四十三話 英雄は逃げ出した
「ウサギ……」
思う存分にケルベロスと戯れたセシルが一言呟いた。
セシルとのコミュニケーションに満足して尻尾を降っていたプラトンは、その言葉にショックを受けたように固まる。尻尾がピンと立って毛が逆立っていた。顔も、口を開いて絶句していたり、下を向いて震えていたり、耳を寝かせてセシルの顔を伺っていたりと、多芸であった。
しばらくセシルの様子を伺った後、反応が返ってこない事を悟る。くるりと身を翻すと、メディエに泣きついてきた。キュンキュン鳴きながら、メディエの足に身を擦り付ける。
「おーう、可愛そうに。遊ぶだけ遊んで、満足したらポイとか。セシルさんったら鬼畜ゥ」
笑いながら、メディエがプラトンを慰める。モフ、と慣れた手つきでプラトン達の首筋をくすぐり、顎を撫でていった。
「人聞きの悪いことを言う。ただ、犬も良いけど、ウサギも良いと、それだけだぞ」
「でも、ウサミミは要らないんだろ?」
「ああ。プラトンを触って分かったが、偽物は偽物だな。手触りが全然違う。プラトンのふわふわは、偽ミミには表現できていないようだ」
「そりゃぁ、まぁ。ミミは耳で装備品だもんな」
いくら外見が可愛くても、しょせんは装備品である。腹のアンダーコートたっぷりの毛とは、ふわふわ具合を比べるのが間違っていた。
セシルは、まだ見ぬウサギに思いをはせていた。
「ふわふわのウサギ……」
「プラトンも十分ふわふわだけどなぁ。テディベアカットとかしてみたい」
テディベアに毛を整えていた犬の写真を思いだして、メディエが呟いた。
しかし、いくらふわふわといえ、大型犬と比べるのが間違っている軽自動車サイズの──しかも頭は三つある──犬の熊カット。セシルは背中に冷たいものを感じて、身を震わせた。
「まだ、ライオンカットの方が良いんじゃないか?」
「そうかなぁ。大きなぬいぐるみって、超カワイイと思うけど」
「大きいにも程があるよ」
「えー? じゃぁ、考えてみろよ。でっかいウサギ」
巨大なウサギを想像しようとして、リアルなウサギを想像できず、セシルは諦めた。
セシルがウサギを好む理由も、持っていた中で一番可愛いぬいぐるみだったという、それだけなのだ。普通サイズの生きたウサギも想像できないのに、大きなウサギを想像するなど、できるわけがなかった。
「もしかして……大きなウサギは可愛いくない?」
「イヤイヤイヤ。可愛いと思うよ! 間違いなく可愛いって」
その言葉によろめいたのはプラトンだった。ゆっくりとメディエの足元にうずくまり、前肢で頭を抱える。アオーンと、切ない声をあげた。
「いじめちゃダメじゃないか」
「え。いや、オレ? 責められるのオレなの?」
プラトンは、つぶらな瞳でメディエを見上げていた。
「あーうん。ごめんごめん。かわいいよープラトンがいちばんかわいいよー」
「くーん」
プラトンは嬉しそうに尻尾を振る。気を取り直したようにメディエにのしかかると、三つの顔でメディエを舐め始めた。
「おう、やめ。同時はダメ──」
ペットに翻弄されるメディエの姿を、セシルは満足するまで見続けていた。
○ ○ ○
(チャンスがない。逃げたい逃げられない。逃げられない──チャンスが、新たな英雄を得るチャンスが。逃げられない、チャンスがない、逃げる。逃げる。逃げなくては──どうやって)
アレフは焦っていた。せっかく町を出て、危険な旅が再開したというのに、道中は安全なものだったのだ。
それもこれも、トルクが勇者を鍛えると宣言したためだった。出てくる魔獣達は、勇者の力の前に倒れてゆく。なぜか行儀良く、順番に一匹ずつ出てくる魔獣は、どう頑張っても勇者の経験値にしかならないのだった。
それが、アレフの焦りと苛立ちを深めているのだ。
(早くしなくては。英雄をもたらさなくては。早く逃げなくては。早く早く早く。逃げる、逃げる逃げて。逃げたい逃げなくては。早く早く逃げる逃げて──)
ぶつぶつ呟きながらヒイロの周囲を窺う。何か来ないかと、何か姿を見せないかと目を皿のようにして──そして、ソレを見つけた。
まるで炎を閉じ込めたような深紅の瞳。口からこぼれ、地面を這う炎。ぬるりとした光沢をもつ鱗と、針のような飾り羽。火蜥蜴といわれる魔獣が、草むらからこちらを伺っているのに気がついたのだ。
火蜥蜴は、魔犬や熊とは比べ物にならないほどに強力な存在だ。これが相手ならば──アレフは目を輝かせて、魔獣の前に身を踊らせた。
出発準備を整えた騎士達は、のんびりとヒイロの様子を見守っていた。神官にも出発の連絡は回っていて、あとはトルクがその気になれば終わりという時だった。
ふらふらしていたアレフが、一人で歩きだした。向かうのは少し離れたところにある茂みだった。
ここにいる間、その周辺はトイレとして使用されていた。そのため、騎士とナルは、アレフからさりげなく視線を外した。他人のそんなところを見るほど、悪趣味ではなかったのだ。
「しかし、英雄殿は心ここにあらずですね。どうしたんでしょうか」
「オマエらが虐めてるから、落ち込んでンじゃねェの? いいかげん、英雄様と仲直りしたらどうよ」
「……言うは易いな。いくら話しかけても、一言も答えない相手に、どう歩み寄れと」
トライアの言葉に、ナルは記憶をたどった。そういえば──と引っかかる事があったのだ。
「そういえば。話しかけたのに返事がなかったことがあったなァ。聞こえなかったのかと思ったンだが──オマエらにもそうなわけ?」
「ええ。当てつけなんでしょうが、やめて欲しいですよね。トライアが喜んで仕方がありません」
「ふん。──悪い感情を溜めるよりは、健全だろう」
「はいはい。言うだけならなんとでも」
トライアとフィオが盛り上がってしまったので、仕方なくナルは周囲に目をやった。
残りの騎士達は──といっても、五人くらいしか残っていないのだが──荷物の前に集まって、話をしている。唇の動きを読んでみると、どうやら次の休憩地点での役割分担について打ち合わせているようだった。
(トライアとフィオは打ち合わせに行かなくていいのか? ンで、神官たちはいつもと一緒か。聖女サマの馬車の前で出発を待っていると)
聖女が一人馬車の中で守られていて、神官達はその周りを取り囲んでいる。
まるで、宝物を守るように。もしくは、聖女を見張るように。
(胸糞ワリィな。あんな子供を一人馬車に閉じ込めて、どうすんだっての。もう少し自由な時間をやっても良いンじゃねぇか)
思えばセクドの町でも、聖女は宿の部屋から出てこなかった。
あの時は聖女は高飛車だから、下々とは混ざりたくないのかとナルは思っていた。だが、ヒイロを助けに走った聖女は、高飛車なところなどない、ただの魔術の苦手な少女だった。と、なると。”聖女”の形を大切に守っているのは神官たちではないのかと、邪推してしまうのも仕方がないことだった。
今の神官達は、聖女の馬車を守って──それこそ蟻一匹も見逃さないほど、神経を尖らせていた。
はぁ、とナルが溜息をついた時だった。
トライアが剣を抜いて、駆けだす。
フィオが懐からナイフを取り出し、アレフへと放った。
「どうし──ちッ!」
どうしたのかと聞きかけて、ナルはアレフだったモノに気がついた。
そこにいたのは、すでに人ではないもの──かつて人であった残渣だけであった。
その場にいたのは火蜥蜴だった。耳まで裂けた口からは、血に染まった歯が見えている。ぽたぽたと滴り落ちる血が、魔獣が今まさに食事を終えた事を示していた。
ゲフ、と火蜥蜴が炎を吐いて、全身を震わせた。
火蜥蜴が体を揺らすと、それに合わせて体が大きくなった。その急激な変化に耐えられなかった茂みが、音を立てて魔獣に潰されていく。
頭を振ると、頭から首への鱗が光り、ずずっと伸びてゆく。鱗の一枚一枚が、まるで棘のように体を覆い尽くし、擦れて音を立てた。
口を開けると、今までの小さく均等に並んだ歯が伸びてゆくのが見えた。まるで肉食獣のような尖がった歯が口の中に並び、そこから赤い舌がちらちらと炎を吐き出していた。
「は? え、英雄サマ?」
「気をしっかり! アレフは──アレに喰われました!」
すぅ──と、火蜥蜴が息を吸い込んで、駆けよってくるトライアに炎を吐き出した。




