし。っていうかそんなの、信号無視したトラックが全部悪いんじゃん」
「でも」
「もう済んだことだよ。それに結局、助かったんだから。どうでもいいよ、そんなこと」
「ナズナ……」
「そもそも覚えてないんだって。言ったじゃん。覚えてないのに謝られても困るし」
おそらく、ずっと気にしていたのだろう。香はなにも悪くない。それでも彼は優しいから。目の前で起きた嫌な出来事に、自分はなにも悪くないと開き直れるほど強くはない。だから一緒にいようと思うのだ。
「……ありがとう」
ナズナも香もしばらく黙り込んでいたが、やがて真夏がはっとして顔を上げた。
「夏目、あいつ自販機の場所ちゃんとわかってんのか?」
「え、どうだろう。わかってるから行ったんだと思うけど……」
「泣いて恥ずかしいから逃げたついでだろ、ありゃあ。道迷わないだろうな?」
「僕、見てこようか?」
「いい、いい、俺が行く。お前が行くと余計に……ああ、いや、とりあえず、飲み物はなにがいい?」
「買ってきてくれるの? じゃあ、カフェオレがあったらおねがい。あと、ナズナに紅茶を」
「はいよ、カフェオレと紅茶ね」
「私、財布持ってないけど」
「いいよ。ささやかな祝勝会っつーことで、俺のおごりだ」
「祝勝会って。なにに勝ったのさ」
「さあな、それは各々の解釈に任せるとしよう」
真夏がひらひらと手を振りながら扉の前に立ち、取っ手に手をかける。一瞬、そこで動きを止め、ちらりと半分振り向いてこちらを見ると、彼はわずかに笑った。
「肝が冷えたぞ、ナズナ。よく選んだな」
すう、とスライド式の扉が開き、真夏の姿が閉じる扉の奥へ消えていく。残された部屋に二人、香は扉とナズナを交互に見た。
「真夏となにかあったの?」
「え?」
「いや、真夏が今、僕にはよくわからないこと言ってたから」
「……、……さあ?」
いっそう静かになった病室で、ナズナは少しだけ、声を出さずに笑った。香は始め、きょとんとしていたが、やがて一緒になって笑った。きっと、そうすることに意味はないのだろう。
ジョーカー、と。
夢の中であの男は言った。ナズナは今度こそ見極められたのだろうか。厄介者、あるいは味方。ナズナは咄嗟に後者と捉えたが、彼の言うそれは、いったいどちらの意味だったのだろう。今となってはわからないが、それでも。あのとき、あの瞬間だけは、なにかを掴んだ気がしたのだ。
もし、別の選択をしていたら、ナズナはどうなったのだろう。
考えるだけ無駄だ。あれはただの夢なのだから。現にナズナはここにいる。選んだのは偶然だったのかもしれない。走ったのは気まぐれだったかもしれない。本当はなにも見極めてなどいなくて、ただ運が良かっただけかもしれない。だが、ナズナがそう言ったなら、あれはおそらくこう返すのだろう。運も実力のうちだ、と。
「ナズナ」
「なに?」
「おはよう。……おかえり」
「……うん、ただいま」




