婚約破棄は受理できません ~絶対に破れない誓約を持つ公爵令嬢、慰謝料代わりに氷の辺境伯を連れて帰る~
短編・約6,000字、10分ほどで読み切れます。
婚約破棄を「契約手続き」で返り討ちにする令嬢の話です。
スカッとしたい方はどうぞ。
私、エルシャ・グラン=アルディスの婚約は、十一年前から誰にも破棄できない。
私の力【誓約】が、あの日の約束を「絶対に破れない契約」に変えてしまったからだ。
なのに。
「エルシャ・グラン=アルディス! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
建国記念の夜会、三百人の招待客の前で、我が婚約者リオネル王子は高らかにそれを宣言してしまった。隣には白いドレスの男爵令嬢。最近王都で評判の「聖女様」だ。潤んだ瞳で王子の腕にすがりついている。
ざわめく広間。突き刺さる視線。憐れみが三割、好奇が三割、残りは全部、愉悦。
公爵令嬢が公衆の面前で捨てられる。社交界にとって、これ以上の余興はない。
私は扇を閉じて、一礼した。
「殿下。理由を伺っても?」
「白々しい! ソフィア嬢への数々の嫌がらせ、証言は揃っているぞ。階段から突き落とそうとした、ドレスを切り裂いた、茶会で毒を」
「その証言、書面はございますか」
「……は?」
「証言者の署名と日時の記載がある書面です。私にはすべての日の所在記録がありますので、突き合わせましょう」
王子の口が、開いて、閉じた。
ソフィア嬢が王子の袖をきゅっと握る。震える肩。完璧な被害者の所作だった。
うん、上手。
前世でも散々見た。「言った言わない」に持ち込みたい側は、いつも書面を嫌うのだ。
そう、前世。私には前世の記憶がある。剣も魔法もない世界で、十年間、契約書ばかり読んでいた。第何条の但し書き。甲と乙。損害賠償の範囲。最後は「みんな残業してるから」という誰も署名していない契約に心臓を差し出して死んだ。
だから神様も皮肉が効いている。生まれ直した私にくれた力は【誓約】。私が当事者になった約束は、双方が合意した瞬間、世界の法則になる。破ることは、誰にもできない。
最初にこの力が発動したのは七歳の春だった。
王宮の薔薇園で、九歳のリオネル殿下は言った。『エルシャ、僕と結婚の約束をしよう』。私は答えた。『はい、お約束いたします』。
その夜、婚約契約書に両家が署名して、鎖は完成した。
以来十一年。契約書を暖炉にくべた夜もある。灰にもならなかった。
だから今夜は、絶望の夜じゃない。十一年待った、解約手続きの夜だ。
「り、理由などどうでもいい! 王族たる私が破棄すると言ったのだ!」
「できません」
静かに、でも広間の隅まで届くように、私は言った。
「この婚約は、破棄できません」
「なんだと?」
「十一年前の婚約契約書、第十二条。『本婚約の解消は、甲乙両名の合意による解約手続きを経なければ行うことができない』。一方的な破棄は、契約上どこにも存在しない行為です」
侍女のマーサが黒革の書類挟みを運んでくる。古びた羊皮紙の写しを、私は王子に手渡した。
王子は反射的に受け取る。受け取ってしまうあたり、この方は根が素直なのだ。そこは十一年間、嫌いじゃなかった。
紙面を睨んだ王子は、次の瞬間、それを両手で破り捨てようとした。
破れなかった。
指先が白くなる。腕が震える。それでも薄い羊皮紙一枚に、皺ひとつ寄らない。
「な……っ、なんだこれは!?」
「おやめください。御手が傷つきます」
広間が、水を打ったように静まった。
ソフィア嬢だけが、じっと私を見ている。その目の温度が、さっきまでの可憐さと全然噛み合っていない。
なるほど。覚えておこう。
「エルシャ、貴様、何をした」
「何も。契約とはそういうものだと申し上げているだけです。ですがご安心を。私も、心の離れた方と祭壇に立つ趣味はございません」
書類挟みから、二枚目を出す。真新しい羊皮紙。昨夜一晩かけて書き上げた、完璧な解約合意書。
「第十二条に基づく、正式な解約のご用意がございます。条件は三つ」
指を一本立てる。
「一つ。慰謝料として、王家より金貨三千枚。公爵令嬢の十一年と社交界での醜聞、安くはありません」
二本目。
「二つ。名誉の回復。本日の『証言』とやらの調査を王家の費用で第三者に行わせ、結果を貴族院で公表すること」
三本目を立てる前に、王子が噛みついてきた。
「ふ、ふざけるな! なぜ破棄される側の貴様が条件を」
「破棄ではなく解約です。それと殿下、合意なさらない場合、この婚約は継続します。私は殿下の妃になります。絶対に破れない契約ですので。式の日取りは来春で?」
「わ、わかった! わかったから条件を言え!」
食い気味だった。ちょっと傷つく。
「三つ目。そちらのソフィア嬢の『聖痕』の鑑定を、神殿立ち会いで行うこと」
空気が変わった。
ソフィア嬢の肩が、演技ではなく、跳ねた。
「せ、聖女様を疑うのか!?」
「疑ってなどおりません。本物なら鑑定は誉れのはず。ちなみに殿下、聖痕の鑑定には聖水を使うそうです。聖水は、描いた聖痕だと滲むとか」
私は何も断定していない。していないが、ソフィア嬢の顔からは血の気が引いていた。
三日前、彼女が王都の画材屋で「肌に定着する銀彩」を買った領収書の写しは、もう貴族院に出してある。言わないけど。
「……鑑定は、後日、神殿と協議する」
絞り出すような声。逃げ道は残してあげたのだから、好きに使えばいい。私の目的は復讐じゃなく、解約だ。
「では、ご署名を」
王子は解約合意書を三度読み返してから、署名した。意外とちゃんと読むのだ、この人は。
私も、署名した。
その瞬間、体の芯で、十一年間軋み続けていた鎖が、ぱきん、と軽い音を立てて解けた。
体が、ふっと軽くなる。
この感覚を、私は知っていた。前世の最期、病院の天井を見ながら思ったのだ。ああ、もう会社に行かなくていい、と。あの時も確かに、体は軽かった。
笑えない。
笑えないので、私は笑顔を作った。公爵令嬢は人前でへたり込まない。
「以上をもちまして、婚約解約の手続きは完了です。殿下のこれからのご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
最上級のカーテシーを一つ。
顔を上げたときの私はたぶん、十一年ぶりに本物の顔で笑っていたと思う。作った笑顔のはずだったのに、変な話だけど。
*
後日談を少し。
調査の結果、「嫌がらせの証言」は全部ソフィア嬢の取り巻きの捏造だった。聖痕の鑑定は実施される前に、彼女が男爵家ごと王都から消えた。逃げ足だけは聖女級だった。
王子は謹慎三ヶ月、貴族院での公開謝罪付き。金貨三千枚は耳を揃えて支払われた。父は「王家相手によくやった」と笑い、母は「もっと取れた」と真顔で言った。母上、怖い。
その夜、私は自室の引き出しを開けた。十一年間、婚約契約書の写しを入れていた引き出しだ。解約と同時に、写しは全部ただの紙に戻って、処分した。
空っぽの引き出しを、しばらく見ていた。
それだけ。閉めて、寝た。
*
解約から二週間後。我が家の応接間に、招かれざる客が座っていた。
黒髪に、冬の湖みたいな目。北方国境の守り手、ヴィンセント・ロス=ファルクラム辺境伯。社交界での二つ名は「氷刃卿」。笑わないことで有名な人だ。
「単刀直入に申し上げる。エルシャ嬢、私と婚約していただきたい」
お断りした。0.2秒で。
「求婚ではない」と辺境伯は言った。眉ひとつ動かさずに。「契約の提案だ。あの夜会を、私は見ていた」
「見世物でしたからね」
「王子ではなく、あなたの手際を見ていた。私には王家から縁談が三件来ている。断り切れない相手ばかりだ。だが婚約者がいれば話は別になる」
なるほど。盾が欲しいわけだ。
「失礼ですが閣下、ご趣味は?」
「帳簿だ」
「は?」
「いや、違う。趣味を持つ時間があれば帳簿を締めている、という意味だ。北の領地は帳簿が焦げ付いていて、常に人手が足りない」
趣味を訊いただけなのに、求人情報が返ってきた。この人、たぶん交渉の場以外での会話に慣れていない。
「期限は一年。その間、あなたは我が領で好きに過ごしていい。報酬は相場の倍。恋愛感情の類は、互いに不要でしょう」
ちょっと待って。
辺境の、焦げ付いた帳簿。誰にも文句を言われず、一年間、契約と数字だけいじって暮らせる。
それ、私の前世が夢に見た楽園では?
「条件を詰めましょう。契約書はこちらで起草します」
「話が早い」
氷刃卿の口の端が、ほんの一ミリだけ動いた。あれはたぶん、あの人なりの笑顔だ。
こうして私は、人生二度目の婚約契約書を書いている。今度は偽装だけど、条項は本物だ。
第七条まで書いたところで、ペンが止まった。彼が「入れてくれ」と言った条項。
『第七条 本契約は偽装である。従って、いずれの当事者も、契約期間中に相手方へ本気の恋愛感情を告白してはならない』
そんなの、わざわざ書かなくても。
そう思いながら署名した。彼も署名した。私の【誓約】が、静かに発動する音がした。
ちなみにこの第七条を、私は半年後、心の底から呪うことになるのだけど。
その話は、また今度。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございました。
エルシャの物語はここで一区切りですが、この後の「氷の辺境伯との偽装婚約生活」と「焦げ付いた帳簿との戦い」、それから彼女が第七条を呪うことになる顛末は、反響次第で連載として書こうと思っています。
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感想もお気軽に。全部読みます。
——一条かすみ




