妻が愛人の子を妊娠した日、私は10年の結婚を終わらせた
妻が愛人の子を妊娠した日、私は10年の結婚を終わらせた
結婚十周年の記念日、妻は突然、激しくえずき始めた。病院まで付き添うと言った俺に、彼女は海外支社への緊急出張が入ったのだと告げ、そのまま空港へ向かった。
三十分後、見覚えのないLINEアカウントから、一枚のエコー写真が送られてきた。
送り主は、妻の幼なじみだった。
俺は妻を問い詰めることも、病院へ押しかけることもしなかった。ただ不動産会社に連絡し、二人が長年「家」として使っていた、俺の婚前マンションを売りに出した。
妻は知らなかった。
俺がすでに、彼女と幼なじみが築いていた、もう一つの家庭について調べ終えていたことを。
そして今回、俺が手放すつもりなのは、マンションだけではなかった。
1
結婚十周年の記念日、美咲は朝から何度もえずいていた。肩に手を添えると、彼女は俺の手を振り払い、玄関に置いてあったキャリーケースを引き寄せた。
「病院まで一緒に行くよ」
「ただの胃腸炎だと思う。急に海外支社への出張が入ったの。もう空港へ向かわないと間に合わないから、着いてから診てもらうわ」
そう言い残し、玄関のドアは俺の目の前で閉まった。
三十分後、見覚えのないLINEアカウントからメッセージが届いた。アイコンに写っていたのは、朝倉直哉だった。
添付されていたのは一枚のエコー写真で、検査を行った医療機関として「汐見市立総合医療センター」の名が記されていた。
「圭人、俺の予想が当たっていれば、美咲は出張に行くって言ったんだろ?」
「さて、俺たちは今どこにいるでしょう?」
写真を見つめながら、乾いた笑いが漏れた。
「どこでもいい。霊安室でも好きにしろ」
直哉からの返信はしばらくなかった。
スマートフォンを伏せようとしたところで、美咲から電話がかかってきた。
「圭人、直哉はふざけていただけでしょう。いくら何でも、あんな言い方はひどくない?」
「エコー写真だって、待合室に落ちていたものを拾って送っただけよ。今すぐ謝って」
俺はソファにもたれ、テーブルの上で冷めきった記念日の料理を眺めた。
「今日が何の日か、分かってる?」
美咲は一瞬も迷わなかった。
「結婚して十年もたつのに、まだ記念日にこだわるの?」
「一緒に過ごせないのが不満なんでしょう。出張から戻ったら休みを取って、何日か付き合う。それでいい?」
何かを返す前に、通話は切れた。
美咲はずっと、自分が命じれば俺は必ず従うと思っていたのだろう。
けれど彼女は知らない。
俺がすでに、美咲と直哉が外で築いていた、もう一つの家庭について調べ終えていたことを。
二人が暮らしていたのは、俺が結婚前から所有している青葉台のマンションだった。
俺は連絡先を開き、不動産会社の担当者に電話をかけた。
「青葉台の部屋を売却したいんです。手続きを進めてください」
売出価格について打ち合わせをしている間も、着信は何度も続いた。画面を一度確認し、スマートフォンを消音に切り替えた。
結婚してからの十年間、いつも同じだった。
直哉が俺を挑発しても、美咲は「冗談が好きなだけ」と笑って済ませた。俺が少しでも不快そうな顔をすれば、心が狭い、考えすぎだ、妻を信用していないのかと責められた。
二人の距離の近さを誰かに指摘されたときも、美咲は決まって笑いながら手を振った。
「私たち、小さい頃からずっと一緒なの。昔は同じお風呂に入ったことだってあるんだから」
「直哉とどうにかなるなら、とっくになってるわ。今さら何もないでしょう?」
十年前の俺は、その言葉を信じた。
今になって思い返せば、笑うしかない。
電話に出ない俺にしびれを切らしたのか、美咲は今度はLINEを送り始めた。
「直哉はふざけただけだって言ってるでしょう。どうしてそんなに心が狭いの?」
「今すぐ謝れば、今回はもう責めないから」
「私が仕事ばかり優先しているって、いつも不満を言っていたでしょう。帰国したら休暇を取るわ」
返信する前に、直哉から新しいメッセージが届いた。
わざと焦点をぼかして撮影された、ベッドの上の写真だった。背後に写る家具とフロアランプには見覚えがある。
俺が今、売ろうとしているマンションだ。
「圭人、お前がここまで我慢強い男だとは思わなかったよ」
「何年も俺と美咲の関係を見ていながら、ずっと見て見ぬふりをしてきた。お前は美咲に何を借りているんだ?」
「そこまで耐えられるなら、六年前のことも教えてやるよ」
「美咲は、ライネール共和国の本社で一年間研修を受けると言っていただろう?」
「あの年、俺たちは偽造した独身証明書を現地当局に提出して、婚姻登録をしたんだ」
「美咲は一年間、ずっと俺と一緒に暮らしていた」
「何も知らないお前は、何日かおきに電話をかけて、疲れていないかと心配していたよな」
「電話の向こうで美咲の息が上がっているのを聞いて、研修が大変なんだと思っていたのか?」
「そりゃ疲れるよな」
それ以降のメッセージは読まなかった。
結婚して三年が過ぎても、俺たちの間に子どもはできなかった。美咲は、自分は妊娠しにくい体質なのだと打ち明けた。
嫌われるのが怖くて言い出せなかった。両家から子どものことを聞かれるようになり、もう隠せなくなったのだと泣いていた。
俺はその日、美咲を長い間なだめ続けた。
翌日、親戚から子どものことを聞かれた俺は、自分の側に原因があるのだと説明した。
それ以来、周囲は美咲のことを、夫を見捨てない優しい妻だと褒めるようになった。
美咲も困ったような、思いやりに満ちた笑みを浮かべていた。
「大したことじゃないわ。私たちはまだ若いもの」
「もしこの先、子どもができなかったとしても、私は圭人と一緒にいる」
「こんなことで、私たちの結婚は変わらないわ」
夫側に問題がありながら離婚しようともせず、ずっと寄り添っている。周囲の目には、美咲は理想的な妻として映っていた。
俺には、そんな美咲を大切にしろと忠告する者までいた。
その後、美咲はライネール共和国の本社で一年間の研修を受けることになったと言った。
俺は疑いもせず、一緒に荷物をまとめ、車で空港まで送った。
到着した頃を見計らって電話をかけると、出たのは直哉だった。
「美咲さんなら、今シャワーを浴びていますよ。すぐには出られないと思います」
当時、直哉は海外事業推進室の責任者だった。二人が同じ国へ派遣されたのも、会社の業務上の都合だと思っていた。
通話を終えて間もなく、一通の電子招待状が届いた。
直哉の結婚式の招待状だった。
新郎新婦の名前は英語で記され、新婦の欄には「JUDY」と書かれていた。
美咲が海外で使っていた英語名も、JUDYだった。
偶然だと思い、俺は「結婚おめでとう」とだけ返信した。
三か月後、直哉から海外のクリニックで撮影されたエコー写真が届いた。患者名は「JUDY KIRITANI」となっていた。
美咲の法的な氏名は、高梨美咲だ。
桐谷は、彼女が仕事で使い続けている旧姓だった。
名前だけなら偶然だと説明できる。
旧姓まで同じとなれば、話は別だった。
スマートフォンを握る指に力が入り、爪が掌に食い込んだ。手首にかゆいような感覚が走り、初めて血が流れていることに気づいた。
帰国した美咲は、会社の研修名簿や出入国記録を見せ、直哉が画像を加工して嫌がらせをしただけだと言い張った。
決定的な証拠を持っていなかった俺は、最後には彼女を信じることを選んでしまった。
直哉のアカウントをブロックした直後、インターホンが鳴った。
宅配便の配達員が、丁寧に包装された箱を抱えて立っていた。
「高梨様、アステリア・メディカルの桐谷美咲様から、記念日の贈り物をお預かりしております」
受け取った箱を開くと、イタリア製のオーダースーツが入っていた。
最初の結婚記念日に美咲から贈られたのも、同じブランドのスーツだった。
あの頃、美咲はスーツ姿の俺を見て、目を輝かせていた。
「やっぱり圭人はスーツが似合うね。どこかの会社の社長みたい」
俺は袖口を整えながら笑った。
「日本法人のトップになるのが、美咲の目標なんだろう?」
「家に仕事のできる人間が二人もいる必要はないよ。俺は家のことを引き受ける」
一瞬だけ、美咲の表情が固まった。
けれどすぐに俺の腕へ抱きついてきた。
「また誰かに、私とは釣り合わないって言われたの?」
「そんな話、気にしないで。圭人は誰よりも素敵なんだから」
「これから毎年、結婚記念日には新しいスーツを贈るわ。余計なことを言う人たちに見せつけてやりましょう」
それから毎年、俺のもとにはイタリア製のオーダースーツが届いた。
しかし四年目から、デザインは一度も変わらなくなった。
今年の分を合わせれば、同じスーツが七着になる。
スマートフォンが鳴った。
家族のグループLINEに、美咲が贈り物の箱と、さまざまな角度から撮ったスーツの写真を投稿していた。
「結婚十周年のプレゼント。圭人へ」
「今年は仕事が忙しくて一緒に過ごせないけれど、ずっと悩んで選んだの。気に入ってくれた?」
返信はしなかった。
美咲が投稿した写真を保存し、七着のスーツを一つの箱へ詰めると、宅配便の集荷を申し込んだ。
作業を終えたところで、不動産会社から電話がかかってきた。
「高梨様、青葉台の物件に購入希望者が現れました。内覧の日程についてご相談できますでしょうか」
2
「マンションを売るって、どういうこと?」
「どうして勝手に売ろうとしているのよ!」
不動産会社の担当者にスマートロックの一時パスコードを伝えた直後、美咲から電話がかかってきた。
スマートフォンを机に置き、俺は物件資料の整理を続けた。
「十年間使っていなかった部屋だ。売って何が悪い?」
「悪いに決まってるでしょう!」
電話越しの声が急に大きくなった。
「私たちは夫婦なのよ。あなた名義でも、家族の生活に関わる財産でしょう。売る前に、少なくとも私に相談するべきじゃない?」
スマートフォンを少し遠ざけ、向かいに座る担当者へ声をかけた。
「売出価格は、査定額からさらに五パーセント下げても構いません」
「仲介手数料は規定どおりで結構です。明渡しの調整についても、正式に委託契約を結びます」
「できるだけ早く進めてください」
「圭人!」
離していても、美咲の声は室内に響いた。
驚いた担当者を横目に、俺は登記事項証明書を机の上へ置いた。
「あの部屋は、結婚前に両親が資金を出してくれた、俺の財産だ」
「登記名義人も俺一人になっている」
「駄目よ!」
美咲はほとんど叫んでいた。
「絶対に売らないで!」
同じ言葉を繰り返され、少しずつ面倒になってきた。
「どうして?」
しばらく沈黙が続いた。
再び聞こえてきた声は、先ほどよりも穏やかだった。
「圭人、落ち着いて聞いて」
「今は不動産市場が不安定なの。この時期に売ったら、かなり買いたたかれるわ」
俺は担当者が作成した査定書に目を落とした。
「構わない。それでも売る」
予想外の返事だったのか、美咲は言葉を失った。
「実は、あの部屋は私が貸しているの」
「ずっと空けておくのはもったいないでしょう。少しでも家賃収入があれば、家計の足しになると思って」
思わず笑いが漏れた。
俺に売却を諦めさせるためなら、どんな話でも作るらしい。
「買主には事情を説明する」
「引渡しまでの間に、住んでいる人には退去先を探してもらえばいい。その間の家賃も請求しない」
「そういう話じゃないの」
「あの部屋には、もう何年も前から人が住んでいるのよ。いきなり出ていけなんて言えるわけがないでしょう」
声が次第に焦り始めた。
俺は眉間を押さえ、彼女の話に付き合うのをやめた。
「美咲は今、不動産市場が悪いから最近貸し始めたと言った」
「それなのに今度は、何年も前から住んでいると言うんだな」
電話の向こうが静まり返った。
資料を一枚めくる。
「住んでいるのは、直哉だろう?」
美咲の声から、作り物の落ち着きが消えた。
「どうして何でも直哉に結びつけるの?」
「何度も言っているでしょう。私たちは幼なじみでしかないわ」
「本当に付き合う気があったなら、とっくにそうなってる。いつまでくだらないことを考えているの?」
苛立った口調も、慌てた弁解も、これまでと何一つ変わらなかった。
「ただの幼なじみなら、どうして俺が部屋を売ることにそこまで必死になる?」
「あれは結婚前から俺が所有している部屋だ。どう処分するかを決める権利は、俺にある」
窓の外を見ながら、淡々と続けた。
「今の美咲は、執行役員兼営業本部長だ。給与も賞与もストックオプションもある」
「同じ条件の部屋が必要なら、自分で用意できるだろう」
「それでも、あのマンションでなければならない理由があるのか?」
「それは……」
言葉は続かなかった。
美咲には答えられない。
だが俺は、すでに理由を知っていた。
青葉台のマンションは、汐見市立青葉第一小学校の通学区域内にあった。周辺では評判のいい公立校として知られ、両親も将来の子どものことを考えて、無理をしてあの部屋を購入してくれた。
マンションの売却調査を進める中で、管理会社から過去の入居届が提出された。
入居者欄には、朝倉直哉。
同居人欄には、莉央の名前があった。
郵便受けには、汐見市教育委員会から送られた「就学通知書在中」と記された封書まで残されていた。
莉央は、直哉が以前交際していた女性との間にもうけた娘だ。母親が家を出たあと、美咲は長年、莉央の母親のように振る舞ってきた。
二人は莉央の住民票だけを俺のマンションへ移し、青葉第一小学校へ通わせようとしていたのだ。
直哉が何度も俺を挑発しながら、莉央のことだけは口にしなかった理由も分かった。
下手に子どもの存在を明かせば、俺がマンションを売り、入学計画が崩れると恐れていたのだろう。
俺は何も言わず、美咲が口を開くのを待った。
長い沈黙のあと、彼女はため息をついた。
「分かった。そこまで知っているなら、もう隠さない」
「あの部屋に住んでいるのは直哉よ」
「でも、変な想像はしないで。莉央を青葉第一小学校に通わせるため、住民票だけあの部屋へ移したの」
「あの学校は評判がいいし、莉央にとっても通いやすいから」
「私たちには子どもがいないでしょう。莉央は素直でかわいい子だし、圭人だって以前会ったとき、気に入っていたじゃない」
「子どものためだと思って、許してあげて」
子どものため。
よくそんな言葉を口にできるものだ。
電話の向こうから、小さな女の子の声が聞こえた。
「ママ……」
美咲は慌てたように声を落とした。
「もう切るね。同僚の子が、お母さんを探しているみたいだから」
そのまま通話は切られた。
3
美咲と直哉が不在の時間を選び、不動産会社の担当者と購入希望者をマンションへ案内した。
二人と顔を合わせるのが怖かったわけではない。ただ日本を離れる前に、自分の財産を静かに整理しておきたかった。
俺の収入が美咲より少ないことは事実だ。
それでも、自分のものまで奪われるつもりはなかった。
購入希望者は、部屋の広さや日当たり、交通の便を気に入ったようだった。
契約日を調整する前に、俺は現在の使用状況をすべて伝えた。
「家庭内の事情で、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
購入希望者は、担当者から渡された資料に目を通した。
「内覧前に、事情は聞いています」
「市場価格より安く譲っていただける以上、明渡しについてはこちらも正規の手続きを取ります」
「代理人を通じて交渉しますから、高梨さんに後の問題を押しつけるつもりはありません」
不動産会社の担当者も頷いた。
「高梨様、契約から引渡しまで、私が責任を持って進めます」
「委託された範囲については、すべて書面どおり対応いたします」
ようやく肩の力が抜けた。
「よろしくお願いします」
「もう一つだけ、お願いがあります」
「離婚に関する手続きがすべて終わるまで、少し時間が必要です。売却については、一か月だけ伏せておいてください」
二人の了承を得たあと、俺は離婚に必要な書類を整理し始めた。
ところが、俺が美咲に話を切り出すより先に、義父母が家へやって来た。
義母はソファに腰を下ろすなり、険しい顔で俺を見た。
「美咲から聞いたけれど、青葉台のマンションを売るつもりなんですって?」
「本人は今すぐ戻れないから、私たちが代わりに聞きに来たの。いったい何を考えているの?」
義父もすぐに続けた。
「美咲は今、大事な時期なんだ」
「執行役員兼営業本部長まで上がった。次の人事で取締役に選ばれれば、その先には日本法人社長の座だってある」
「そんなときに、どうして余計な問題を起こすんだ」
俺は向かいに座ったまま、何も言い返さなかった。
二人は長々と話し続けたが、俺が反応しないため、次第に機嫌を悪くしていった。
義母は何も置かれていないローテーブルを見回した。
「美咲と十年も暮らしているのに、まだそんなに気が利かないの?」
「客が来ているのに、お茶ひとつ出さないなんて」
これ以上聞きたくなくなり、立ち上がった。
「何か買ってきます」
「コンビニで適当に済ませないでよ」
「駅前の晴海堂で、上生菓子を買ってきなさい。安っぽいものを出されたら恥ずかしいでしょう」
適当に返事をし、家を出た。
わざわざ駅前の老舗まで出向く気にはなれなかった。住宅街の外にある食品スーパーで菓子を買い、そのまま家へ戻った。
玄関の前まで来たとき、室内から義母の声が聞こえた。
「あのとき美咲が、どうしても圭人と結婚したいと言わなければ、私は反対していたわ」
「十年で美咲は平社員から執行役員まで上がったのよ」
「それに比べて、圭人は何をしているの? あの子に釣り合うところなんて一つもないじゃない」
義父が鼻を鳴らした。
「当時は、お前も美咲も顔がいいからって気に入っていたじゃないか」
「いちいち私に逆らわないでよ」
義母の声が少し低くなった。
「私だって美咲の将来を考えているの」
「莉央が生まれた頃に、あの子がきっぱり離婚を決めていれば、こんなに長引かなかったのに」
「今では圭人の顔を見るだけで腹が立つわ」
義父が少し間を置いた。
「今度の子は、間違いなく直哉の子なんだろうな?」
玄関の前で、菓子の袋を握る手に力が入った。
二人は最初から知っていたのだ。
美咲と直哉の関係も、莉央が直哉の娘であることも、美咲が母親のように振る舞ってきたことも。
六年前の海外研修が、実際には何のためだったのかも知っていた。
これまで美咲が直哉を「ただの幼なじみ」と言い張るたび、義父母は口をそろえて彼をかばってきた。
幼い頃から知っている、息子のような存在なのだと言われ、俺はそれを信じてしまった。
自分があまりにも愚かだった。
ドアを開け、買ってきた菓子をテーブルの上へ置いた。
義母はすぐに顔をしかめた。
「帰ってきたなら、一声くらいかけたらどうなの?」
袋の中身を確認すると、さらに表情を険しくした。
「晴海堂で買ってきなさいと言ったでしょう?」
「何なの、これは」
「美咲だって楽をして稼いでいるわけじゃないのよ。毎日あれだけ働いているのに、あなたは少しも支えてあげようとしないのね」
義父母は以前から、俺の家柄や働き方を気に入っていなかった。
何をしても欠点を探し、俺を責める理由にした。
だが二人は忘れている。
結婚した当時、俺はすでに両親の援助を受けて青葉台のマンションを所有していた。一方の美咲は、入社したばかりの一般社員だった。
美咲は管理職になりたい、会社で最年少の女性役員になりたいと語っていた。
俺は安定していたシステムエンジニアの仕事を辞め、在宅で案件を受けながら、家事のほとんどを引き受けた。
美咲が残業する日は食事を用意し、海外へ出張するときは必要な資料や荷物を整えた。
彼女が仕事に集中できたのは、俺が生活のすべてを支えていたからだ。
当時、義父母は俺の選択を褒めていた。
今では、その選択が俺を見下す材料になっている。
帰る理由を探していたところで、義母がバッグから一枚の用紙を取り出し、俺の前へ放った。
美咲の署名が入った離婚届だった。
証人欄には、義父母の署名もそろっている。
「署名して」
義母は腕を組み、見下すように俺を見た。
「美咲の希望よ」
「本人は忙しくて話し合う時間がないから、私たちが代わりに持ってきたの」
「美咲からも、『圭人が署名したら、そのまま市役所へ出して』と言われているわ」
「向上心を持たずに生きてきたのは、あなた自身が選んだことでしょう」
「でも、美咲の人生までこれ以上引きずり下ろさないで」
義母が最後まで話し終える前に、俺はペンを手に取った。
配偶者欄へ署名する。
義母が目を見開いた。
俺はペンを置いた。
「署名しました」
「もう帰ってもいいですか?」
義母はようやく我に返り、再び尊大な表情を作った。
「もちろんよ」
「離婚するなら、いつまでも美咲の家に居座らないで」
そう言って義父を振り返った。
「荷物をまとめるところを見ていて。美咲のものを勝手に持っていかれたら困るから」
相手にせず寝室へ戻り、普段着と自分のパソコンだけを荷物に詰めた。
小さなスーツケース一つで十分だった。
義父は玄関までついてきた。
「思ったより物分かりがよくて助かったよ」
「さっさと出たほうがいい。遅くなったら、最終バスにも間に合わないぞ」
わざとらしい侮辱には答えなかった。
離婚届にはすでに双方の署名と、二人の証人の署名がそろっている。
あとは市役所へ提出するだけだった。
一か月後、マンションの売却や口座、私物の整理がすべて終わった。
汐見市役所から、離婚届受理証明書も交付された。
両親を連れ、南汐島へ向かう便の搭乗口へ歩いていると、反対側の通路から美咲と直哉が現れた。
莉央も二人と一緒だった。
直哉はスマートフォンを取り出し、三人で写真を撮った。
次の瞬間、俺のスマートフォンが震えた。
新しく作ったらしいアカウントから、その写真が送られてきた。
返信はしなかった。
搭乗前にSIMカードを抜き、通信会社のサイトから古い番号の解約手続きを完了させた。
* * *
美咲が自宅へ戻ると、圭人の姿がなかった。
室内を見回し、直哉と莉央の荷物を片づけている母に目を向けた。
「圭人は?」
「出ていったわよ」
美咲の表情が変わった。
「出ていったって、どういうこと?」
「お母さん、何をしたの?」
母は気にする様子もなく、手を振った。
「出ていったものは仕方ないでしょう」
「直哉と莉央がこっちへ戻ってきたんだから、圭人までいたら邪魔じゃない」
「そういえば、玄関にあなた宛ての荷物が届いていたわ。片づけに忙しくて、まだ開けていないけれど」
美咲は何かを思い出したように玄関へ走った。
荷物をつかみ、乱暴に封を開ける。
中身を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
リビングにいた全員が動きを止めた。
4
箱の中に入っていたのは、離婚届受理証明書だった。
書面の末尾には汐見市長名と公印が記され、十年間続いた婚姻関係が正式に終了したことを示していた。
美咲は証明書を凝視したまま、指先を冷たくしていった。
「離婚届……本当に受理されたの?」
直哉が腰をかがめ、書類を拾い上げた。
軽く目を通し、鼻で笑う。
「圭人もずいぶん生意気になったな」
「十年も美咲に養ってもらった男が、こんなもので脅そうとしているのか?」
証明書を軽く振った。
「騙されるなよ」
「お前に頭を下げさせたいだけだ。怒りが収まれば、そのうち戻ってくる」
母も書類をのぞき込み、口元を歪めた。
「思ったより聞き分けがよかったじゃない」
「美咲、気にすることないわ」
「あなたと直哉が帰ってきたから、意地を張っているだけよ。何日か放っておけば、自分から謝りに来るでしょう」
母は玄関に置かれた、もう一つの大きな箱を指さした。
「こっちにも荷物があるわ。何が入っているのかしら」
美咲は答えなかった。
胸の奥を、強い不安が締めつけていた。
母の手を振りほどき、箱の前へ移動すると、包装を乱暴に破いた。
中には、仕立てのよいイタリア製のスーツが七着、きれいに畳まれていた。
すべて同じデザインだった。
美咲が毎年、「時間をかけて選んだ」と言って贈ってきた結婚記念日のプレゼントだ。
一番上には、短いメモが置かれていた。
整った簡潔な字は、圭人のものだった。
「持ち主に返す」
「売るなり捨てるなり、好きにしろ」
「直哉に似合うなら、着せてやればいい」
目の前が暗くなった。
圭人はすべて知っていた。
四年目から同じスーツしか贈っていないことも、家族のグループLINEで、毎年愛情深い妻を演じていたことも。
何も言わず、ずっと見ていたのだ。
「圭人!」
美咲はスマートフォンを取り出し、覚えている番号へ電話をかけた。
返ってきたのは、無機質な音声案内だけだった。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
何度かかけ直したが、結果は変わらない。
これまで一度も電話を切らず、必ずすぐに応答していた男が、本当に姿を消してしまった。
母が腕をつかんだ。
「落ち着きなさい。わざと連絡を断っているだけよ」
「こういう頼りない男は、少し放っておけば寂しくなって戻ってくるものなの」
直哉も肩を抱こうと手を伸ばした。
「圭人のことで体調を崩す必要はない」
「終わったものは仕方ない。これからのことを考えればいい」
美咲は毒でも触れたように、その手を振り払った。
「あなたに何が分かるの?」
「私はまだ圭人を捨てていない」
「それなのに、どうしてあの人が先に私を捨てるのよ!」
七着のスーツを見つめる目が赤く染まっていた。
「圭人は私を笑っている」
「全部知っていたって、これで私に見せつけているのよ」
母は美咲の様子に気圧された。
「ただの服でしょう?」
「圭人が気に入らないなら、捨てればいいじゃない」
「あなたは会社の執行役員なのよ。離婚したって、男なんていくらでも見つかるでしょう」
最後まで聞かず、美咲は家を飛び出した。
直哉が慌てて追いかける。
「美咲、走るな!」
「腹の子のことを考えろ!」
美咲は青葉台のマンションまで走った。
直哉と莉央を長年住まわせ、就学のために住民票を置いていた部屋だ。
玄関前に何人か立っているのが見え、圭人が戻ってきたのだと思って足を速めた。
しかし、そこに圭人はいなかった。
同じ階に住む藤原が廊下に立ち、その隣には不動産会社の担当者と、新しい所有者の代理人がいた。
「桐谷さん、ようやく戻ってきたのね」
「この人たち、部屋が売れたと言っているのよ。いったいどういうことなの?」
「売れた?」
頭の中で大きな音がした。
美咲は二人を見た。
「誰が売ったんですか?」
「いつ契約したんです?」
「そんなはずありません」
不動産会社の担当者がタブレットを開き、売買契約書と登記情報を表示した。
「この物件の所有者であった高梨圭人様は、一週間前に正式な売買契約を締結されています」
「決済はすでに完了し、司法書士による所有権移転登記の申請も受理されました」
「新しい所有者は、現状確認と明渡し交渉を代理人へ委任しています」
代理人が、後ろに立つ直哉へ目を向けた。
「現在の居住者と前所有者の間には、正式な賃貸借契約が存在しません」
「新所有者は、三日以内に代理人へ連絡し、任意の明渡しについて協議するよう求めています」
「応じていただけない場合は、建物明渡請求訴訟を提起する予定です」
「三日?」
直哉の声が裏返った。
「三日で何を話し合えっていうんだ!」
「莉央は来月、この住所で青葉第一小学校へ入学する予定なんだぞ」
「今さら住民票を移したら、就学校の指定はどうなる?」
「圭人はどこだ!」
「あいつをここへ呼べ! 莉央の入学を潰すつもりなのか!」
直哉は、自分がただの居住者だという設定すら忘れていた。
美咲の視界が大きく揺れた。
胃の奥から吐き気が込み上げ、下腹部に鋭い痛みが走る。
圭人は、脅していたのではなかった。
本当にマンションを売ったのだ。
住民票を移せば、教育委員会から実際の居住状況を確認される可能性がある。莉央を青葉第一小学校へ通わせる計画は、すべて崩れてしまう。
「ママ……」
混乱に怯えた莉央が泣きながら走り寄り、美咲の脚へしがみついた。
「ママ、どうしたの?」
下腹部の痛みに耐えながら、美咲は莉央の頭へ手を伸ばそうとした。
直哉の頭にあるのは、莉央の入学のことだけだった。
「美咲のせいだ」
「圭人には子どもがいないから、この部屋はいずれ自分たちのものになるって言ったのはお前だろう」
「先に使っても問題ないって言ったじゃないか」
「部屋がなくなったら、俺たちはどうすればいいんだ!」
苛立った直哉は、美咲の肩を押した。
美咲は二歩よろめき、下腹部の痛みをさらに強くした。
生温かいものが太腿を伝う。
視線を落とすと、淡い色のパンツに赤い染みが広がっていた。
「血……」
「赤ちゃんが……」
視界が暗闇に覆われた。
美咲の体が、力なく床へ崩れ落ちた。
莉央の泣き声、直哉の叫び、藤原の悲鳴、不動産会社の担当者が救急車を呼ぶ声が重なり、狭い廊下は一瞬で混乱に包まれた。
5
病室には消毒薬の匂いが漂っていた。
美咲は重いまぶたを開いた。下腹部には、内側が空洞になったような鈍い痛みが残っている。
直哉は窓際を行き来しながら、スマートフォンへ低い声をぶつけていた。
「数字が合わないって、どういうことだ?」
「海外プロジェクトの外注費は、数日後に戻すと言っただろう」
「どうして監査部が急に調査を始めたんだ?」
「内部通報したのは誰だ!」
病室のドアがノックされた。
病院の受付職員が、バイク便の配達員を連れて入ってきた。配達員は薄い書類ケースを抱えている。
「桐谷美咲様でいらっしゃいますか」
「弁護士事務所から、ご本人様に直接お渡しするよう依頼された書類です」
美咲の胸が大きく跳ねた。
受領の署名をし、書類ケースを開ける。
中には、弁護士事務所が管理する暗号化データの閲覧先と、パスワードが記された用紙が入っていた。
その下に、短い文章が添えられている。
「ライネール共和国滞在中の婚姻登録、共同生活、医療記録および偽造された独身証明書について、証拠保全を完了しました」
「婚姻中の重複した婚姻登録、現地当局への虚偽申告および関連文書に関する法的責任については、速やかに弁護士へご相談ください」
紙を持つ手が震えた。
美咲は直哉を見た。
「六年前、ライネールで婚姻登録をしたときの書類……」
「圭人に見つかったの?」
直哉は通話を終え、血の気を失った顔で振り返った。
圭人が姿を消してから続く問題のせいで、以前の穏やかな態度を取り繕う余裕は残っていなかった。
「海外で登録したものまで、調べられるとは思わなかった」
「まさか、あいつがあそこまで調査するなんて……」
美咲の中に残っていた最後の希望が砕けた。
圭人が握っているのは、何枚かの親密な写真だけではない。
偽造した独身証明書、海外での婚姻登録、長期にわたる同居記録、医療記録。
隠してきたものはすべて、弁護士によって証拠化されていた。
圭人は腹を立てているのでも、彼女を脅しているのでもなかった。
正式な手続きを進め、二人の関係を一つずつ切り離していたのだ。
突然、病室のドアが激しく開いた。
髪を乱した母が飛び込み、顔面蒼白の父が後ろから入ってきた。
「美咲、あなたのせいで、私たちは全部失うのよ!」
母はベッドの前まで詰め寄った。
「銀行の担当者が家まで来たの」
「期限の利益を失ったという通知まで届いたわ!」
「直哉に頼まれて署名した書類は、海外事業の一時的な手続きなんかじゃなかった」
「私たちは直哉の会社の借入れについて連帯保証人にされて、家に抵当権まで設定していたのよ!」
「返済できなければ、自宅を競売にかけられる」
「老後資金も定期預金もなくなるのに、私たちはどうすればいいの!」
父は拳を握り、肩を震わせていた。
「すべて、お前が直哉を家へ連れてきたせいだ」
「あれだけ支えてくれた夫がいたのに、どうしてこんな男を選んだ」
「家も老後の金も失うことになった。これで満足か!」
直哉は海外事業責任者という立場を利用し、会社の資金を、自分が実質的に支配するコンサルティング会社へ流していた。
足りなくなった資金を埋めるために、美咲の両親へ連帯保証契約を結ばせ、自宅まで担保に入れさせたのだ。
美咲は病床へもたれたまま、表情を失っていた。
以前、両親は直哉を支持していた。
圭人を見下し、莉央が美咲を「ママ」と呼ぶようになってからは、直哉を実の息子のように扱っていた。
圭人と早く離婚しろと言ったのも、両親だった。
それなのに今は、すべての責任が美咲一人へ向けられている。
両親の怒声、直哉の青ざめた顔、失った子どもの痛み、会社の内部監査、弁護士から届いた通知。
すべてが同時にのしかかり、息をすることさえ難しかった。
圭人はこれまで、いつも穏やかに美咲の後ろへ立っていた。
美咲が望めば、ほとんど何でも受け入れてくれた。
けれど一度離れると決めた圭人は、取り戻す余地を一つも残さなかった。
このときになってようやく、美咲はあの言葉の意味を理解した。
「霊安室でも好きにしろ」
圭人はもう、何も気にしていない。
美咲が誰の子を妊娠していようと、これから何を失おうと、二度と振り返らないのだ。
6
三か月後。
強い日差しが白い砂浜へ降り注ぎ、海を透き通った青緑色に染めていた。波は何度も寄せては引き、裸足の足元を濡らしていく。
俺はビーチパラソルの下に座り、少し離れた場所を散歩する両親を眺めていた。
二人の笑い声が、潮風に乗って遠くまで届く。
新しいスマートフォンが、隣の小さなテーブルの上で光った。
登録されていない番号から、メッセージが届いていた。
「圭人、私が間違っていた」
「本当に、全部分かったから」
「お願い。十年間、夫婦だったでしょう。私を助けて」
「直哉がいなくなったの」
「両親の家は銀行に差し押さえられそうで、会社からも自宅待機を命じられて、社内調査を受けている」
「圭人が起こした不貞慰謝料請求訴訟について、汐見地方裁判所から訴状副本と第一回口頭弁論期日呼出状が届いた」
「どうすればいいのか、もう分からない」
「一度だけでいいから、電話に出て。お願い」
最後まで読み終え、メッセージを長押しした。
削除を選び、その番号を着信拒否へ登録する。
迷いはなかった。
テーブルの上に置かれた、冷えたココナツジュースを手に取った。
口に含むと、柔らかな甘さが舌の上へ広がった。
塩気を含んだ暖かな風が頬をなで、自由の匂いを運んでくる。
目を細め、海と空が重なる水平線を見つめた。
足元に、もう一度波が寄せてきた。
砂の上には、一枚の古い結婚写真が置かれている。荷物を整理していたとき、収納ケースの底から見つけたものだった。
白いウエディングドレスを着た美咲が、幸せそうに笑いながら俺へ寄り添っている。
写真の下に印刷された誓いの言葉は、年月とともに薄れていた。
「健やかなるときも、病めるときも、死が二人を分かつまで」
波が写真の表面を濡らし、細かな砂を運んできた。
しばらく眺めたあと、俺は濡れた写真を拾い上げた。
二つに折り、手元の紙袋へ入れる。
ホテルへ戻る途中で処分すればいい。
海の向こうには、どこまでも広い空が続いていた。
もう、俺を縛るものは何もなかった。




