夢の中で見る夢の記憶・上
毒々しくも虚ろで、美しく、気味の悪い世界に一人。曖昧に捻じれ歪み滲むそこは夢の中だろうか。浮き沈みを繰り返しながら、泡のようなそれをただ眺めていた。
記憶と呼べばいいだろうか。否、これは私の生の中に存在するものではない。
記録と呼べばいいだろうか。否、私はこんなものに触れた覚えも一切ない。
褪める泡沫のそれは匂いとなり、音となり、映像となり、肌を撫で、時に味を感じさせる。
懐かしくも、同時に虚無感を覚える感覚だった。いらないと思って捨てた本をもう一度強制的に拾い上げ、読まされるような気分に陥る。
これは私のものではない。そう確信しつつも、それを知る事が出来るのは唯一私だけである事も理解していた。
つまり、これは同時に紛れも無く私のものでもあった。
それを、何と呼び表そう。
──陳腐なもので良ければ、前世、とでも。
それは父母と妹がいて、高度に文明が発達した異世界で生まれ育った普通の女だった。
少しばかり早死にした以外、特筆すべき点を持たないような女だった。
妹のように情熱を傾けられる趣味さえも無く、適度に冷めて、個性に乏しい人間だった。
そしてその事は、周囲の誰にも特に関心を持たれる事の無い、彼女という人間の印象だった。
褪める泡沫は女の記憶の中から、鮮明なものばかりを浮かばせる。つまりは女の死から遡り、それほど古い記憶で無いものだ。感覚は水を通したようにすべてが遠く鈍っていて、追体験というよりはいちいちを新たに記憶するようにして、私は女の人生を眺める。
当たり前だが女は私とは全く別の存在で、女の思考は理解できても、最早一つも同調出来ない。或いはそれは、母や姉妹といった存在への親近感の方が似ているかもしれなかった。
(最近、疲れる事が多くなった……)
女の声が濁り、ぼやけて響く。
彼女は死の少し前、そんな事を考えていた。走るのに疲れるようになったのは、学校生活から運動への取り組みが無くなったからだろうか。では、階段を昇り降りするだけで息切れするのはどうか。これも体力の低下が原因だろうか。
女はその時、そういえばと思い出す。最近はエレベーターやエスカレーターを利用するばかりで、自分の足で歩く事が減った。家から何処かへ出掛けるにも車や電車に乗ってばかりで、家から1㎞も歩いた覚えが無い。
その泡が融けるようにして消え失せると、次の泡が浮かび上がる。
(何かおかしい。私、こんなに体力なかった?)
女はいつの間にか、碌に立ち続ける事すら出来なくなっていた。夜に眠ると息苦しさを覚えて目を覚ますようになり、眩暈を起こす事が多くなった。
手足や顔のむくみが酷いのは、寝不足が原因だろうか?
余りに体調不良が続き、とうとう倒れた回数が五回を超えると、女は学業を休んで親元に戻り、徹底的な生活管理を自己に敷いた。毎日機械のように決まった時間だけ寝起きし、計算された食事を摂って、適度な運動をした。
しかし状況は一向に良くならなかった。それどころか時々胸に痛みを伴う苦しさを感じるようにもなった。
そうしてある夜、女は激しく藻掻くようにして、死んだ。
泡がまるで身を捩じらせるように歪む。女の体験したその苦しみが鈍く私の身を包み、押し潰そうとするのを、どうにかやり過ごすとまた次の泡が浮かんできた。
女は何事にもはっきりとした意見を持つ事が少なかった。
それが難しい物事になるほどその傾向は顕著で、例えば女は好きな料理をいう事は出来ても、知能の高い動物を食べる事に関しては良いとも悪いとも言う事が出来ないような人間だった。
逆に女の妹は意志を明確に表すような人間で、寧ろ曖昧なものを嫌う傾向にあった。
妹は姉の意志の薄弱な部分を不満に感じていて、逆に女は妹の何にでも自分の考えを明確に出来る能力に対して理解する事が出来ずにいた。
映し出したものを現すかのように、泡は輪郭を曖昧にぼかして消えていった。次の泡が浮かぶ。
あなた、最近体調がおかしいようですけれど。大丈夫ですか?
講義中の教室で三度目に倒れた後、とうとう教師との面談に呼び出された。教師は女の酷くむくんだ顔に驚いて、病院での検査を薦めた。
女は掛かり付けの内科で検査を受け、しかしはっきりとした結果が出なかったのか、生活習慣の見直しをするようにと言い渡されただけで終わった。
女は変則的な学生生活の中で、出来る限りの事をしたが、体の変調は進行するばかりだった。
褪めた泡は掻き消える。私はだんだんと、泡を眺めるのに対して心が乾いていくように感じた。お構いなしに次の泡が浮かんできて、仕方なくそれを受け入れる。
実家に戻り日々の生活の計画を立てた女に、女の親は娯楽も何か取り入れるべきだと薦めた。確かに女の計画した予定はあまりにも機械的過ぎていた。
しかし、女には取り入れるべき娯楽をうまく思いつく事が出来ずにいた。女にはこれと言って趣味が無かった。普段は適当にテレビやインターネットを見たり、友人から借りた漫画を読んでみたり、或いは雑誌をめくったりと、脈絡の無い暇つぶしばかりを行っていた。
──ねえこれ、おすすめのゲームなんだけどやってみない?
そんな女を見かねてか、ある日、女の妹がそう声を掛けてきた。
泡の映し出したそれに全身が総毛立つ。その記憶だけはどうしてか、見たくない。酷く気分が悪い。
そう思った瞬間、私は勢いよく浮上した。
褪めた泡も、毒々しい色合いも、全てが急速に色を失って遠ざかっていく。
それでもまだ、夢は醒めない。今度は微睡に包まれて全てを遠くに感じながら、私は私の世界を次に眺める事になった。