堅物の独身
第一章
カタカタと絶えずキーボードの音やプリンタが紙を印刷する音が事務所のあちこちから聞こえてきた。その中には当然、人の会話も含まれている。そこまで広くない事務所なので筒抜けになっていたが、内容を気にする者も多くない。
「引用してきたデータの出典元の記載が抜けている。それに、この図は一昨年の物だ。先月更新された最新データなら去年の十二月まで網羅しているから、そっちに差し替えた方が良い」
大きな羽の妨げにならないよう、ベストのような形状の背広を着用した男が低い声で呟く。その発言を聞き逃さないように黒い犬頭の獣人はメモ帳に字を走らせていた。その手が止まったことを確認してから対照的に白頭の鷲男、白峰陣は渡された資料を机へ置く。
「細かい事だが、その次のページの表が幾つか文字化けしていた。期日はまだ先だが……大丈夫か?」
「はいっ!ありがとうございます!」
尻尾を一度振って見せると細身の犬男、国井平は自分の席へ戻った。それを見計うと陣はパソコンを閉じる。
「先に失礼する。最後の者は戸締まりを頼む」
タイムカードを押して居残る者達へ注意。と言っても、今日はまだ同期も残っているためそれ程心配は要るまい。陣からすれば同期にはあまり頼みたくなかったが。
お疲れ様でーす、と幾つか声を聞いて陣は事務所を後にした。それから声が幾つかヒソヒソと聞こえ始める。
「で、じんにゃん、なんだって?」
クロヒョウの男がにやにやしながら国井のデスクを覗き込む。国井は先輩であるクロヒョウの顔を見て肩を竦めて見せた。
「データが古いそうです。あと、作った資料が印刷したら文字化けしてて」
「お前、検索も資料作りも上手いのにそういうの抜けてるんだよなー。爪が甘い」
言ってクロヒョウは爪を舐めて見せる。国井は露骨に口を曲げた。
「黒江さん、汚い」
「おい、どういう意味だそれ」
互いに渋い顔でしばし見詰め合う。しかし国井の方が先に黒江晃から目線をパソコンへ移した。
「一度全部誤字も含めて見直そう……」
「そうそう、じんにゃんはわかってるんだろうけど、部長の方がうっさいからな」
わかってる。陣さんは部長に指摘されないように前もって教えてくれたんだ。
「部長なんて内容を理解しようとはしないくせに。レイアウトとか見映えだけはやけに目を光らせるんですよね」
「そーそ。本部長へのゴマすりだからね。自分の部下が資料不備で提出してきたなんてカッコつかないっしょ」
陣からの指摘事項を直しながら黒江と部長への愚痴を言い合う。当の部長なら定時から十分もすれば帰社していた。
「じんにゃんも頭堅いからね~。見付けちゃうととことん言うのがタマに傷っていうか」
「でも、陣さんに言われるのと部長からの指摘とじゃ説得力に差があり過ぎます」
「だからどっちかの言うことしか聞かない、ってのも問題なんだがな……」
そんなの黒江先輩に言われずともわかってる、けど、割り切れてない辺りがまだまだ大人になりきれてないんだろうな……。
「ところで、陣さんが来年度から主任に昇進されるって話、本当ですか?」
黒江先輩からも指導が始まる前に話題を変える。先輩、陣さんの話にはやたら食い付きが良いし。
「む?まだ打ち合わせ中だけど特販の新しい企画案が通れば担当から主任になる、かもしれないって話だな。俺は何も聞かされてないんだよなー」
「陣さんはテキパキこなしちゃうし、確か先々月?くらいに三十歳になったんでしたっけ。妥当……じゃないですか?」
うちの会社は平均年齢高いけど、そんな人達は係長以上の役職が多い。主任という役職が少ないのだから陣さんがあてがわれてもおかしくないと思う。
「そうなんだよなー。同期の俺が業績はどんどん置いてかれて、寂しい限りよ。じんにゃん、コウにゃんと呼び合う仲なのに」
勤務態度がそんな風に飄々としてるからじゃないですか。ヒョウだけに。さっきからペンを指先で転がしてるだけだし。
「コウにゃんなんて呼ばれてるとこ、見たことないですよ」
「ツンデレだからな。今はまだ一度も呼んでないんだ。言っとくがお前なんぞが馴れ馴れしく呼んだら拳骨な」
じんにゃんと呼ばれる度に陣さんが目を細めて凄い剣幕で睨んでるの、知らないわけじゃないと思うけど。先輩はそれをツンデレと四文字で片付けるのか……。
「今時ツンデレて……。普通女性に使う言葉なんじゃないんですか?」
「女性限定なんてことはないだろ?」
男のツンデレ、ってのはよくわかんないけどなぁ。天邪鬼とかならまだしも。
「……あの」
「なんだ?」
「陣さんって彼女とかいるんですか?そろそろ結婚して子供いてもおかしくないような歳じゃないですか」
陣さんと同期の先輩(※独身)に対して言うべきじゃないかもしれないけど。いわゆる浮いた話、を聞いたことが黒江さんと違って一切ない。
「彼女がいるとは言ってなかったな」
黒江が顎を手で撫でながら思案する。しかし思い当たらないようだ。
「……そもそも女に興味あんのか?」
「生涯独身、仕事が恋人……みたいな?」
あのまま陣が老けていく姿を思い浮かべて二人で唸る。
「……う~ん」
「うぅん……」
想像は難しくない。しかし、それは寂しいものだった。
「田舎からこっちに就職してきたろ?出会いもないだろうしな……」
「……出会い…か」
そう、だよな。事務所で毎日顔合わせるとか……事務の人は既婚で子持ちだし、無理だけど。学校ならクラスやサークルで一緒の子とか。出会いさえあれば後は勝手に進んでくよな。……あの人が合コンやお見合いに行く姿は想像できないけど。
♂→♀
今日は天気が良いと朝のニュースは告げていた。自信満々の降水確率は六月後半でありながら午前、午後と共にゼロ。そんな自信は打ち砕くように雲行きは怪しく、そして空を見る目はより一層鋭くなった。
「………」
手間だが一度帰宅して、それから手早く夕食の買い出しへ行こう。歩きながらそれだけ決断した。試して不味かったドレッシング類を整理したのも相まって、冷蔵庫の空きが随分ある。
「む」
そうだ、前に投函されていたチラシに今日から野菜と玉子、それと調味料がセールと書いていた。普段利用するスーパーより倍近くの距離があるためいつもは無視するのだが、思えば本日は金曜日。明日からの休みを考えれば多少遠出して帰りが遅くなっても悪くない。品揃えを見定めまとめ買いする良い機会かもしれなかった。
「………」
横断歩道前で頭だけが白い鷲の男、陣が足を止める。もう一つ、同じ方向に歩いていた足音が彼の横で止まった。
「………!」
足音からして、革靴だった。チラ、と横目で見て陣は大きく目を見開く。
陣の横に立つのは部活帰りなのか、人間の女子高生が一人。茶色掛かった肩口より長い髪を前に垂らした少女。少し細めの目で前を見ているだけなのだが、彼女にはもっと大きな特徴があった。
……大きい。素直に言えば、その女子高生の豊満な胸に目が釘付けになっていた。すぐにハッとして逸らすのだが、瞬きをすると再び目は彼女の胸を捉えてしまう。黒いスカートの方へ頑張って目を向けても膝丈より若干短い程度、すぐに胸へ視線は戻った。
「う……」
女子高生の胸に気を取られ、気を紛らわせるために女子高生の別の部分を見るとは何と破廉恥な。その発想に至っただけでなく、実行に移すなんて。自分の中にそういう一面があるだけでも腹が立つ。
「…………」
事務所を出て、一度用を足した。引き返せば当然、もう一度事務所の扉前を通る。その際に中から黒江と国井の会話が少しだけ聞こえてきた。自分の話とわかったが内容があまりにばからしく、聞き耳を立てようとも思わず通り過ぎたが。
思わなかったのだが、気にはなった。その中で結婚がどうだ、好みの女性はどうだとか言っていたのだから。
今の女子高生への反応でわかるように、俺自身女性に興味が無いわけじゃない。寧ろ、大きな胸を見るだけで心拍数が上がる程度にフラストレーションは溜まっている……らしい。しかし、これは話を聞くにどうやらその程度なら世の男達には当たり前らしい。もっと過激な考えを持っている輩も少なくないと言って差し支えもないようだ。
それを俺自身が認めたくなかった。確かに三十歳を過ぎて周りから様々急かす声も増えてきたが、今は結ばれたい誰かの当ては無い。探そうとも思っていない。必要性を見出していなければ、女性に対して所謂そういう考えを向けることに抵抗すら感じる。パートナーとは、作ろうという気持ちを持って見付けるものではない。
「あのぉ……」
「む?」
邪な考えを払拭すべく陣が自分と戦っていると、横から声がした。眉間に皺を寄せて瞑っていた目を開けると、女子高生がこちらへ体を向けている。
「信号、もう渡れますよぉ?」
「あっ……。これは失礼。ありがとう」
「いえ~」
少し間延びした話し方をする女子高生に礼を言う。そこで同期のどうでもいい話に時間を割いていたと気付いて頭痛がした。なんて無駄な時間だったのだろう、と。
彼女は横断歩道を渡ると通りを右に曲がった。陣は自室へ向かうために引き続き直進。
「……こういう時は、良い物が見れたと思うのが普通、だったかな」
その程度なら、許されるだろうか。親切心で教えてくれたあの女子高生には悪いが。
黒江からのアドバイスに従って流そうと思ったが、この方法は少なくとも今夜は忘れられそうにないな……。
部屋に着いて冷蔵庫の中身を再確認。チラシもまだ取っておいて良かった。今から向かえば夕飯時のピークは過ぎている。店内は歩きやすそうだが、品切れはあるかもな。
その時ならその時だ。有り合わせで今夜は乗り切って、明日またいつものスーパーへ行くだけのこと。部屋へ戻って気が抜けた。楽に考えよう。
「………うん?」
歩いて数分してからのことだった。陣の黄色い嘴に何かが跳ねた。それが水滴と気付いた時にはもう遅い。雨がポツポツと降り出す。
「しまったな……」
雲行きの怪しさを把握した上で部屋に戻ったのだ、傘を持つぐらいすれば良かった。折り畳み傘は仕事用の鞄に入れっぱなしだ。ここまで来ては仕方がない。引き返す気も起きなかったのでこのままスーパーへ行こう。
「く……」
多少の雨ならば背広も羽毛も水を弾く。鷲がそうたかをくくったのが間違いだった。……いや、たかをくくるとは鷹ではなく高だから関係無いか。五分ほど歩いたが雨の勢いはどんどん増して空は暗くなっていく中、俺は先を急いだ。
「………?」
豪雨の中、傘を差しての人通りもない。横を車がライトを点けて置いていくのみ。……ここまでずぶ濡れになったら店側にも迷惑かもしれんな。勇んで進むと決めたがこれ以上は限界だ。ぐしょ濡れで自分に張り付くスラックスを摘まんで目を細める。
だが、引き返そうと視線を上げた時、少し前方に人影が見えた。離れていてもその後ろ姿が女子高生のものだとはわかった。
「まさか……」
さっき横断歩道で会ったあの子か?まだこんな所をうろうろしていたなんて。
「あっ……!」
「危ない!」
道路を走るトラックの車輪が大きな水溜りに突っ込む。俺が跳んでから女子高生も気付いたようだが少し遅い。避けられない水は俺が羽を広げ、何とか彼女を庇った。
「………」
当然、トラックは何事も無かったように去ってしまった。悪態を吐こうとも思わない。
「あ、ありがとうございました……」
「うん?あぁ、いや……!」
トラックばかり見ていたが、ようやく目線を戻す。だが、すぐ息を呑んでしまった。
陣が庇ったのは紛れも無く、先程横断歩道前で会った少女だった。しかし、その姿は言い方は悪いが面影を失くすほどに変わり果てている。
濡れて肌にひっついた髪、靴は既に浸水しているだろうが、鞄も中身が無事かはわからない。それに、なによりその……。
「………」
「あ、あれぇ……」
先程彼女を庇った方とは逆の羽を頭の上に掲げてやる。丁度、彼女の傘代わりになるように。俺は空を見上げて眉をしかめた。
「どうかしましたかぁ?」
「……いや、濡れるぞ。もう遅いかもしれないが」
俺はこの子を極力視界に入れないことにした。何故なら、その……透けていたから、だ。下着が。水色掛かった白のブラジャーが。ついでに言うとそれ以外は身に付けていないのか、制服越しに肌も浮き出ている。
「あのぉ、さっきも会いましたよね?」
「あぁ。一度帰って、この先のスーパーに行きたくて歩いていたんだ」
返答すると彼女は納得したように頷いた……と、思う。見えなかったが。
「君はどうしてここに?普通に歩いていれば……」
「あ、途中の線路下の橋で雨宿りしたんですぅ。でも、止みそうにないし……」
言われれば確かにそんな場所も途中で通った。そこから飛び出て歩いていたからここにいたらしい。俺は上向きで頷いてから提案をする。
「と言うことは、それなりに君の家は近い、のかな?……君さえ良ければ送っていくが」
「え……。良い、んですか?」
確かにこうして見れば中年が透けブラ女子高生の肩を抱く様なポージングで、少女の家へ向かおうと言うのだ。痴漢と言われれば退場確定。そんな単語とは無縁と思ったが、意外に身近に潜んでいたらしい。
「………」
それでも、だ。唇を紫にして寒そうにする少女を野ざらしにしたまま帰ることを白峰陣は許せなかった。だから。
「……さっき、横断歩道で信号が青になったと教えてくれたろう?……その、礼、だ」
下手くそなこじつけだった。それでも、彼女と何か接点があるとしたらその点のみ。すると彼女は一歩前へ進んでこちらを見た。
「じゃあ……お願いします!こっちです!」
「わ、わかった」
すぐに笑顔の彼女の上を包みながら歩き出す。見ないようにしても、動かれれば否が応にも見えてしまう。我ながら茨の道を選んでしまったかもしれない。
「ここです!」
言われた通りに進んで程なく無事にアパートまで辿り着いた。あまり大きくはないが造りは新しく見える。
「そうか、良かった。体を冷やさないようにした方が良い。では俺はここで……」
やっと羽を畳んで背を向ける。ここから先は一人でも大丈夫だろう。目の毒と言うか、保養は十分に頂いた。これ以上俺からすることはない。
「……う?」
帰ったらまずは風呂にするか、と思ったが自分の足が止まる。いや、背広の裾を掴まれて動けなくなってしまったのだ。
「あの、うちに来ませんかぁ?」
「な……!?」
少女からの提案に声を引っ繰り返してしまった。しかしこちらはあくまで大人、努めて冷静に戻る。平静を装い、纏う。
「……き、来て、どうすると言うのかな。ご両親もいるだろう?」
「あ~、私一人暮らしなので親は大丈夫です!」
更に予想外の返しが来て呻く。歩きながら少しでもそういう会話もしておけば良かったのだが、雨の強さもあって会話は道案内以外あまりできなかった。
「私のせいでこんなに濡れたのに、送ってもらってそのまま帰すなんてできません」
「………」
気にするな、と言ってもその手を放してくれそうにはなかった。
「だからせめてうちでお茶とか飲んで体を温めてから……」
「こんな恰好では上がれないよ」
ただ断るのでは彼女は納得しないように思えた。だから隙を見せたらそこを突いて理由を作る。……本当は上がりたいような気もするが。
「……じゃあ、まずは私の部屋前にまで来てください」
「おいおい……」
まだ何かあるのか、と思ったがすぐに少女は俺を連れて歩き出した。アパート角の一室、そこが彼女の住まいらしい。
「ちょっと待っててください」
言われて取り残されてしまう。しかし、程なくして少女は真っ白いタオルを持って現れた。
「これ!せめて、体を拭いてください」
「………」
これ以上、断るのは逆に悪い気がした。おっとりしているようで意地になっているように見えたが、タオルを受け取ると頭と羽だけは拭かせてもらった。それだけでも、微かに香る嗅ぎ慣れない匂いが鼻をくすぐる。
「……ありがとう」
「こちらこそ、送って頂きありがとうございましたぁ!」
丁寧に頭を下げられたのだが、まだ透けているのに気付いていないのか胸を隠そうともしていない。こちらが見ないでおくのが今は一番だ。
「……これ、洗った方が良いか?」
「気にしないでください。あ、私も拭こうっと」
止める間もなく、少女は俺の使用済みタオルでワシワシと頭を拭き始める。苦笑すると彼女は手を止めて、傘を差し出した。
「これ……」
「帰り道、必要だと思って。小さいかもしれないけど、使ってください」
「………わかった。すまないね、見ず知らずの鳥人に」
そこまで言うと少女はあ!と声を上げた。
「そうだ、お名前聞いていませんでしたぁ!私、城崎麗華と言います!」
「名乗ってもいなかったな、そう言えば……。白峰陣だ」
今更な気もするが、互いに自己紹介をすると城崎さん、は笑った。
「そうだ、この傘……。明日返しても構わないかな?」
「私の方はいつでも大丈夫です。なんなら、ドアノブに引っ掛けておいてもらえれば……」
そうは言うが万が一にでも盗まれたら嫌だろう。
「……くしゅ!」
城崎さんがくしゃみをした。これはいけない、と話をすぐに切り上げる。
「ともかく、明日返しにまたここへ来る。君は早く風呂で体を温めた方が良い。わかったね?」
「……はい、すみません。ありがとうございました……」
鼻をすすりながらまた頭を下げる城崎さんを見ながら扉をそっと閉めた。城崎、と書かれた表札と部屋の番号だけ確認すると俺はアパートから少し離れてから傘を広げる。
「………」
白い、上品な傘だ。八本骨で風にも強そうに見える。しかし雨の勢いは気付けば随分弱くなっていた。今引き返して、やはり必要無いと言うのは簡単だろう。その方が城崎さんも安心だ。
しかし、今すぐは返したくなかった。……良くはないのかもしれないが、もし許されるなら、もう一度会って少し話したい。
陣は傘を畳むと弱い霧雨に変わった道を歩き出した。どうして自分がそこまで城崎麗華を気にするようになってしまったかは、気付く事のないまま……。