1「春」
高校二年に進級してからひと月が経った五月のころ。学年が上がっても日々の生活はまるで変わり映えがなかった。昨日までと同じ時間に起床し、顔を洗い、髪を整えて、朝食を摂り、諸々の準備のあとに玄関に立つ。すっかり履き慣れたローファはスニーカーのように紐を結ぶ手間がなく、ただ足を突っ込むだけでいいのが楽なので着用を続けているが、硬く窮屈な革靴は動きづらくて本当は少し苦手だ。
本当なら体育の授業だけでなく登下校時も動きやすいスニーカーを履いていたいのが本音だが、高校入学に合わせてこれを買ってくれた母の厚意を踏みにじるのは少々躊躇われた。入学前に一緒に行った靴屋で、実際にそれを履く本人よりも楽しそうに選んでいたのだ。
「ちょっと何してんの。早くしてよ」
やや棘を含んだ言葉の先で、はあ? と不満げな声が返ってきた。まるで自分の声がこだまになって返って来たような感覚だったが、もはや生まれたときから続いている現象なので今さら気に留めることもない。
志村ナズナには蒼という双子の兄がいる。性別が男と女なので二卵性の双子であるのに間違いないが、一卵性の双子と同じように顔も声も性格も似ている兄だ。幼少期、まだ見た目から性別を判断するのがむずかしかったころには、親戚や知人たちからよく間違えられたものだ。成長するにつれて外見に男女の違いが出てきたので今となってはあり得ない間違いだが、兄妹そろって中性的な名前であるため、年に数度しか会わないような親戚などはいまだに名前を間違うことがある。
「別に待ってとか言ってないし」
ネクタイを結びながら姿を現す片割れは自分と同じく棘を含んだ声で言う。真ん中分けの髪は男にしてはわずかばかり長く、目つきは陰鬱で、体もほっそり痩せていて頼りない。全体的に陰気な雰囲気なのだ。だがそれは彼ばかりでなく自分に対しても言えることだ。
「でも待ってやってんじゃん」
「頼んでない」
「うざ。じゃあもう待たない」
「何言ってんの、いつもはお前のほうが遅いくせに」
「遅くないし」
早く行きなさい! 台所からの母の声に追い出されるように外に出る。ぼそぼそとした小競り合いは毎日のことなのだが、別段仲が悪いつもりはなく、しかしそうはいっても仲が良いつもりもなかった。双子として生まれ育ったゆえの、お互いが唯一無二な存在である意識と、双子という少し珍しい構成への執着もそれなりに持ち合わせているし、それはこの片割れにしても同じだろう。かといって、いつも一緒で仲も良くそっくりな双子というような認識をされるのもお互いに嫌っていた。
こうしてすぐに会話が喧嘩のようになっていってしまうのは、向こうがあまりにも人の癪に障る物言いをするから突っかかってしまうのだ――と思ったが、それもお互い様という事実に気付いていないわけではない。競り合う原因はお互いにある。
玄関をくぐって二段だけの階段を下り、そこから狭い庭の真ん中を横断するように伸びる小道を十歩ほど歩くと防犯用の小さな柵の引き戸がある。昔、飼っていた犬が逃げ出さないようにと設けたものだ。その向こう側、敷地を覆う塀に背中を預けてぼんやりしている少年が一人。扉の音に反応してこちらを振り向いた。
髪は清潔に過不足なく整えており、必要以上に飾らない服装や頭髪は見るとどこかほっとする。少年は二人を見るとにこりと愛想のいい笑みを浮かべた。このときに感じる春の陽だまりのような柔らかい雰囲気が彼の特徴だ。
「おはよう。ナズナ、蒼」
藤谷香は蒼とナズナの幼馴染である。もともと自宅が近いこともあり、朝の集団登校が義務づけられていた小学校のころから登下校の際は今でも一緒だ。その日の都合や各々の気分によりバラバラに登校する日も珍しくはないが、なにもなければこうして家の前で香と合流し、もう一人の登校メンバーを迎えに行くのだ。
「蒼、寝ぐせついてるよ」
香が自分の側頭部を撫でると、蒼の手が自分自身の同じ位置を触る。毛先が跳ねているのを手ぐしで無理矢理なでつけて歩き出すが、歩いているうちにまた跳ねあがった。香は静かに笑ったが今度は何も言わない。きっと何度なおしても同じように跳ねてくるだけだろう。
志村家は片並町東部の商業地から近いところにあり、ナズナたちが通う東坂高等学校はここから徒歩で二十分もあれば到着する。近場なので登下校に自転車は使っていない。自宅から数分歩いたところにある十字路に差し掛かったとき、カーブミラーの下には一人の女子生徒が立っているのが見えた。
田辺千秋――彼女も香と同じくナズナや蒼の幼馴染で、蒼の恋人でもある。肩までの短髪と健康的な肌色が活発そうな印象を与える明るい性格の少女だ。彼女の太陽のような暖かい笑顔は蒼なんかの恋人にするにはもったいない。千秋はぱっちりとした丸い目でこちらを見ると右手を大きく振った。
「皆、おはよう!」
こちらに駆け寄る千秋に香がおはよう、とにこやかに返す。太陽のような笑顔と陽だまりのような笑顔が二つ並んでいるのを見ていると、甘い物を食べ過ぎたような気分になるときがある。
挨拶もほどほどに一同は歩き出す。蒼と千秋が前を行き、そのすぐ後ろにナズナと香がつく。これが四人でいるときの基本的な並びだ。まだ時間が早いので他の生徒や小中学生の姿も見えない。始業は八時三十分からだがナズナたちはいつも八時前には学校に着き、一番に教室の鍵を開ける。何か理由があるわけではないが、強いて言うならナズナも蒼も人の多いのが嫌いなので、それを避けるためだ。
車通りの少ない小道を抜けて大通りに出る。歩道橋のある横断歩道を渡ってもう少し歩けば学校だ。四人の会話は他愛のないものばかりで、昨日のドラマがどうとか、今度発売の漫画がどうとか、特に面白みのない話題がほとんどだった。蒼と千秋は漫画やゲームの話でよく盛り上がっているが、香とナズナは漫画もゲームもあまり触れないので話にはついていけない。このメンバーはとても居心地がいいのだが、趣味などの話になると途端に波長が合わなくなるところがある。香とナズナには誰かに語れるほどの趣味がない。
歩行者信号に従って道路を渡る。半分ほどで青信号が点滅し始めたので赤信号に変わる前に小走りで渡り終えると、千秋がセーフ、と言って笑った。ナズナもつられて少し笑いそうになるが、背後からの大きな音にびくりと肩が跳ねた。
鉄製の硬い何かがつぶれたような、ガラス質の物が割れたような、テレビでなら聞いたことのある音だ。反射的に振り返ると、電柱に食い込んだ一台の中型トラックが歪んだボンネットから煙を上げているところだった。
「えっ、な、なに、事故?」
まず千秋がそう言った。ぶすぶすと薄く立ち上る煙を眺めてぼんやりしていたナズナと蒼がはっとする。騒ぎを聞きつけた大人たちがどこからともなく集まってきた。車から降りた運転手がどこかに電話している。四人は顔を見合わせてから早足でその場を去った。
「あれって電柱に突っ込んだの?」
「いや、誰か轢かれたみたい」
蒼の問いに香が答える。香とナズナの陰になって、前を歩いていた二人には現場がよく見えなかったのだ。それからは口数も減り、無言で歩き続けてしばらくしてから見えてくる、すっかり馴染んだ校門を見るとなんだかほっとした。
生徒玄関から本館校舎に入り職員室で教室の鍵を借りる。渡り廊下から西館へ移動し、階段を上がってすぐにあるのが二年一組の教室だ。まだ誰もいない薄暗い教室の扉を開けて蛍光灯のスイッチを入れる。ナズナと香は一組、蒼と千秋は隣の二組の生徒だ。
背負っていた鞄を一度机に置き、中から筆記用具などを取り出して机に仕舞う。閉じられていたカーテンを開いて、窓を開けて換気する。こもった空気が澄んでいく感覚が心地良い。机の横に鞄を掛けてから香のもとへ向かう。ナズナの席は窓際の一番前で、香の席はその二列隣だ。
二言三言声をかけ合い、隣の教室へ向かう。電気はついていないがカーテンが開いているので室内は十分に明るい。天井に設置されている四つの扇風機のうち、なぜか一番手前のものだけが動いていたので、教室に入るついでにスイッチを消した。まだそんな季節ではない。誰がこんなことをしたのかはそこにいる面々を見てすぐにわかった。
窓際の列の一番後ろ。蒼の席の真後ろにあたるそこにいた少年は窓から身を乗り出し、事故防止用の手すりにもたれて外を眺めていた。長くて濃いまつ毛がやや目尻の吊り上がった目を黒く縁取っており、二重まぶたも相まって目元の印象はくっきりとしているが、濃い隈で両目の真下が黒ずんでいるのと、長めの前髪で常に目元に影が落ちているため、折角の目鼻立ちは人相の悪さを助長してしまっている。
「真夏、無意味に扇風機つけるのやめなよ」
西東真夏は眠そうにあくびをしながらこちらを向いた。我々の日常においてなにかおかしなことがあれば、とりあえずこの男の仕業とみておいて間違いない。真夏は中学一年のころに知り合った友人で、そろそろ彼との付き合いも五年目となるはずなのだが、つかみどころがないというか理解に難いというか、非常に扱いづらい男だ。
「ようナズナ、香。どうした? いつもに増して冴えない顔してるぜ」
「余計なお世話だ」
ご挨拶な真夏の台詞にナズナは少しむっとする。千秋が間に入って真夏を諭した。
「もう、真夏。女の子に対して『冴えない顔』は失礼だよ」
「男の子にならいいのか? だってよ、香」
屁理屈だ。
「そういう問題じゃないと思うけど」
「揚げ足取んなカス」
香と蒼が言う。蒼はうんざりしたような顔だが、香はなんだか笑っている。彼にとっては真夏の切り返しが面白いのだろう。あるいはただの呆れ笑いだ。蒼はその表情が彼の常態のようなものなので気にすることはない。
真夏は今のように屁理屈や揚げ足取りで人をからかうのが好きなしょうもない男だが、思ったことはなんでもそのまま口に出す正直者で、言っていることもおおむね間違っていないのがほとんどだ。たとえば気まずい空気のなかでも物怖じせずに周囲の気持ちを代弁したり、相手の間違いを指摘するような場面も多く、彼のそういうところに救われた経験も多いのでなんだか憎めない。が、基本的にはめんどくさい。
そこで急に教室の扉が勢いよく開き、一人の生徒が入ってくる。
「あ、おはよう。もうみんな来てたんだ」
田中夏目。彼もナズナたちの友人で、小学校のころから同じ学校にいたはずなのだが、まともに関わるようになったのは真夏と同じく中学生になってからだ。いつも何かに気を遣ってばかりいる臆病な男である。
「おい夏目、お前もう少し静かに入って来れねえのかよ」
真夏が言う。たしかに彼の言うとおり、朝の静かな空気のなかで夏目が発した扉の音はかなりの騒音に感じられた。ナズナは大きな音が少し苦手なので、その音にやや気が立ちそうになったが真夏の言葉で少しすっとした。夏目は慌てて謝罪する。
「えっ、ご、ごめん。ちょっと強く開け」
「開けたら閉めろ」
「あ、わ、ごめん」
扉を開けたまま教室に入ろうとした夏目に真夏が鋭く言うので、夏目はさらに慌てた様子で浮かせたままの右足を前に出したりひっこめたり、わたわたと妙な動きをする。真夏は細かいところで変にうるさいのだ。彼の妙なところでマナーに厳しい性質は服装にもよく表れており、ブレザーもワイシャツもボタンを上から下まで全部きっちり留めているし、頭髪や服装には一部の違反もない。しかしネクタイをしていないのが惜しい。
「あ、ねえ、学校の近くの交差点にさ、警察とか救急車が来てたんだけど、なにかあったのかな」
無事席についた夏目が真夏の隣の席に移動して言う。それはおそらく、ナズナたちが登校中に見た事故のことだろう。香がああ、と少し気まずそうな声を出した。
「事故だよ。トラックの信号無視――だと思う」
「香も知ってるの?」
「私たち、事故が起きたとき、ちょうどそこにいたんだ」
千秋が説明する。夏目はえっと驚いた声を上げた。
「大丈夫だった? 巻き込まれたりとか」
「巻き込まれてたら今ここにいねえだろ」
真夏がつっこむ。夏目はぐう、と呻いた。たしかにその通りだ。
「誰か轢かれたんだったっけ」
蒼がぼそりと言う。隙間風でも通ったようなか細い声だが彼はいつもこの調子だ。真夏が窓枠から背を離して自分の席に座る。
「ああ、女の子が一人」
瞬間、一同の視線が真夏に集まる。それに気付いた真夏は付け足すように説明した。
「俺も、そのときちょうど近くにいたんだわ」
「大丈夫なのか? その子」
「知らねえよ。人が集まってる横を通ったときに、ちらっと見えただけだし」
我々と真夏が教室に到着した時間差を考えると、彼も事故の直後にあの交差点を通ったのだろう。真夏も夏目も自宅の方向はある程度ナズナたちと同じだ。もしかすると真夏からは前を歩くナズナたちが見えていたかもしれない。声をかけてこなかったのは彼らしい。
「ま、でも他人事じゃないと思うぜ。あと少し遅かったら事故に遭ったのはお前らだったかもしれないし」
「たしかに、そう思うと僕らも危ないところだったね。今になってちょっと怖くなってきたよ」
「気を付けろよな、人生なにが起きるかわかったもんじゃないんだから。ぼんやりしてると撥ねられるぞ」
「どんな無法地帯だよ」