夢の中で見る夢の記憶・中
水に沈んでいるようだ、と思う。
目を見開いているのに目の前の景色は水面の向こう側のように輪郭を捉えられず、酷く遠いところで知っている筈の声がしている。気泡の音がしないのが不思議なくらいだ。
或いは、分厚い膜越しでの交流。何にせよ、どれ一つとして満足に捉えられない。
私に向かって話をしているのは、恐らくテレジア伯爵だろうか。ユグフェナの顛末についてを訥々と、しかし憤りを隠せないといったた声で語っていた。
どこか茫洋とした気分でそれを耳に入れはするけれど、どうにも私の心は無感動だ。珍しく伯爵が憤っていてさえ、どうして憤るような事があるのかと思う程に。浮き沈みを繰り返すだけの微睡みに、夢と現実の境界もあやふやに蕩けている。
……いや。そうではなかった。この時の私は、目を覚ましていえさえずっと夢の中にいた。水面の向こう側まで浮いて初めて、それが現実だったのだ。
眠りの泥濘世界へと落ち込んでいく。
暗黒の中を何処までも毒々しく、美しい色合いが折り重なっている。
ここが私の視覚化した精神内部なのだとすれば、随分と寒々しいものだと思う。言葉を尽くして尚形容できない程に複雑に絡み合い、捻れ合う光景は、それでも酷く空虚に沈んでいる。
夢の世界に浸るほど、不思議な事に私の心は感情に対して鋭敏さを取り戻す。眠りから浮上している間のほうが寝ている時のように心が萎びていた。
どこからともなく記憶を写し出す泡沫が現れ、蠢く。今度は何を見せられるのか。どうせ抵抗の手段を持たない私は、大人しくそれを眺めるしかないのだ。
それは、随分と古い記憶だった。今の私よりも少しだけ年上といった頃か。
幼い女の目の前で、やはり幼い女の妹が苦しそうに藻掻いている。女は恐怖しながらその光景を見ていた。
女とその妹は、川の浅い所で遊んでいた。家族全員でのピクニックの日だった。
水を派手に跳ねさせて暴れる妹に気づき、父と母が駆け寄ってくる。父は妹の口に指をねじ込んで無理矢理に嘔吐させ、母は救急車を呼んだ。
妹は水辺に生えていた毒芹の葉を誤飲していた。水に欠け落ちた葉の先を、水と共に飲み込んだらしかった。
色濃い記憶だ。生まれ変わった時点で既に色褪せ始めた前世の記憶の中、数少ないはっきりと思い出せるものの一つがこれだった。
私はこの記憶を利用して家族を毒殺した。
ほんの小さな一欠片が入り込んだだけで妹を殺しかけたあの葉。それを、何枚も何枚もスープの中へと千切り入れたあの瞬間は、今でも鮮明に刻まれている記憶だった。
褪せた泡沫は繰り返し繰り返し、私の感情になど構いもせずに浮かび上がっては霧散する。
(へえ……こんなゲームがあったのか)
女はテレビ画面に向かってコントローラーを握っていた。
画面の中では丁度良いくらいにデフォルメされた3DCGのキャラクターが、西洋の宮殿のような場所を上品に移動している。背面ばかりが映し出されるのその少女は、このゲームの主人公だ。
──そこの通路を右に曲がれば、王太子が居る筈だよ。
女の隣では、女の妹があれこれとゲームの攻略情報を口にしている。
女は明かされていないストーリーや設定を聞かされても特に頓着する性格でもなかったので、女の妹はとにかくよく喋っていた。
或いはそれは、刻一刻と死に近づく姉との会話の時間を、増やそうとしていたのかもしれない。
──王太子に聞けば、総帥の孫の位置が分かるようになるよ。王太子との会話は出来なくなるけど。
画面の中に、金髪の少年が映り込んだ。これが王太子、らしい。
近付いて話し掛けるコマンドを選択するとふいに画面が暗くなり、下の方に吹き出しが、左の方に王太子のキャラの絵が展開する。キャラクター同士の会話画面だ。
『やあ、エミリア。どうしたの?』
台詞の表示に合わせて、男性声優のわざとらしい声が流れてくる。
女は眉根を寄せて設定画面を呼び出すと、キャラクターボイスの設定をOFFへと切り替えてしまった。
──あ、ちょっと。
隣の妹が抗議の声を上げるが、女は無視した。
媚びるようなそれは、女にとって聞いていてあまり気分の良い声の表現ではなかった。
一際大きな泡だった。見たくない、と思った記憶の続きだった。
それなのに、目が逸らせない。聞き流すことも、見たものをすぐに忘却へと追いやる事も出来なかった。
酷く心が騒ぐ。
見たくないと抗えども、指一本自由に動かす事も出来ない。苦しささえ感じるのに、今度は浮上する事すら許されないらしい。
BGMが切り替わって、どこか攻撃的なものへと変質した。
派手なドレスの裾が写される演出を挟んで、目付きのきつい黒髪の少女が登場する。これまでに登場したどのキャラクターとも一線を隔したデザインをされていた。
──あ、エリザだ。
妹のポツリと零した呟きで、女はそのキャラクターが主人公達の敵である少女である事を確信した。
頭の中でノイズが鳴っている。
既に霧散してしまった、その短い記憶を写しだした泡沫の名残を、私は凝視していた。
ただ眺めるに留まることなど、こればかりは出来なかった。そこに映し出されていたのは『私』だったのだから。
登場した瞬間から、主人公の明確な敵として描かれていた。
ともすれば下品なほど絢爛な装いに包まれた、歪みきった邪悪な性格。王太子であろうと、隣国の大公女であろうと意にも介さない不遜さを慇懃無礼の中に覆い隠している。
エリザ・カルディアというキャラクターは、そういう存在だった。