キチキチ ~赤色球体~
ビキ……! という音と共にスマホの画面がひび割れた。
白いカビのような紋様が、漆黒に塗りつぶされた画面に浮かんでいる。
「うっ……うそだろッ!?」
俺は叫びながら思わず立ち上がった。ガタンと椅子が背後に倒れる勢いだったので、教室が水を打ったように静まり返る。
震える手には壊れたスマホ。
内側から何かが膨らんでボディパネルを押し曲げて、画面が割れたのだ。
ようやく親に頼み込んで先月新機種に変えてもらったばかりだというのに、とんだ不良品を掴まされたのか。
「ス、スマホ壊れたぁあああ!?」
怒りをぶちまける。一体どこの国で造ったんだ!?
と、気がつくと2年B組の教室の目線がすべて俺に集まっていた。
「おい藤宮! おま、何騒いでる!?」
数学教師の竹下に野太い声で怒鳴られた。竹下は腕っ節の強いのが自慢の教師で、若い頃の武勇伝を誰も聞いていないのにしゃべる暑苦しい奴だ。今時そういうのは流行らんっつーの。
「す……すんません」
「後で職員室に来いよコラ。そもそも授業中スマホ禁止だろうが」
世渡り上手な俺は、半笑いで頭を下げるとヘナヘナッと力なく椅子を戻し座り込んだ。教室の誰からともなくバカじゃね? 狂った? とクスクス笑いが起こる。
俺はクラスではトップグループと下位グループの中間の立ち居地で常に全方位外交。うまく立ち回っているつもりだ。そう言う意味で「この失態」は高くついたかもしれない。
退屈な中堅県立高校の授業風景。
見飽きた灰色の四角い教室、青いブレザーの制服に女子のエンジ色のスカートはどこか子供じみて見える。
ため息混じりに窓の外を眺める。俺の席は一番後ろから3番目、微妙に主人公席とは違っている。
異変は、ある些細なことがきっかけだった。
教科書を立ててスマホを弄っていると突然、キチキチ……と何かが内側を引っかくような音がしたのだ。
使っていたアプリはごく普通のゲーム。相手の陣地を奪うみたいなものだ。
「ん……?」
手に持ったスマホが僅かに振動している。キチキチ音は断続的に鳴り始め、そして突然先ほどの画面破壊へと至ったのだ。
バッテリーが加熱したりして膨らんだのかな? と思い割れた本体の隙間を覗いてみると、コロコロと、幾つかの赤い玉のようなものが転がり落ちた。
それはゴマ粒ほどの真っ赤な物体で、丸くて水銀のような光沢があった。
電池か電子部品の破片だろうか? 微かに焦げたような、独特のケミカル臭が漂う。
「壊れたの? それ。最悪ー」
「ほんと最悪だぜ。保証利くかな」
隣の席から清水さんが話しかけてきた。机に突っ伏して顔だけをこちらに向けている。
ショートカットでぱっちりとした瞳。朝練命の陸上部女子だ。
制汗剤と汗の混じった香りが、清水さんの存在をいやでも意識させてくれる。
「フジミーさ、放課後、ケータイショップに行く?」
清水さんは俺をフジミーと呼ぶ。ちなみに名は藤宮一だ。
「うーん。行くと思う。……なんで?」
「私もさ、新機種見たかったの」
ごつ、と机に頭を落とす。清水さんは数学と竹下先生が大の苦手らしい。
「んじゃ……一緒に行く?」
「ついにでに私のも買ってよ」
「ねーよ」
「えー?」
清水さんと同じように背を丸めて顔を傾げ、小声で話す。くすくす笑っていると、机に押し付けた心臓が跳ねているのを意識する。
と。
コロコロと赤い玉が、床に転がり落ちた。
「フジミー? なんか落ちた」
「あれ? スマホの部品?」
それはさっきスマホから出てきた何かの破片だ。
――あれ?
違和感。妙な、認識のズレ。
あんなに大きかったっけ?
さっきはゴマ粒ほどだったと思っていたけれど、落ちたものは1センチ程もある玉だった。それはビー玉のように転がって、どこかへいってしまった。
身体を起こすと机の上に残っていた赤い玉が、ビー玉よりも大きく変わっていた。
キチキチ……と小さな音を発しながら。
「なにこれ……キモっ!」
数は1、2、3粒。さっきまでゴマ粒のようだったものが、明らかに膨らみ始めていた。
これが膨らんだから壊れたのだろうか?
だとすればこれは何だ?
バッテリーの中のリチウムなんとか?
疑問が次々に湧き上がる。
「おい、藤宮、放課後職寝室、逃げるんじゃないぞ!」
と竹下が怒鳴った瞬間、終業のベルが鳴り、皆が一斉に立ち上がり教師の声を掻き消した。4時間目の授業が終われば昼食だ。
――ふぅ、やれやれ。
ホッとはしたけれど、あとで職員室には行かなきゃならない最悪だ。もういっそ清水さんとエスケープしちゃうか。
俺は仕方なくカバンからパンを取り出した。窓側の席の特権は、こうして街の景色を眺められることだ。
街はいつもどおりだけれど、何か妙な感じがした。
高いビルの屋上から、カラスの群れが一斉に飛び立つのが見えた。
遠くからサイレンが響き、なにやら騒がしい。
それも一つや二つではない。
最初に騒ぎ始めたのは、いつも元気のいい斉藤のグループだった。手にはそれぞれのスマホ。
「なぁ、ネット繋がらなくね?」
「あれー? 私のもだ」
「限定カードイベントあるのに……あ!? 画面消えた」
教室のあちこちから、同じような悲鳴と怒りと驚きの声があがり始めた。
どうやらネットやスマホの不調が起こりはじめたらしい。
俺はもうスマホが無いのでどうしようもない。清水さんのほうを振り向くと、シャーペンが机で揺れているだけで影も形も無かった。
「清水……さん?」
どうやら、購買にダッシュしたようだ。
「あ! ワンセグなら見える」
「あれ? 全チャンネル緊急速報だけ……?」
サイレンや何かを叫んでいる街宣車のような音が学校の周りから聞こえ始めた。ここは町外れとはいえ車通りも多く東京のベットタウンと呼ばれる街だ。
べつのクラスメイトが テレビつけろ! と叫んだ。教室に備え付けのテレビのスイッチを入れるとニュースが緊迫したアナウンサーの声を流し始めた。
『皆さん、落ち着いて行動してください。身の回りの安全を確保し、移動は徒歩で、各地の避難所に――』
『繰り返します! 赤い球状物体には触れないでください! 繰り返します--』
『――航空機が離陸後に墜落炎上』
『列車の脱線事故が、全国で百以上報告されており――』
どのチャンネルも緊急、臨時、という真っ赤な文字が躍り、全国で列車転覆や交通事故、パイプラインの破裂など、とんでもない事件が起こり始めているようだ。
「列車事故だってよ。この近くじゃない?」
「脱線? 転覆……あれ? なに……全国で、百箇所? え!?」
「ねぇねぇ! フジミー! 購買休み……って何の騒ぎ? ……これ」
清水さんが戻ってきた。手にはペットボトルだけを持って、パンが買えなかったと不満を漏らす。
教室では動揺とざわめきが広がり始めた。
「なんだ……なんだよこれ!?」
その時、視界の隅で何かが見えた気がした。
そこにあるはずの無い、何か。
普段の教室では有り得ない、異物。
真っ赤な球体が、サッカーボールのように膨らんでいた。
「誰ー? このボール置いたの?」
「ボールじゃなくね? てか、なんだこれ」
佐藤と田中がそれを足で転がすが、途中の椅子の下で動かなくなった。次の瞬間、 バキバキ……! と音と立てて椅子がへし折れた。
赤い球体は、サッカーボール大から更に膨らんで、みるみる膨らみ、バランスボール大へと変わりつつあった。
「お、おぃ! なんかおかしくねーか!?」
「やだ!? 怖い!」
――成長してる!?
はっとしてテレビを見ると、揺れるカメラ映像の向こうに、巨大な赤い玉が道路や線路をふさいでいるのが見えた。
ビルが崩れ、崩壊し大勢の人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。カメラが真っ暗になりノイズだけの映像に変わる。
別のチャンネルでは、航空機が内側から風船のように膨らみ爆発、内側から真っ赤な球体がキノコのように顔を出してゆく光景が映しだされた。
高速道路で炎上する車のボンネットが吹き飛び、そこから赤い球体がズンズンと膨らんでは道路をあちこちでふさいでゆく。
そして、壁際に追い詰められた人々が、赤い玉に触れた瞬間、溶けたかのように飲み込まれていった。
「い、いやぁあ!? なにこれ!」
「うそだろ……!」
「マジかよ!?」
「やべーよ! おい! みんな逃げ……」
悲鳴と混乱の叫びと共に誰かが逃げろと言った、その時。
背後でガギガキバキバキと、机や椅子が砕け折れる音が響き渡った。
振り返ると赤い玉が、運動会の「玉ころがし」のようなサイズを超えていた
「うわぁああああああああ!?」
教室ではすでに2メートルを超えるまで成長した赤い球体が三つ出現し、天井の蛍光灯を破壊、一気に暗くなると更に悲鳴が響いた。
「ひ!」「おぃ、た、助け……!」
「つかまれ!」
クラスメイトの西谷とノブオが三つの玉の隙間で押しつぶされるのが見えた。沢田が手を伸ばすが、赤い球体に触れたとたん、引き込まれるように消えた。いや、呑み込まれたと言うべきか。
「う、わぁあああ!?」
俺の悲鳴もろとも、二つの玉に取り込まれるように、目の前で更に三人が押しつぶされた。
「きゃぁあああああ!」
「にに、逃げろおおおおお!」
教室はパニック状態と化した。運よく廊下に逃げ出した者、あるいは巨大化する赤い玉に壁際に追い詰められていく者。クラスメイトたちはそれぞれ逃げ惑った。
俺も逃げなければと駆け出そうとするが、横で呆然とテレビを見上げる清水さんに声をかけた。
「何してんだよ!? 逃げなきゃヤバイだろ清水さん!」
「って、フジミー! どこに逃げるのよ!?」
いつも元気でアホな清水さんが、少しパニックになっているようだ。
「ど、どこって……」
「とりあえず、廊下! あそこから出られる!」
清水さんが指差す先、まだ廊下へ出る隙間はあった。
「触ったら死ぬぞ!」
「だからこうするの!」
制服のスカートのすそをヒラリとさせながら、清水さんは小鹿のように机に飛び乗った。そして上を軽やかに飛び跳ねて、今度はそのまま飛び降りるとそのままスライデングするように廊下へと出た。
「ナイス、てか、まじか……よっ!?」
俺は背後に迫る赤い玉から逃れるように机の上に飛び乗ると、机の上を二歩三歩とジャンプ。そして着地すると地べたを這うようにして廊下へと出た。
廊下では大勢の生徒達が騒ぎながら逃げてゆくが、清水さんが待っていてくれた。
「フジミー!」
「地獄のサスケかよ!?」
俺だって元陸上部。体力には自信がある。
と、隣の教室の壁が吹き飛んで、真っ赤な球体が、生徒や机の混合物を廊下へとぶちまけた。キシキシキシキシと引っかくような音と悲鳴。
成長するときに聞こえるのはキシキシという発泡スチロール同士をすり合わせたような音だ。
俺達はそのまま廊下を全力で走りぬけ、階段を駆け下りた。
背後では次々と教室のドアや壁が破裂し、天井が崩れ落ちてゆく。同じように走って逃げるものの転び、飲まれてゆく女子生徒。
誰もその瞬間、悲鳴を上げない。
振り返ったとき、俺は見た。
人間はあの赤い玉に触れると潰れてしまうのではなく、ゼリーのように取り込まれてしまうのだ。
「う、ぅわぁああああ!?」
悲鳴を上げて思わず加速する。
あれが何なのか、どうなっているかわからない。
ただただこみ上げて来る恐怖で気が狂いそうになりながら、がむしゃらに走る。かろうじて正気を保てているのは、隣に清水さんがいるからだ。
この状況で、俺だけ鼻水とおしっこを漏らしながら逃げるわけにもいかない。
「ま、まって……フジミー!」
「清水さん!?」
「あ、あれ見て!」
ハァハァと僅かに息を乱す清水さんの指差す先に、職員室があった。すべて赤い球体で埋め尽くされていて、ガラス窓が次々と砕けていく。
先生達の姿が見当たらない。生徒達を置いて逃げたのか、あるは飲み込まれてしまったのか。
けれど職員室の前を通り抜ければ玄関で外に出られる。そうすれば、赤い玉が増えていてもまだ逃げ道はあるだろう。
職員室では大音量でテレビが映っていた。映像は乱れているが、アナウンサーが半狂乱で紙を読み上げ続けている。
『赤色球体は指数関数的に増殖――』『人間を吸着、同化……!』『世界各地で同時に観測――』『――自衛隊に出動要請も全ての車両、航空機が機能せず』『原子力発電所で冷却パイプ破損――』
机や壁、建物に車、電車、飛行機。
内側から破裂させ、あるいは押しつぶしながら赤い玉は成長を続けてゆく。
人類には反撃の時間も、対策を講じる時間も、それが何なのかを理解する時間さえも与えられていないかのような、あまりにも急速な「攻撃」に見えた。
皆さん逃げてくださ――と画面はブツリと消えた。
それが世界の終わりだった。
あっけないほど簡単な、終焉。絶望と悲鳴。
世界の終わりがこんな風に来るなんて、誰が予想しただろうか?
「もう、だめだよ……どこにいったってこれじゃぁ」
清水さんが肩を落とす。
「い、いや! 諦めんなよ!? ケータイショップ行くんだろ!」
まぁ、もう無いだろうけれど。
それでも俺は今、それぐらいしか思いつかなかった。
ビキビギギ、と背後から赤色球体が迫ってきた。前方も塞がれつつあるが、俺と清水さんなら走り抜けられる筈だ。
「行こう、学校を出よう!」
「フジミー……」
「絶対、逃げ切れる! 俺達なら走ったって逃げ切れる! コイツら……そんなに早くない」
「うん!」
だが次の瞬間、目の前の天井が崩れた。
「うわぁあ!?」「きゃぁ!」
ズゥウウム! という衝撃と共に赤い球体が目の前に落下、粉塵と瓦礫の破片で前が見えなくなった。少し煙が晴れると、背後から廊下いっぱいに広がる赤い壁が迫っていた。
二人ともコンクリート片や埃で全身が白くなっていた。
ゲホゲホと咳き込みながら立ち上がる。
「清水さん!」
「フジミー、ふさがれたよ……!」
――もうだめか……!
だけど、一つの疑問が浮かんだ。
赤色球体は世界のあちこちに同時に現れた。まるで泡のようにブクブクと。
何故、椅子や壁を壊して、人間だけを飲み込むんだ?
その差は……!
俺はホコリで真っ白になった清水さんを見て、ある可能性を思いついた。
「あそこに隙間がある!」
「でも、赤い玉の隙間だよ!?」
赤い玉同士がぶつかり合って出来た三角形のトンネルが見えた。その先は、、学校の外だ。
「俺が行く。ついてきて!」
「だ、ダメだよ! 飲み込まれちゃう!」
「どのみち潰される。俺の考えが正しければ……今なら」
俺は砂だらけの手で清水さんの手を握った。
「うん!」
このまま死んでも、もう良いというぐらい強く。
身をかがめ、狭い三角形の赤いトンネルを通る。肩や背中が触れる。けれど……飲み込まれたりはしなかった。
「うそ! 出られた!」
「やっぱり!」
そのままトンネルを抜け出して、玄関に向けて走る。
今度は目の前に赤い玉がゴロゴロと転がり行く手を阻む、俺は走る勢いそのままにとび蹴りをくらわした。
ゴッ! という鈍い感触と共に、赤い球体がビリヤードの玉のように廊下を転がってゆく。
「な、なんで!?」
清水さんが驚きの声を上げる。
「俺達は今、無機物の、砂とか、コンクリートとかそういうものに包まれているから」
「……!」
人間や動植物、つまり有機物と触れれば取り込んで、それ以外は弾き押しつぶす。
単純なルールで赤い玉は増殖しているのだ。
俺は清水さんの手を握ったまま校庭へと躍り出た。
流石に二人とも息が上がっている。
振り返ると、窓という窓が割れ、赤い物体が今にも噴出しそうに校舎を内側から膨らませている。
離れないと危険だ。
もちろん街中大パニックで大勢の人が死んだのだろう。もうサイレンも悲鳴も聞こえないけれど、あちこちから爆発音や、何かが砕ける音が聞こえてくる。街のいたるところから赤い玉が膨らみつつあった。
けれど、きっと生き残る方法を見つけた人たちがいるはずだ。
「行こう、清水さん!」
「ケータイショップ?」
「新機種あるといいな!?」
ホコリだらけの顔で白い歯だけが輝いて、俺も負けじと微笑み返す。
世界が終わって行くというのに、空は抜けるように青い。
俺は清水さんの手をしっかりと握ると再び駆け出した。崩壊する校舎を振り返ることもなく、ただひたすら全力で。
――Fin