プロローグ 水晶玉の伝説
その峠はかつて、名もなき峻険な山に過ぎなかった。
大陸の東端に座する「アルバ峠」。かつてそこには、人々のささやかな営みがあり、山裾には穏やかな村々が点在していた。しかし、一発の光がその運命を永遠に変えてしまった。
「峠の水晶玉」。
手にした者のいかなる無理難題も、理を歪めて叶えると謳われた伝説の秘宝。その輝きは権力者たちを狂わせ、血で血を洗う争奪戦を巻き起こした。だが、長き戦いの果てにようやくそれを手中に収めた覇者でさえ、水晶玉が放つ底知れぬ魔力に戦慄した。
「これは、人の身に余る代物だ」
恐怖に駆られた覇者は、水晶玉をアルバ峠の頂へと運び、厳重な封印を施して立ち去った。
異変はその直後から始まった。
封印された魔力に惹かれるように、雲を裂き、天を舞う巨影が集まり始めたのだ。空を統べる覇者、ドラゴン。かつては人里離れた地に棲むはずの彼らが、アルバ峠を巣食う「棲み処」へと変えたのである。
ふもとの住民はドラゴンの脅威にさらされ、家を焼き払われ、命からがら住み慣れた土地を捨てる羽目になった。秘宝を求めて山に踏み込んだ冒険者や騎士たちも、その大半が竜の炎に焼かれ、物言わぬ屍となって山肌に晒された。
いつしか、世間には不穏な噂が流れ出す。
「水晶玉は、手にした者に強大な力を与える代わりに、その心をどす黒い邪悪に染め上げる呪いの宝だ」
それが真実か、あるいは誰かが欲を遠ざけるために流したデマなのかは分からない。ただ、人々の記憶から「願いを叶える奇跡」の側面は消え去り、アルバ峠は死と呪い、そして竜が支配する禁忌の地として語り継がれるようになった。
――時は流れ、現在。
誰もが見上げることをやめた呪われた山並みを、じっと見つめる一人の若い女性がいた。
彼女の瞳に宿るのは、富への渇望か、あるいは無謀な好奇心か。その背中には、覚悟を決めた者特有の静かな熱が宿っている。
畏怖の象徴となったアルバ峠の頂を目指し、彼女は静かに歩みを踏み出した。
それが、後に大陸を揺るがす戦乱と冒険の始まりになるとは、まだ誰も知る由もなかった。




