二十九話 第一の魔人は一人占めしたい
この町の薬師の作業場だったところを、ミーナはねぐらにしていた。そこは 薬師見習いである彼女にとって、慣れ親しんだ場所である。保管されている薬品の数も多く、ミーナは主のいなくなったそれらを使わせてもらっていた。
そこに、ミーナは勇者を連れて帰ってきたのだった。
本当は、もう少し邪魔者を排除してから、勇者を迎えたかった。けれど、今日がチャンスだったのだ。
何があったのかミーナには分からないが、騎士達は夕方に宿から出て行ってしまった。神官は昼に出ていったまま、ずっと帰って来ない。
その上、勇者が一人で帰ってきて、宿に留まっているという──なんとも理想的なシチュエーションであった。
ミーナはこの誘惑にあがらう事が出来なかった。
そっと宿の中を伺うと、勇者の部屋に流れ込むように薬を送り始めた。
使ったのは、傀儡を造るときの薬だった。だが、ミーナには勇者を人形にするつもりはない。ただ、穏便に宿を出てきてもらおうと考えての事だ。
薬が効き、勇者が出てくるのを待つミーナの心は踊っていた。
(あぁ、勇者様──これから、あたしたちは一緒に……)
ミーナの望みは勇者と共にあること。一つになることだ。今からその願いが叶うのだと、ミーナは微笑む。
しばらくして、宿屋の扉からフラフラと姿を見せた勇者に、ミーナは飛び付いた。
初めて近くで見ることができた勇者は、なんの変哲もない、どこにでもいる少年のようだった。その事にミーナは少しだけ落胆し、しかしそれを越える興奮に心は沸き立った。
「さぁ、勇者様──あたし達のお家に案内しますね。勇者様もきっと気に入ってくださいます」
まるで酔っぱらいのように体を揺らす勇者の腕に、ミーナは自分の腕を絡める。ぎゅっと勇者を抱き込むように体を密着させて、ミーナはゆっくり歩き出した。
ゆっくりと、躓きそうになる勇者を支えながら、月に照らされた道を行く。
抱き締めた体は暖かく、胸を打つ鼓動まで響くかと思うほどの静かな道行きだった。
「勇者様──嬉しいです。あたしは、とっても嬉しい。勇者様もですよね? 勇者様も嬉しいって思ってくれますよね。あぁ──綺麗なお月様! お月様も、あたしと勇者様の将来を祝福してくれてますよ」
雲一つない空には月影が明るく、二人の影を長く、長く引き伸ばしていた。それを追う影があることなど、ミーナは知らない。
ミーナは上機嫌で、勇者を薬師の家に案内した。薬師の家族は早々に排除してある。多少物音がしても不振に思う人はいない──ここはミーナの拠点なのだから。
「勇者様……」
ミーナは、勇者の体を優しく作業台の上に寝かせた。勇者はゆっくりと、ただ促されるままの行動をとり続ける。
「そうですか。勇者様も嬉しいんですね。ふふ──」
そっと、掲げるようにして、勇者の手を取る。愛しげに、何度も撫でて──ミーナはペロリと勇者の指を舐めた。
「あぁ。やっぱり勇者様は甘い──大好き。大好きです、勇者様。だから、あたしと一緒になってください」
ミーナが、準備していた大振りのナイフを手にする。このナイフは獣属の死体を解体する時に使うもので、人の骨もすっぱり斬れる業物だった。
それを、ミーナは勇者に向かって振り上げる。
「愛しています、勇者様。さぁ、あたしと一つに──」
しかし、ミーナの願いは叶わなかった。
「はい、そこまでナ」
勇者の腕をめがけて振り下ろされたナイフは、声とともに飛んできた短剣に阻まれた。
短剣の投手はナルだった。部屋の入り口からミーナを狙って飛ばした短剣が、正確にナイフを持った手に吸い込まれたのだ。
「キ、キャアアァァ──」
痛みと衝撃に、ナイフの軌道がずれる。
ミーナの手からは鮮血が飛び散り、勇者の体を赤に染め上げていった。
「勇者様!」
横たわった勇者を見た聖女が駆け寄ろうとするが、二人を振り帰ったミーナの視線に阻まれる。聖女の口からは、小さな悲鳴が漏れた。
ミーナは手に突き刺さったままの短剣と、こぼれ続ける血を見て「ひどいわ」と呟いた。
「酷いのは誰だってんだ。あぁ?」
「あたしは、ただ勇者様が好きなだけ! 勇者様と一緒になりたいだけなのに──どうして意地悪をするの?」
言葉だけは恋する乙女であるのに、その目に宿るのは、もっと暗くどろどろとした感情であった。
勇者を手にいれたいという独占欲に、少女は突き動かされているのだ。
「勇者様は──勇者様だって、あたしが好きなのよ。あたしと話をしたいと思ってるの。それなのに、いつもいつも、邪魔されて──今日だって、あんたに邪魔されて──勇者様は、本当はあたしとお話をしたいと思ってるのに」
ミーナは夜の闇よりも暗い瞳を聖女に向けた。その視線を正面から見てしまった聖女は、恐怖に体を震わせた。
「で、ですが。だからといって、勇者様をどうしようというのですか。きゃぁ」
「うるさい! この、尻軽! あんたなんか、神殿でジジイ共に腰を振ってるのがお似合いなのよッ。勇者様に手を出さないで!」
「ジジイ……?」
その暴言に、聖女の顔に血が上る。顔を真っ赤にして言い返そうとしたところに、ナルの言葉が被った。
「はッ。胸くそわりぃなァ。なんだぁ? モテない女のヒガミかよ」
「あなたもよッ。勇者様との一時を邪魔して──なんなのよッ、ホモなの?」
「うっせぇなぁ。男二人見たらホモかよ。アホか」
「うるさいッ」
ミーナがナイフを振り上げる。
だが、それを降り下ろすよりも前に、ナルがミーナの首に短刀を突きつけた。
目の前に迫った刃に、ミーナが動きを止める。一瞬で間合いを詰めてきたナルを、ミーナは睨み付けた。
「それ以上動かしたら、腕を落とす」
「……どうしてよ。どうして、あんたなんかが、勇者様の傍にいるの。どうして、あたしじゃないのよ!」
ミーナの脳裏に蘇るのは、あの日──勇者が王都を旅立つ前日の事。勇気を振り絞って勇者に話しかけたところを、この男が遮ったのだった。
それからも、ずっと、勇者に話しかけようとするミーナを、この男が、騎士達が邪魔をしていたのだ。
「そうだなぁ、アンタはずっと勇者に話かけようとしてたっけなァ。あぁ、最初の最初にチャンスを奪ったのはオレか。で?」
「あんたが──あんたが、あたしの居場所を奪ったんでしょう。あんたが居なければ、今頃は、あたしは勇者様と一緒にいられたのよ!」
ミーナがナイフを動かす。
渾身の力を込めて振り下ろされたナイフを、ナルは軽く弾く。空になった手を引っ張ると、伸びきった腕を掴みあげて──ナルはミーナを床に叩きつけた。そのまま、身動きが取れないように押さえつける。
「おーい、聖女様。コレは押さえておくから、ヒイロの事見てきてくれねぇ?」
「あ、は……はい」
ナルの声に促されて、聖女がヒイロの元に走る。
台の上に寝かされたヒイロは、身動きもせず、焦点も合わない。ただ、彼方を見ているだけだった。
聖女はヒイロに話しかけ、体をゆすり、なんとか意識を取り戻させようとしたが、効果はなかった。
「ゆ……るさない、ゆるさない、ゆるさないッ! あたしから勇者様を盗ろうとする人は、皆死んでしまえッ! ──カゼノヤイバッ」
「あぁ? まずい──聖女、避けろ──じゃない。毒薬がくる! カゼノヤイバで身を守れ」
「カ、カゼノヤイバ……」
ミーナの放った風の魔術は、部屋のあちこちに散乱している薬瓶に向かって放たれらものだった。ここは薬師の工房──どれだけの薬があるのか、どれだけの毒薬があるのか。薬毒一体となった塵が、ミーナの魔術によって解放され、空を舞い、部屋いっぱいに広がってゆく。
何がどう反応しているのか、もはや誰にも分からなかった。
その中で、比較的自由に動けたのは、早々に身を守ったナルだった。
ナルは、聖女がどうにか魔術を展開したのを確認すると、ミーナの腕を斬り落とした。
「あ。あ──あああぁぁぁぁ。あたしの手、あたしの腕ぇぇぇぇぇ」
「言ったはずだ。動いたら、腕を落とすってなァ。あぁ──聖女様はこっち見ない方がいいゼ。ちょっとばかり流血沙汰だ」
半狂乱になって暴れるミーナを抑えつけたまま、ナルは聖女に言う。いきなり上がった悲鳴に、聖女が振り返ろうとしたのに気が付いたからだった。
「オレ達を殺し損ねたアンタを五体満足にしておくのは、ちーっとばかり面倒だよなァ。まったく、薬師ってのは搦め手が多くてやってらんねぇわ。ン? どうした、聖女様は限界か?」
「す、すみません……」
ナルは自分を守っていたカゼノヤイバを、聖女とヒイロが入るほどに拡大した。
聖女というからには魔術が得意だろうとナルは考えていた。だからこそ、ヒイロのことまで任せたのだが──どうやら間違いだったようだと、ナルは認識を新たにしたのだった。
ナルがミーナから意識が逸らせたのは、その一瞬だった。
その一瞬で、ミーナはナルの束縛から抜けだした。勢いをつけて体を起こすと、両腕でナルの首を掴む。そのまま、女性とは思えないほどの力で首を絞めつけた。
「消えろ、きえろ、消えろ、きえろ、消えろ──あたしと勇者様の邪魔をするヤツは、みんな消えてしまえッ」
ミーナの目が血走り、口からは血を吐いている。
己が放った毒塵ではあるが、逃げる余裕などなかったのだろう──彼女の皮膚は爛れ、顔の色が青く変わっていた。
しかもナルの首を絞めるのは、両腕──そう、斬り落とされたはずのミーナの腕のかわりに、ナニカが生えていた。それは、緑色の鱗で覆われた、ひょろ長い何か。まるでトカゲのしっぽの様なモノが、ミーナの腕にくっついているのだ。
「あたしと勇者様の邪魔は誰にもさせないッ──勇者様、あたしはここ! 勇者様ッ! 勇者様、勇者様、勇者様、ゆうしゃ様、ゆうしゃ様、ゆうしゃさま、ゆうしゃさまゆうしゃサマゆうしゃサマユウシャサマ──」
ナルを締め上げたまま、ミーナは勇者を求める。焦点の合わない瞳を勇者がいるはずの台に向けて、その姿を探した。
ちらちらと動くのは聖女の服であろうか、とミーナは考える。次の邪魔者である聖女を排除しようと、腕を伸ばして──
「え。だ、誰?」
「勇者様。良かった」
愛しい人の声に、動きを止めた。
「あ──あたし、は──」
ごとり、と音がして腕が落ちる。痛みが灼熱となってミーナを襲い、爛れた顔からは涙が零れた。
「勇者恋しさで人間止めちまったかァ。愚かだな」
「ユウシャサマ。ユウシャサマ──タスけてクダさいッ。タスけて、タスケテ、タスケテ、tasukete──」
数分前のミーナとは、似ても似つかぬ存在がそこにいた。もはや人の言葉も話す事の出来ない、異形の存在だった。
「アンタの人生を歪めたのは、勇者か? オレ達か? 恨むなら恨め。アンタを殺す、オレを恨みな──」
ナルが短剣を振うと、少女であったものの首が落ちて──転がっていった。




