10 「正誤」
学校自体はあまり好きではない。朝は早く起きなければならないし、朝食を食べることすら億劫なら自宅から学校までの距離を歩くのだって面倒だ。つまらない授業も嫌々に体を動かす実技も無駄に体力を消耗するだけ。クラスメイトは騒がしくて忙しない者ばかりで、外にいる間は心安らかにすごせる場所がまるでない。
香や他の友人たちと話している間は気持ちも紛れるが、基本的に学校にいる間は早く帰りたいと思いながら時間が経つのを待っている。ただ一日ここにいるだけで疲れてしまう。退屈だから嫌だというのも理由のひとつだが、ナズナが学校という施設を厭う理由はほかにもあった。
こちらはただ休憩時間に自分の席でぼんやりと休んでいるだけなのに、それはちくちくとナズナの耳を刺す。ふと後ろを向くと、派手な化粧を顔面に張りつけた女子生徒が三人ほど集まっていて、わざとらしく視線を逸らすところだった。一度きつく睨みつけてから正面に向き直り、頬杖をつく。
あのわざとらしい態度が無性にイライラした。なにか言いたいことがあるなら直接言いに来ればいいものを。陰でこそこそとくだらないことを言うばかりで、こちらが気付けば知らんふりをする。態度が曖昧ではっきりしないそのさまが癪に障る。
なにもクラスで孤立しているわけではない。香以外にも話せる相手はいるし、ああいう陰険な人間が数人いるだけで、なにか具体的な嫌がらせをされるわけでもない。ごく一部から妙な態度をとられることがあるだけだ。だが陰口もその行為が本人に知れて、のみならずわざと気付くように振る舞っているなら、それはただの攻撃である。そんなことでナズナの心に少しでも傷をつけられるとでも思っているのだろうか。そうであれば頭が悪いとしか思えない。くだらないし、つまらない。頭になにも詰まっていないバカだ。
そしてナズナのことをこそこそと噂するのは女子生徒だけではなかった。これもごく一部なのだが、ここ数年で男子生徒からも奇妙な目で見られることが増えたのだ。疎ましいことこのうえない。本でも読んで気を静めようと鞄から文庫本を取り出す。もうあと少しで読み終えるのだ。赤と白を基調とした淡い色合いのブックカバーをかぶせており、ナズナはこれが少し気に入っていた。
「志村さん」
ああ、そうやって声をかけられるだけでもストレスだ。そちらを見やると一人の男子がにやにやしながら歩み寄ってきた。髪をわずかに明るい色に染め、制服も着崩している。バカみたいに調子が軽い。いや真実あれはバカなのだろう。よく見ると両耳にひとつずつピアスを着けているようだ。
「なに読んでんの?」
読んでいない、読もうとしていたところだということくらい声をかけるついでに見えていただろう。それを邪魔しているのは誰だ。ナズナが無言でいると男は正面から顔を覗き込んできた。
「なんてタイトル?」
「……関係ないじゃん」
放っておいてくれ、という意味を込めてじっと睨むが怯まない。たしか……なんという名前だったか。一条だか三条だか、そんなような名前だった気がする。とくに意識して覚えているわけでもないのでよく知らない。クラスでも目立っていて非常に明るく、良く言えば人懐こく他人を警戒しない性格の少年だ。ナズナが一番嫌いなタイプである。
いっそ相手にせず本を読み始めてしまおうか。そこまであからさまな態度をとられたら、いくらバカでも自分が快く思われていないことくらい理解するだろう。一度手元に視線を落とすと、その瞬間、視界の外からぱっと現れた手に本を掠め取られた。はっと上を向くとその男子生徒がナズナの本を高く持って笑っている。
「返して」
「じゃあさ、連絡先教えてよ。そしたら返してあげてもいいよ」
返してあげてもいい? お前は何様だ。
「嫌。返して」
「いいじゃん、教えてよ」
「は?」
ああ、イライラする。こちらがおとなしくしていればいい気になって、そうやってナズナの意思を尊重せずに我を通そうとするのだ。ナズナの周りにいるばかな男は昔からいつもこのような方法で気をひこうとしてくる。まったくもっていい迷惑だ。声を荒げないうちに返せばいいものを、ナズナをただのおとなしい女と勘違いしている。かたく拳を握り、男を見据えた。
「三条くん、やめなよ」
しかしナズナが手を出すより先に香が駆けつけ、ナズナを庇う。男子がナズナに絡み、香がその間に入る。一連の流れはこれまで学校生活を送るにあたってうんざりするほど経験してきたが、こういうときに助けてくれるのはいつも香だけだ。大抵の場合は香に水を差された時点で退いていくのだが、三条と呼ばれた男は香を振り返り、なんだよ、とつまらなそうな顔をした。
「藤谷、ずっと思ってたんだけどさあ、お前って志村さんと付き合ってんの?」
唐突な問いに香が怯む。
「え、いや、別に……そんなんじゃ」
「だったら俺が志村さんと仲良くなってもいいじゃん、お前に関係なくね?」
「そういう……僕とナズナがどうとかじゃなくて、物を取って言うこと聞かせるのは間違ってるよ。そんなイジワルする相手と仲良くしたいなんて思うわけないでしょ?」
「は? なにかっこつけてんの」
「ナズナに返しなよ」
香はもともと争いごとが嫌いなうえに相手にあまり強く出られるタイプではないので言い合いも長期戦になると少し弱い。根競べならいざ知らず、力比べになるとなお弱い。正義感があり間違ったことを見過ごさない心の強さはあれど、三条がこのまま粘り続ければ徐々に劣勢になっていくだろう。もちろんこうなればナズナも加勢するが、彼がどれだけしつこい男なのかはまだ知らない。気付けばクラス全員がナズナたちに注目していた。香と三条の間に流れる険悪な空気を心配そうに見守っている。ナズナも二人の動向に注意深く気を張り、じっと目を離さない。しばらくの沈黙のあとに香がまたなにかを言おうと口を開く。
「あのさ――」
「おい三条、なに喧嘩してんだ」
だが、香の言葉は場外から乱入してきた別の声に遮られた。わざわざ確認しなくとも声の正体はわかったが、自然と目はそちらに向いた。香がやや安心したような顔をする。たしかに今この状況で味方が増えるのは心強いだろうが、ナズナはそうは思わなかった。
「真夏……」
「なに、ナズナに絡んでんの」
「西東?」
真夏はクラスメイトたちが巻き込まれまいと警戒して立ち入れずにいたナズナたち三人のエリアまでずかずかと入り込むと、三条の前に立ちはだかった。人見知りのわりにはやけに堂々としている。三条が持っている本を一瞥しただけで状況を理解したらしい真夏は、彼の突然の登場に意識がそちらに逸れていた三条の手からさっと素早くそれを抜き取った。あ、と三条が驚いた声を洩らす。ときどき妙に素早いのだ。
「ヤだわ、ダメよ三条さん、女子いじめちゃ」
「は、別にいじめてねえし」
「いや物取って返さないのはイジりじゃなくてただのイジメ。だめだめ、こいついじめていいの俺だけ」
「なに、……え? まさかお前と志村さんってそーいう関係?」
「別に付き合ってるわけじゃないよ」
「はあ? 意味わかんねえじゃん、なにそれ」
「でも無関係じゃない。だって俺とナズナは友達だし。そもそもこの本は俺が貸した物なので、この子以外にこれを触る権利はありません。ページ折れたり破れたりしたらマジで弁償してもらうかんね。で、お前は? 俺たちが付き合ってるのかどうかばかり気にしてるけど、ナズナと付き合ってないどころか友達ですらないお前はなんなの?」
真夏の言葉に三条が返しに詰まる一秒の隙。効いている証拠だ。目の前に立つのが、その隙を見せてはいけない相手であることを彼は知らない。そうして真夏に余裕を持たせてしまったのは三条の落ち度だ。
「おい西東、急に出てきてなんだよ、てめえ喧嘩売ってんのか?」
「そのセリフこそ俺に喧嘩売ってるように聞こえるけど」
「ち、ちょっと、真夏……」
だんだん雲行きが怪しくなっていく二人を香がたしなめようとするが、真夏は手のひらを立ててそれを制止する。
「俺と喧嘩して困るのはそっちなんじゃないの?」
三条が眉間にしわを寄せる。
「あ? なんのことだよ」
「ヒントそのいち、オンナ」
かぶせ気味に真夏が言う。三条が動きを止める。
「ヒントそのに、先週の水曜日の放課後。ヒントそのさん、中学三年の夏休み明け、体操着」
二秒の間があいたのち、三条の表情が凍りつく。香とナズナは事情がわからず首をかしげる。
「喧嘩しようぜ、俺にめちゃくちゃ恨まれることになるけど」
「は――」
「どうする? 俺はどっちでもいいよ。ああ、ちなみに、あとふたつくらいある」
「お、おい……いや西東、冗談だって! よお、俺ら友達じゃん。昔よく一緒に遊んだの覚えてるだろ? そんなマジになんなよ。本当に殴るわけねえじゃんか、だろ?」
笑顔がぎこちない。引きつった顔でいきなり饒舌になって肩を組んでくる三条に真夏は肩を組み返すと、あはは、と笑った。三条がわずかほっとした表情を見せる。しかし真夏のその笑顔がただの愛想笑いだと、ナズナも香も気付いている。知らないのは愚かなこの男だけである。
「そのとおり、平和にいこうぜ。だって俺、お前に殴られたりしたら一瞬で病院送りだよ。死ぬじゃん」
ぽんぽんと軽く背中を叩き合ってから二人はすっと体を離す。茶番だ。周囲のクラスメイトたちは二人が和やかなスキンシップを見せたのにほっと安堵し、教室内の張りつめた空気が緩和されるのがわかった。
「あ、じゃあ、えっと……じゃあな」
居づらくなったみたいに逃げていく三条を笑顔で見送ったあと、真夏はナズナたちを振り返った。さっきまでのとってつけたよそ行きの笑顔は既に消えている。ナズナの机に取り返した本を置くと、何事もなかったように話を切り出した。
「今度の土曜日に遊びに行こうって、夏目が言ってたぜ」
「切り替え早いな」
ナズナが本を再び鞄にしまう。香が怪訝そうに真夏に尋ねた。
「……真夏って、三条くんと仲良いの?」
「過去形だけどな。小学校が同じだったんだよ。一時期よく遊んでたってだけ」
「仲良かったようには見えなかったけど。なんか数々の弱み握ってんじゃん」
「あいつ隣のクラスの彼女と中学生とで二股かけてんの。それから過去にもまあ、とても大声では言えないようなことをしてたんだよ。あとふたつあるっていうのは……あながち嘘ではないけど、ほとんどハッタリね」
それで――この話はどうでもいいとでも言うように話を戻す。
「どうする?」
「土曜日なら僕は大丈夫だよ、ナズナは?」
「……じゃあ、行く」
「わかった、夏目に伝えておく」
「遊ぶって言っても、どうするの? どこか行くの?」
「それは昼にでも話し合って決めようぜ。あいつ、絶対なんにも考えてないから」
「わかった」
「真夏――」
二人の合意を得たところでその場から去って行こうとした真夏に香が呼びかける。しかし、真夏は足を止めないまま背中越しの挨拶を残し、そこに続く言葉を継がせなかった。
「またあとでな」




