やっぱりいかん
第三章
「お先に失礼しまーす」
「おつかれさーん」
「お疲れ様ですっ」
残業なんてどこの会社にもある。定時直後に帰れるのはプライベートな用事がある場合のみで、大概は他の人も仕事している。だから、とりあえず書類をもう少しまとめようとしばらくパソコンに向かう。それが月曜からだ、っていうからしんどい。
「国井ぃ、まだやってくの?」
獅子獣人の事務も帰り、二人きりになってしまった。すっかり静かになった事務所でクロヒョウの男が同じ毛色の若い犬、国井に声を掛ける。
「あ、メール来てる。これの返信だけしちゃいますね」
「ふーん」
でも、不思議なもので固定電話が定時をアラームで知らせた後の方がやる気が出る。もう終わりが見えていたからというものもあるけど。
国井の向かいの席でクロヒョウ、黒江は暇そうに携帯をいじっていた。恐らく、パソコンはもうシャットダウンしている。
「……あの、黒江さん」
「うん?」
僕の方を見ないで生返事。黒江さんは立ち上がるとおもむろに窓を開ける。タバコの煙を外に逃がすためだ。
「禁煙ですよ、ここ」
「だから報知機鳴らないように窓開けたんだろ。今更注意なんて、じんにゃんじゃあるめぇし堅いこと言うなよな」
普段は勤務時間中にタバコ休憩なんて言って度々外に出ては喫煙して、近くの自販機で買った飲み物を片手に戻ってくる。非喫煙者の僕からすればそんなに何度も休憩して良いのだろうかと疑問に思ってしまう。……僕もたまに一緒に行って外で深呼吸してリフレッシュとかはしてたけど。
「陣さんは注意、でもこの前の次長の言葉聞きました?〝外に行ったら濡れちゃうよ〟ってやつ。僕、あの一言に鳥肌もんですよ」
「オメーは犬だろ」
その通りだけど。黒江さんは一服吸ってゆっくり吐き出すと口をニヤリと歪める。
「アレだよな?言い換えれば〝タバコ休憩なんてしてないで働け〟、なんて言いたいんだろ。かーっ!ホントに嫌味だよなぁ……」
そうだそうだ。口調は柔らかいのに、時々本音をポロっと出したり舌打ちしてるんだ。黒江さんと次長の仲の悪さはどうしようもない。黒江さんと居る時間の方が長い僕もたまにちょっかいというか、嫌味言われてるくらいなんだし。
「ああいうのは相手にしないのが一番っ。今日もタバコがうまいってなぁー」
意に介さないでいられるから強いよな、黒江さんは。煙が窓の外へ逃げて行くのを尻目に話題を変える。
「話は変わるんですけど、この前の休みに陣さんを見掛けたんですよ」
「へー。ついてるな、お前」
ほんと、陣さんの話には食い付きが良い。でも、本番はこれからだ。
「それで、その陣さんなんですけど……女子高生、と歩いてたんですよ」
「……は?」
黒江さんがタバコを消して目付きを鋭くした。僕は一度キーボードから手を浮かせる。目を逸らさせないくらいにすごい迫力を容赦なく浴びせてきたからだ。
「じんにゃんが」
「はい」
「休みの日に」
「えぇ」
「女子高生と」
「そりゃあもう」
「じんにゃん、が」
「イエス」
「歩いてた」
だからそう言ってるのに。しかも陣さん二回出てきてる。
「……親戚とかじゃねぇの?」
「ですかね……」
実際のオチはそんなものかもしれない。僕の同意に黒江さんは肩の力を抜いた。
「親戚の子がこっちに進学したくらいなら不思議じゃないだろ?向こうの九竜大学って、十年ぐらい前は獣人校だったし」
「言い忘れてました、相手は人間の女子です」
補足した途端に黒江が立ち上がった。そのままつかつかと国井の横に立つ。
「コクイくぅん?なんでそんな大事なこと最初に言わないんだ……!」
「いや、女子といた、ってことだけで大事件かなって……」
先程から国井と黒江が話題にしている人物、白峰陣という白頭鷲の鳥人。女性との縁があまりに希薄な彼が若い異性と外を歩いていた。それは長い付き合いのある彼らからすれば、新鮮過ぎるネタになってしまう。当の陣だが、今日は午後からの打ち合わせが三件入っており、出先から直帰とのことだった。
「人間ってーと親戚の線は消えたな。曾祖父の代より前までずっとじんにゃんは根っからの白頭鷲家系だし……」
「そう、ですよね……。どうやって知り合ったんだろう…」
「………」
僕が見たのはスーパーの帰り道か、色々な食材で膨らんだエコバックを持って、仲良さそうに歩く私服の陣さんと女の子。女子大生と言うにはあどけないと思う、胸は大きかったけど。
くるくる表情を変えながら話し掛ける女の子と、落ち着いた笑みで話を続ける陣さん。それを見ていてこっちまで微笑ましくて。自分の知らない陣さんが持つ別の一面を垣間見た気がして、何故か離れた場所で見付けた時に胸へ手を置いていた。
「あーぁ」
陣を見掛けた休日を思い出していると急に黒江が声を上げた。そこで国井は一度今へと自分を戻らせた。
「どうしたんですか?」
「お前こそ。じんにゃんのこと考えてボケっとしてたぞ」
指摘されて声を短く洩らす。
「俺とお前の真っ黒コンビで真っ白じんにゃんを挟み込んで染めちまおうって作戦、決行できなくて残念か?」
「そんなくだらないこと考えてたんですか……」
黒江さんに言っては悪いが、しょうもない……。オセロじゃないんだから。
メールの送信を終えてシャットダウン。ノートパソコンを畳むと黒江が国井の顎にそっと手を添えた。
「くだらないか?お前も俺もじんにゃんが大好きだろ」
「一緒にしないでください」
そもそも、この人がどうしてやけに陣さんに話し掛けるかわからない。向こうは明らかに黒江さんの馴れ馴れしさを邪険に思っている。懲りないから仕方なく適当に相手をしてあしらっているだけだ。
「じんにゃんに置いてかれちまったな、俺達。これは一緒だろ?」
「う……」
その一言を突き付けられて返せない。……悔しい事に、僕も恋人は現在いないのだから。
黒江の指先が国井のネクタイの結び目をなぞる。
「なぁ、国井。今晩俺の部屋に来ないか」
「は……!?」
急な提案に思わず先輩に使うべきでない声を出してしまう。しかし黒江は笑うのみ。
「置いてきぼり同士、酒で慰め合うってのも悪くないんじゃないか?いつまでも、じんにゃんばっか指を咥えて見ているわけにはいかないだろ。どうよ、このアイディア」
流暢に言う。本当にこういうのを口から出任せって言うんだろうなと感心してしまった。
「それに、さっきの話だってそうだ」
「さっき……?」
まさかと国井が聞き返しても、黒江は目だけ笑う。
「お前、俺のこと嫌いじゃないんだろ?」
「は!?あ、いや……そりゃあ、嫌いな先輩ってことはないでしょうけど。どういうことですか」
さっきの話と言ったのに俺が好き嫌いとはどういうことか。
「お前は喫煙者の立場を考えたからあの嫌味に気付いたんだ。てことは、非喫煙者のお前には誰かしら、身近な喫煙者がいたってことだ。それは……」
「そ、それは……」
そんな喫煙者、この事務所の中じゃ一人ぐらいしか……いない。
「俺だって、健気にじんにゃんの背中を追い掛けてたお前を見てたんだぜ?」
「僕を……」
急にそんなこと言われても、何が何だか……。それでも黒江さんは離れようとしない。
「今夜ぐらいなら、いいだろ」
「………」
言葉の裏を考えようとした。黒い毛並みの奥にある腹まで黒いのか、と。しかし、考える間も黒江は与えず自分の爪の先ではなく面を、国井の口に差し込んだ。
「俺の爪は?」
「………甘い」
……週の初めから先輩の誘いに乗ってしまおうとしている僕も、詰めが甘いんだろうか。
自分の口から抜き取った黒江の爪を見ていたが、国井は結局断りの言葉は無しにに二人で事務所を出ていった……。
♂→♀→
迂闊な発言から料理教室を開催するようになって数日。とうに梅雨は過ぎていた。その中で城崎麗華という人物を見ていたが、当然胸の大きさ以外にも目につく部分はあった。
「城崎さん」
「あ!味噌汁は沸騰させない!」
名前を呼ぶだけで城崎さんは気付いてガスコンロの火を止めた。自力で味噌汁の美味さが引き立つタイミングを思い出せただけ、陣から見れば大きな進歩と言える。
「薬味を入れて終わり」
「はい!」
刻んだネギを味噌汁へ投入して、仕上げ。加えて茹でた冷麦。夏の昼食はそれで十分だった。白頭の鷲姿の鳥人が微笑むと、人間の少女も同じように笑みを浮かべた。
「まずは昼食を済ませてしまおうか」
「はい!」
皿へ茹でた冷麦を盛り、昨晩余った煮物を盛って味噌汁と合わせてテーブルへ。それだけで夏の栄養にはバランスが取れたラインナップが勢揃いする。
「……いただきます」
「いただきます!」
夏の蒸し暑さに負けじと少女、城崎麗華は白頭鷲、白峰陣と共に手を合わせる。
「うん、味噌汁美味しい!」
「あぁ、美味い」
麗華の一言に同意して陣は頷く。口付けた味噌汁は冷房の効いた部屋に居ようと関係無い、陣の羽毛に埋もれた体の芯から温めた。
「ほんとですか!」
「俺はお世辞を言う程上手くできた鳥人ではないよ」
素直な感想を述べたつもりだが、確認する城崎さんに陣は頷く。そこでようやく納得してくれたようで彼女は目を細めて笑った。
陣が麗華に料理教室と称して彼女の部屋に通い始めて早くも一月半。土日のどちらか片方だけだったが、週に一度以上は顔を合わせていた。その間に気付いたことは多々あった。
城崎麗華という人間は一見おっとりしているように見えて、動かしてみると行動は早く、要領も悪くない。ただし効率の良い手段を知らないだけのようだった、。
気も遣えて、最初に自分で感じた自分と相手とのズレも、さほど感じない。足りないのは経験のみで、才能がないということもなかった。
強いて言うなれば、目の前に揺れる大きな乳房が遠慮なく陣を字激するのが問題だろうか。それが気になって、別の皿に盛りつけられた冷麦を味わおうと思っても陣の目にはぷるん、と揺れる彼女の胸が目についた。
「……城崎さんはだいぶ料理がうまくなったな」
「先生が良いですからね!」
世辞のつもりはないうのだろうが、初めてまともに会話をしてから随分と打ち解けた気がした。その反面で、彼女へ想う気持ちへも後ろめたさが募っていく。
「……城崎さんはもう、免許皆伝だな」
口に含んだ味噌汁から口を離して一言。それは陣から麗華への卒業の一言でもある。……何度も思い悩んだが、おおよそこの一月、続けられる関係とは思えなかった。
「え……?」
城崎さんが冷麦を呑み込んで首を傾げる。自分では疑問に思っているように思えたが、彼女は決して鈍くさくもない。方法さえ知れば、効率の上げ方を自力で見付けられる賢い少女だった。
問題があるとすれば、それを彼女自身が自信と共に身に付けられていないこと、だろうか。それでも陣ができることは粗方伝えたつもりだ。
料理とは、腹を満たすためだけのものではない。自在に作れて、相手に振る舞ことができて初めて伝わるものだ。自分の空腹を自分の好みや気分で満たす食事を、コンビニ任せにすることは、選択としては下の下、だと思う。コンビニと言えど、自分に設けた水準を如何にして満たすか。その方法を城崎さんにはある程度伝授した。今は夏に特化したが、寒くなって来た時期に関しては自力で模索できる程度にはなっている、と思う。
「俺から君に教えられることは大かた教えたつもりだ。あとは城崎さん自身がどうしたいか、だ」
「私が……」
今の世代の子に対して、自発的な行動を促してもなかなか考えられない。それを知っていた陣は敢えて自発性を促した。こう言えば、彼女は自分から自然と離れる。
「……今日で料理教室は終わりにしようと思ってね」
俺だって、あまりレパートリーがあるわけではない。食材の有り合わせで何か作れても、やはり自分の好みとそぐわない日はある。今日がその日というわけではないが、これ以上は彼女に邪な気を持ってしまいそうだった。……今であれば、きっとまだ、引き返せる。
「……そんな」
城崎さんは不思議なもので、声の調子をいつになく落とした。